八話 接吻
あの演説から数時間が経った。カフェから幾度か離れた小さな小屋のような何か。不死川家はそこにあった。主の香花はおらず、ナナだけがそこにいた。
「まだやることがあるの。悪いけど先に帰って」
返事を口ごもったナナの肩に手を当て、香花は愛想なく口にした。その手にナナは渋々「はい」と短く返した。伝えたい想いがあったものの、この大衆の中、それを話すのも気が引けたので、ナナは大人しく指示に従った。言い訳苦しくなるが、香花は多忙そうだった。ならば仕方ない。
演説の時、ナナは目を疑っていた。あの荒々しさを露わにしているのが香花であることに。日々クール、日々慎ましい彼女が鬼気迫る大喝采を演出していることに。
初日に見た現地人との会話からはあれほどなまでに恨みを抱えているとは想定できなかった。ナナ自身にも現地人に対する嫌悪感はあるが、それよりも恐怖が勝っていた。新参者のナナからしてみれば、香花達がどのような境遇に置かれていたのか、創造するほかない。
……争いごとになるんだろうか。集会の時、そんなことを宣誓していた。もしかしたら、ナナの帰った今、香花達は上半師という女王と一戦交えているのかもしれない。香花の生命が危ぶまれる行為は反対だった。だが、あんなに大勢の人の前で宣誓した以上、もう後戻りはできないだろう。その気が弱ければ布告したりしないだろうし。
……嫌だな。率直な意見だった。そうしていると香花が戦場で傷だらけになりながら血を流している様子がふと過り、座っているのに怖くて足が震えだした。どうしようもなくまた涙が出そうになる。唇を嚙んだ後に、ゆっくりと深呼吸をし、情緒を安定させる。心拍を一定のリズムになるよう、思考を停止させた。帰ってきたら告白だけはしなくちゃ。それだけを覚えながら、ナナは部屋を暗くして眠りにつくのを待った。
夜中。呼吸と虫の音が微かに共鳴する。香花が帰ってくる前にどうにかなってしまいそうな感情を保つのでナナは精いっぱいだった。そんな時ドアは開いた。
ガチャリ。
開かれたドアの向こうをナナはそっと細い目で見た。しかし、角度の問題上それは確認できなかった。ナナはゆっくりと立ち、恐る恐る玄関へと忍び足で進んだ。香花なら帰ってきたときに「ただいま」と挨拶するはずだがそれがない。違和感を覚えていたナナだったが、玄関の状況を見たのちに、安堵した。外の月光で微かに確認できた人物はどう見ても香花本人だった。のちにドアはぱたりと締まり、香花は背を向け靴を脱ぎ始めた。
「香花さん、お帰りなさい……」
返答はない。黙ったまま、立ち上がりナナのほうへと振り向いた。……いつもと違う。ナナは違和感を覚えた。目の前にいるのが、香花そっくりの人形かのようだ。口数が少ない彼女ではあったが、挨拶を返さないような不届き者ではない。暗い部屋の中、目が慣れていたナナには香花の顔つきが真剣であったかのように見えた。
「こ、香花さん……一体何が……」
「ナナ……」
「はい、え?」
動揺するナナめがけて香花は倒れ掛かった。
「え? あ、あ」
体重すべてを掛けられ、ナナは抵抗するすべもなく倒れる。
「え、ちょ! 香花さん!」
とにかく声を荒げた。抵抗はむなしく、ナナは両手を強く握られ、動かせないように固定された。そうして何もできないまま、香花の顔はナナの顔へと寄っていく。……そうだったんだ。にわかに信じがたいが、香花は性的にナナのことを直視していたのだ。そう飲み込むとなぜか抵抗力は弱まった。
香花さんが私を求めている。ならば、私は応えるべきなのか。身動きが取れないこの状況で、一方的な欲求を要求されているのに。私は……嫌だとは思わない。この状況を。つまり……私は。
香花さんが好きだったんだ。
もう抵抗はしないナナに香花の唇はもう数センチのところにあった。
「ナナ……」
「香花さん……」
お互いの名前が漏れ、そうして二人の唇は重なった。玄関からすぐの畳で。
接吻から出る「んっ、んっ」という声はもはやどちらのものか分からない。キスをしながら、香花は舌でむりやりナナの唇を開ける。口移しのように香花はナナの口に何かを含ませた。
……何……この味は。
めちゃくちゃにされながらも、ナナはその液体に違和感を覚えた。決して今までの人生で口にしなかったものの味。異物を察知した。でもそれを飲んだ。決しておいしくはない、飲んだ理由は香花が口移ししたから、それで充分だった。それだけでナナは承認欲求が満たされた。苦しみながらもそれを飲み干した。
1分以上にも及ぶ長い接吻の後に、香花は唇を離した。唇からは白く光る糸が見えた。その糸は、距離が遠のくにつれ、ゆっくりと途切れた。その直後、ナナの意識は遠のいた。視界は霞み、香花の顔はぼやけ始めた。
「香花さ……ん……」
自分の身に何が起こっているか分からないナナはそのまま深い眠りに落ちた。香花への好意を伝えられずに。寝息を立てだすナナに香花は耳元で言った。
「ごめんね、ナナ」
と。らしくない涙を浮かべ、短く呟いた。
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