二章

一話 花はお好きかしら?

 いつもの帰り道をナナはルンルンと歩いていた。理由は職場を早く上がったから。単純明快な理由だけにナナの心は弾むように喜んでいた。


 最近は店を閉める時間がやたら早い。お客さんが来ないこともあるが、店を閉めると同時に珈々がよく店を離れることも要因の1つだ。


 どこに行っているのか、ナナには見当もつかなかったが、深く探りも入れなかった。あまり関心がない。率直な意見だった。

 

 ここ数日は自分以外の人たちがどうにも慌ただしく見えて仕方がない。香花は帰ってくる時間が遅いし、珈々が店を離れるのも一度や二度の事ではない。一奈の銭湯は忙しいながらもたまに閉まっていることがある。


 だが、ナナからしたらそれは他人事でしかなく、大変なんだろうなぁという想いしかなかった。


 香花さんの帰りが遅いのは少し寂しいけど……忙しいのはみんなも同じだし、私一人でも心配かけないようにしていなくちゃ。


 今日も家に着いた時、香花がそこにいるかは分からない。いなかったら、家の掃除でもするか。とナナはそんなことを考えながらぼんやりと日暮れの帰り道を歩いていた。


 近くの海から香る潮のにおいと風を感じながら、姿を隠さんとする夕日を眺め、ナナは心地よさを感じながら帰路を辿った。


 そんな時だった。ふと、花の匂いがした。


 …………


 ナナは特に考えることもなく、その匂いが香る方へと足を運んだ。砂道から離れ、草むらで整備されていない道を決められたルートがあるかのようにまっすぐと歩き、生い茂る木々を通り抜ける。


 花の匂いが強くなるにつれ、ナナの歩行速度は徐々に早くなり、ついには駆け足になる。慣れない道を走る抵抗や疲労を感じることもなく、ただ本能で匂いの出所を目指す。通ったことのない道をナビがあるかのように進み続け、その場所を目指す。


 そうして、ナナは足を止めた。そこは、森の中とは思えないほどに開けた場所で、色鮮やかな花々が咲き誇り、蝶がその上を舞うおとぎ話のような空間だった。中央には透き通った水であふれている泉があり、いつの間にか昇っていた月がその月光の輝きを反射させていた。


 何の躊躇いもなく、その場所にナナは足を踏み入れた。開けたその場所を不思議がることもせず、蝶を眺めて泉に視線を移すと、その水面をしんみりと見つめる少女が一人いた。


 短髪で、その泉のような薄青色の髪。ツインテールで、高めの位置に髪は結ばれていた。頭の左には髪飾りをしており、黒いドレスを身に纏っている幼い容姿の少女。


 その少女がこちらには目もくれずに、静かな声で歌を歌っていた。周りにはそれに感化されるように蝶々が舞い、月夜に照らされ、メルヘンな一面がそこにあった。


 そうして、歌が終わる。その刹那、今まで見惚れていたナナは自我を取り戻した。


「……? あれ? ここは? え、どこ! 何この場所!」


 見渡す限りの自然。確かに自分はさっきまでいつもの帰り道である砂道を歩いていた。それが気が付けば、こんな森の中。見知らぬ少女が前にいて、自分はただそれを傍観していた。


 唐突な展開にナナは思考が追い付かなかった。


「うふふ、そんなに怖がらなくてもいいですわ」


 少女が優しくこちらを見つめ、微笑んだ。透き通るようなそよ風に乗って運ばれたその甘くて高い声にナナは少し聞き惚れてしまう。


「よいしょっと」


 少女が泉の近くから立ち上がり、ナナの方へとゆっくり歩く。その風貌からナナは勘違いしていたが、少女はナナ以上に身長が高かった。珈々と同じくらいに匹敵するその身長で、少女はナナの前へと訪れた。


「花はお好きかしら?」


 釘付けになるナナを相手に少女は屈み、顔を近づけ耳元で優しくささやく。


「は、はい……」


「そう……なら、良かったですわ。わたしも好きですの」


 そう言って、少女はナナに抱き着く。ナナは抵抗もせず、ハグを受けた。スマートなその一連の流れに、全く嫌気を感じなかったのだ。


「あなたのような小柄でつつましい蝶のような女の子は……美味しそうで仕方がないですの!」


「えっ?」


 そう言い切ると、少女は口を大きく開けナナの首筋を齧り付こうとする。横目にそれを見たナナだったが、この距離感と油断から反応すらできなかった。


 ギザギザで綺麗に並べられた鋭い歯。少女は地人だった。

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