失恋天使、理想と現実を知る。

第一話 失恋天使、理想と現実を知る。


  1


「『花恋』は神だ」

 アールは言った。それを聞いていたエルが、うんざりするように肩をすくめる。コーヒーカップを口に運んで、一口すすってからアールは繰り返し言った。

「『花恋』は神──」

「もういいから」

 エルが手で制した。

 アールは無表情のまま口をつぐんだ。すると、周囲の喧騒が耳に入ってくる。駅中のカフェテリア、そのうえランチタイムを過ぎた休日の二時ごろとなると、さすがに人が多くなる。奥のボックス席に座ったものの、ちょうど壁際で、そこが全面ガラス製なので構内を行き交う人々の姿がよく見える。ときおり、あちらと視線が合ってしまうことがあって、ロマンはあまりここが好きでなかった。

 バッグからライトノベル『花に恋をし、恋は花となる』を取り出して、膝許にそっと置いた。ビニールのブックカバーをかけていて、天井のLEDライトが照りつけて帯状の反射光がちょっと目に沁みた。

「いい?」子供を諭すような口調で、彼女は言った。「あなたがこうして人間界に降りてきて、本屋に詰めて新刊を買ったり、お店でグッズを買ったり、好きなアーティストのライブに行くのは構わないの。でもね」

 人差し指を天井に突き立てて、彼女は語気を強めて言った。

「仕事だけはちゃんとしてよねって、私、ちゃんと言いましたよね」

 アールを叱るとき、必ず彼女は敬語に戻る。古くからの付き合いで、よく知っている癖だ。

「だから、いまから仕事をしようっていうんじゃないか」

「今回の仕事、期限はいつまででした?」

「……昨日」

「ですよね」

 はあ、とエルは浅く息を吐いた。

 彼女は椅子の傍らに立てかけていたビジネスバッグを太ももの上に置いて、ファイルを取り出す。中には、二、三枚程度のA4プリントが入っていた。そしてその下には、ビニールに包まれた衣服が入っている。バッグを元の位置に戻して、ファイルをアールに向けた。

「これ、資料と制服です。前回の標的はすでに別の者が代行してくれましたが、今回は誰も手助けできませんから。頼みましたよ」

「……期限は?」

「一週間です。つまり、来週の日曜までですね」

 ということは、だいたい四、五冊ほど読めるわけだ。積読しているぶんのラノベは、いまだ百冊ほど残っているわけだが、それをすべて頭の中に叩きこむまでどれほどの時間が必要だろう。

「積読ぶんの小説を読めるまでどれほどの時間が必要だろう、とか考えてるよね」

「考えていないといえば、嘘になる」

「正直すぎるところが、あなたの美点と汚点ね」

「それはどっちだ?」

「長所と短所は両立するものよ」

「人間じゃあるまいし」

「とにかく!」エルが大きく息を吸って言った。「私たちは恋をぶっ壊すキューピッドなの。

咲いた恋、咲きかけの恋、違う種から芽生えた恋、それぜんぶをリセットする。それが私た

ちだから! ひょろりと寄り道するために来てるわけじゃないから! ここ重要!」

 エルは声がでかい。そのせいで周りの客たちの視線を集めている。みな一斉にアールとエルを見ているものだから、その動きが気になった店外の通行者も視線をたどって彼らを見ている。半ば面白がるように、半ば怪訝そうな目があって、アールはすっかり萎縮した。


  2


 アールは〝会社〟から与えられたアパートに戻って、本棚に並ぶ数々のラノベや漫画を見た。グッズまではさすがに持っていけなかったが、これだけあれば仕事を終えるまでのいとまはもはや脅威ではない。

 会社がくれた仮の住まいは、家賃二万程度の四畳半部屋だった。九十年代の苦学生の住まう下宿先のような風情があるが、駅からそれほど遠くないうえに格安なので、金に困ったならここに駆けこむべきだ。とはいえ、トイレは和式、風呂はなし、洗濯機は廊下にむきだしなので、あまり住み心地がよさそうには思えないが。

 しかし、一定のあいだ、ただ寝て起きるだけの生活をするならこれで充分だと彼は思った。

 畳の上で寝転がりながら、今日買った『花恋』の第六巻を読み始める。最近の流行りである百合もののラノベだが、陰陽師という要素が絡んでいて、今回では式神であった八代が擬人化して、主人公カップルの片割れにアタック中という展開だった。このジャンルに明るいとある界隈では炎上が予想されたが、いざ発売されると彼らも手のひらをひっくり返している様子が話題となった。

「百合のあいだに挟まるな、とは言うが──」

 アールは、文章をつらつらを読みながらつぶやく。

「まさか式神が百合に挟撃されるとは、誰も思わないだろうな」


  3


 月曜の朝。

 五時に起床し、昨夜読んだラノベを頭から尻まで読み直して、しっかりと頭の中で映像を組み立てた。何度も読み、情景を思い浮かべ、あとはそれらの場面を繋げることで疑似アニメを脳内で作り出すのが、アールの得意技だった。ちゃんと声優もキャラに当てはめて、彼の脳裡はすっかりテレビモニターである。

 オープニングからエンディングテーマ(これは気に入った曲の中でイメージに合うものを厳選している)まで垂れ流して、まず歯磨き、洗顔、トイレ、朝食といったルーティンをこなす。それから会社から支給された変装用の制服を着こむ。これには、催眠効果が付与されていて身に纏えば、向こうの生徒や教師が見ても『本校の生徒』と思ってくれる。たとえ地底人が見てもそうなる。

 今回の標的ターゲットは、アールが向かっている高校に在籍している女子生徒だった。名前は園井麻衣そのいまい。自分の気持ちをなかったことにしたい、らしい。

正門前まで来ると、生徒会の腕章をつけている生徒たちが何人か立っていた。荷物検査らしい。アールはそれを通り抜けようとするが、当然、捕まってしまう。

「ちょっと、まだあなた検査受けてませんよね」

「これから受けるところです」

「では鞄を」

 眼鏡をかけた女子生徒だった。眉間に般若のような深いしわを刻みつけているが、顔そのものは可愛らしかった。しかし、どこかで見たような顔である。

 彼から鞄をひったくった女子生徒は、失礼いたしますと言って手を突っこんだ。無遠慮な態度だが、それは同時に勇気に満ちた行動だと思った。アールは待った。すると、女子生徒は一冊の本を取り出してぱらぱらとめくった。

 がっ──

 とつぜん、女子生徒があんぐりと口を開けて絶句した。と思えば、顔をあげてアールを睨みつけ、囁くように言った。

「……こ、この液体にまみれた女の子ふたりはなんです?」

 そこには、たしかに少女ふたりが巫女服で液体にまみれて、跪いている姿が描かれている。それは挿絵だ。ちょうど、物語の中盤に差しかかったところで式神の奸計にかかった主人公たちの哀れな姿が表現されている。

「ちょっとしたハプニングによってこうなったんです」

「経緯を聞いているんじゃありません」

「ネタバレは嫌ですよね」

「わたしが興味を持つとでも?」

「え……興味を持っているから尋ねているんじゃ?」

 違いますっ、と女子生徒は叫んだ。アールはびくっ、と身を震わせる。素早く視線を四方に走らせると、百個以上もの眼球が彼のほうを向いていた。どくどくと心臓が早鐘を打つ。

「こちらは没収させていただきます。風紀を乱しますからね」

 すでにこちらは調子を乱されている──。

 アールは額に滲む汗を腕で拭うが、彼女の言葉が遅れて脳に入ってきた。いま、没収すると言われたのか?

「いや、あの、なぜなんです」

「風紀を乱しますから」

「ですが、ただハプニングでこうなっているだけで」

「ハプニングですって?」

 詳しい経緯を説明して、清廉潔白なことを証明したい。が、それをするにはまず第一巻から順を追って説明していかねばならないし、なによりそれはアールのポリシーに反する。作品を全力で楽しむなら、他人からの情報をできるだけシャットダウンして、ほぼ予備知識ゼロの状態で臨むべきである。

 ようするに。

 ぜったいに、ネタバレだけはしたくない。

「どうやら、言い訳もできないくらい戸惑っていらっしゃるみたいですね」

「…………」

「それでは没収させていただきます。放課後、生徒会室に来るように」


  *


 なんでこんなことになったんだろう。

 あのあとも、同シリーズのラノベ全巻を検閲された。没収された。そのほかにも一冊だけ異能バトルものがあったが、それにはとくに気になる箇所はないらしく鞄に戻された。そうしてアールは静かに1-Cの教室に入って、窓際の席に腰かけ、半ばやけになって突っ伏していた。

 あれは、本当にただのハプニングってだけなのに。

 言わないとわかってはくれないだろうが、それを口にすることは自分自身が許してくれない。無駄な足掻きだ。足掻くことすらしていないけれど。

 アールは机のフックにかけていた鞄から、昨日もらったファイルを机に出す。ホッチキスでまとめられたそれを一目見て、まず目に留まったのは写真だった。それは今回仕留める目標の顔が映っている。昨夜、第六巻を通読し終えたあとでほんの数秒、見ただけなので憶えていなかった。

 ──あれ。

 その顔写真と、正門前で『花恋』をかっさらった女子生徒を重ねる。ぴったり合う。とくに、この眉間のしわが一寸たりともズレずに重なり合った。

 面倒なことになった。

 標的に顔を憶えられてしまったうえに、接触せざるを得なかった。彼は立ち上がり、男子トイレへ駆けこんだ。スマホを取り出して、エルを呼び出すとワンコールで出てくれた。

『終わった?』

「終わってない」

『だろうね』

「もしかしたら失敗したかもしれない」

『はぁ!?』

「失敗はしてない」

『当たり前でしょ、昨日の今日で失敗に終わらせてたまるか!』

 きーん、と耳に響く金切り声。

 アールは事情を話した。最初こそ声の尖っていたエルだったが、徐々に落ち着きを見せ始め、丸みのある声に戻っていった。

『まあ、たしかにハプニングではあるけど……あなたなら、その程度巻き返せるでしょ?』

「でも、また会わないといけない。怖い」

『はいはい』

 呆れたようにエルがため息をつく。

『大丈夫よ、あなたならそれぐらい乗り越えられるわ。これまでだってそうだったじゃない』

「そうかな」

『うん。私が保証する』

「わかった、ありがとう」

 電話を切って、アールは一息ついた。ついでに小便を済ませてから教室に戻ると、途中の廊下でやつとすれ違った。彼女が彼を見た瞬間、眉の下で瞬きをする。校門前で見たあの深いしわの眉間は、いくらかやわらいでいた。

「あ」

 と、彼女は声をあげる。

 園井麻衣だ。アールは自分の身体が強張るのを感じた。視界をそらそうとした直前、園井の頬に朱が差し、頬から耳、額へと熱が伝わって赤くなった。

 アールの横をそそくさと通り過ぎて、振り返ったときにはすでに影も形もなく消えていた。


  4


 放課後になると、アールは生徒会室に向かった。職員室の扉から少し離れたところにあるスチール製の扉の前に立つと、ドアノブが崖の向こうにある錯覚が脳裡に入りこんだ。彼は三秒数えて扉を開けた。すると、奥の机にただひとり座っている女子生徒がいた。

 細い眉を上げて、ぱちくりと瞬きさせる。アールも同じ仕草をした。彼女は、すぐに状況を理解してふっと微笑んだ。その笑みがアールの緊張をほぐすかと思えば、さらに肩に力が入ってしまった。カリスマのスマイルというのは、人間を問わず効果を発揮するものらしい。

 後ろ手で扉を閉めると、さっそく彼女が口を開いた。

「わたしに何かご用でも」

 アールは首を振った。「今朝、荷物検査で没収されたものを取りに来たのですが」

「それはそれは」と両腕を広げる。彼女の仕草はいちいち舞台上にいるかのように大げさだった。「たぶん、麻衣ちゃんがやったんだろうね」

 ええ、そうですとアールはうなずいた。

「ちなみに、なにを没収されたのかな」

「『花恋』です」

 と言うと、たった一瞬だけ、アールは彼女の微笑みを崩すことに成功した。

 ただ素直に喜べることでは決してない。『花恋』といっても伝わらない場所がこの世にはいくつもあって、そのほとんどがこの世界を構成していると思うと、やはり物足りないと感じてしまうのだ。

「ライトノベルです」

「なるほど」とようやく合点がいったようだった。

 しばらく彼女が代わりに探してくれた。没収した検閲物は戸棚のダンボール箱に入れておくようだが、中身をぜんぶぶちまけてもアールの愛読書は見つからなかった。この部屋の隅にまで目を通したが、どこにもないという結果に終わってしまった。

 アールは淀んだ瞳を彼女に向ける。彼女のほうは、両手を振って憔悴の上に作り笑いを浮かべて言った。

「別に隠したわけじゃないよ。たぶん、あの子が持っているんじゃないかな」

「園井麻衣ですか」

「そうそう」

「では、彼女はどこへ?」

「今日は休むと言っていたからね」

 アールが諦めて振り返ろうとすると、ちょうど戸口に誰かが立っていた。彼は目を見開いて、その男を見る。瘦身長躯の堅実そうな男で、シャツを着るときは首許のボタンから閉めそうな雰囲気があった。

 彼は軽く会釈をしてアールの脇を通り、女子生徒の近くに寄った。

「会長、部費を減らせと言ったら弓道部から多数の反対意見が届きまして」

「やはりか。まあいいよ、すでに見越していたことだ。それなら、わたしから直接出向こう。上の者同士が話をつけるのが手っ取り早い」

「わかりました、こちらで話は通しておきます」

「ああ──ところで、副会長」

「はい?」

「今日、活動が終わったあと、その、どうかな。わたしとお茶でも?」

「え、ええ……構いませんが」

 よっし、という囁き声。視界の端で拳を握りしめるときを、アールは見逃さなかった。

「では、そういうことで」

 はあ、と副会長は首をひねりながら部屋を出ていった。そのとき初めてアールの姿に気づいたとでもいうように、会長と呼ばれた女は大げさに口を開けた。

「な、なんでまだ……ひょっとして話の途中だったかな」

「いえ」

 アールは素早くその場を辞去して、学校を出た。最寄りの駅へ飛びこみ、三駅先のところで降りる。横幅の広い改札を抜けると土産屋が立ち並び、その脇をかいくぐるようにして迂回すると、本屋にたどり着いた。ライトノベルコーナーに駆けこみ、ラブコメ、ファンタジーの新刊を一冊ずつと今月の新作群から一冊を選び取り、レジに通してもらった。

 また電車に乗って戻ると、すでに日が傾き始めていた。アールは徒歩で国体道路沿いのカフェテリアに身を落ち着かせ、さっそく新刊を開いた。一ページ、二ページ、三ページ……文章を読み進めていくと、目の疲れを感じて開いたままの本を膝許に置いた。目と目のあいだの出っ張った部分を指で挟み、何度か瞬きをする。それから顔を正面に向けた。まっすぐ伸びる視線の先に、見知った顔があった。

「……なにをしているんだ」

情報が処理しきれず、彼女はほんのちょっとのあいだフリーズしてしまったが、すぐに元の調子に戻った。

「うっそ、完璧な変装だったはずじゃ」

「どこが?」

 園井はあわあわと慌て始め、アールから視線をそらす。あらゆる場所に視線を走らせると、やはり最後に彼女が目に留めたのは彼だった。アールはページに栞を挟んで、閉じる。コーヒーをすべて飲み干して、さっさとカフェを出ようとすると、彼女の持っているものが視界に入った。二歩進んで、思わず三歩下がった。

「それはなんだ」

「ひえっ」

 園井の目がうるうると潤み出す。

「『花恋』、じゃないか……」

「いいいいいいや、あの、これはその……!!」

 『花恋』を閉じて、乱暴に鞄の中に突っこむ。アールは向かいに座って、彼女の鼻先にくっつくほど近い距離で指先を向けた。

「もっと大事にしなさい」

「へ?」

「そんな乱暴にしまったら、折り目がついたり破けたりする。状態を保つことが、ラノベ読みに、いや本読みにとって最も大事なことだよ」

「は、はあ」

「……ところで」アールはそわそわしながら言った。「その、どうだったんだ?」

 園井は首をかしげる。だが、すぐに言葉の意味を理解して口許を緩ませた。

「す、すごく面白い……です」

「だろう!」

 アールはぱっと目を輝かせて、言った。が、いまの自分の姿を俯瞰して強張った筋肉が萎えてしまう。騒ぎ立てることが嫌いで、注目されることがもっと嫌いなはずなのに、いま自分が矛盾した行動に出たことが気恥ずかしかった。

「その、怒らないんですか?」

 いたずらを告白する子供のような濡れた瞳で、アールを見上げる。

「怒る? 怒るわけないよ。全巻、きみに貸そう。いつでもいい──嘘だ。明日までに読んで、俺に感想を伝えてくれ。そして、存分に語り合おう」

「あ、いちおうわかってはいたんだ」

 と、園井はぼそりとつぶやいた。

 彼女が読んでいたライトノベル『花恋』が、今朝没収されたアールのものであることは一目見たときから承知していたし、なぜそのまま返してくれないのかという義憤もあった。ただし、こうなれば話はまったく変わってくる。

「そういうことだ。あ、これコーヒー代だ」と言って、一万円札を置いた。「このぐらいあれば、閉店間際までいられるだろう」

「ちょっ、こんなもの受け取れな──!」

 アールはさっさとカフェテリアを出ていって、徒歩でアパートメントに帰った。すでに鍵が開いていたので、きっとやつがいるのだろうと思った。ドアを開けて畳の間に入ると、ちゃぶ台で勝手に湯呑みで茶を味わっているエルがいた。

「不安とは言ったが、わざわざここへ降りてこなくてもいいよ」

「そういうわけじゃないのよ」とエルは言った。「いえ、そういうわけもあるにはあるんだけれど、これが依頼だということを伝え忘れていたの」

「それはそれは」

 言いながら、アールは畳の上であぐらを掻いた。

「うちはれっきとした会社のはずだけれど、依頼なんてあったんだな」

「いちおう、制度としてね。うちのボロ神社にわざわざ一万円札入れて、願ったやつがいるの。その人が園井麻衣で、かつ依頼人。内容は『わたしの気持ちをなかったことにしてください』というものね」

「いまじゃ誰とでも繋がれるのに、ご苦労なことだな」

「誰とでも繋がれるからこそ、それが嫌になって閉じこもっちゃうのよ。むかしなら、きっと繋がりを求めて人と触れ合うことを選ぶ人が多かったはず」

「ずいぶんと人間に詳しいんだね」

「あなたほどじゃないわ」とエルは微笑んだ。

 彼女がアールの愛読書のことを指していることに気づいたのは、少し遅れてからだった。

「残念ながら、あれを人間と思って読んでいないよ」

 じゃあなに? といった目でエルが見つめてくる。

 アールは答えなかった。彼女にいくら説いても、きっとわかりやしないだろう。彼のその諦めを察して、エルが咳払いをする。

「依頼ってことは、あなたはライトノベルを読むこともせず、アニメを観ることもせず、とにかくオタ活せずに仕事をまっとうしなければならないの」

「なによりも優先すべき業務だから?」

 エルはうなずいた。なんだ、ちゃんとわかってるじゃない、と。

「気持ちをなかったことに、なんて──やっぱりみんな疲れるものなのかな」

「生きているということは、体力を消費し続けているということなのだから、当然ね」

 エルは素っ気なく答えた。そのあと、ただ相槌を打つだけのマシーンとなったエルにアールは自身の愛読書の魅力を伝えた。もう何十回目のスピーチで、すべて万人に魅力が伝わりきるようにするための練習だった。彼女は、アールの趣味には介入しないし受け入れもしないが、決して否定はしなかった。彼は、エルのそういうところが大好きなのだ。

 エルに「今日は泊まっていってよ」とお願いをした。ベッドがあればね、と言って彼女はアパートメントを出ていった。


  5


 翌日。

 アールは依頼を終わらせるために、まず必要不可欠なのは銃だった。むかしキューピッドは金の矢で人に激しい恋心を植えつけたそうだが、いまは銃が使用されている。三十二口径の拳銃の支給をもらい、アールは園井のもとへ向かった。

 彼女は生徒会室にいた。いまは昼休みで、みな食堂や校庭のベンチに散らばって食事を摂っている。園井もそうかと思われたが、彼女は熱心に『花恋』の最新刊をぺら、ぺらとめくっていた。喰いつくような瞳は、いまにも飛び出して机の上をころころと転がっていきそうだった。

 アールは後ろ手で扉を閉めて、その脇に立って待った。園井がこちらに気づく気配はなく、およそ十五分ほど経ったあと、彼女は悩ましげな声をあげてその本を閉じた。望んでいた反応だった。ああ、読み切った──じゃない。読み切ってしまった、という罪悪感と強欲さが顔に滲んでいる。

 彼女と相対するように座ると、ようやく気づいたらしく「あ!」と声をあげた。

「七巻がな、」

「出るんですか!?」と園井が身を乗り出す。

「まだだ」

「はあ……」

 背もたれに沿ってのけぞると、園井は先ほどよりも深いため息をついた。

「っていうか、いつからいました?」

「十五分ほど前だな」

「なっ! じゃ、じゃあ……声、」

「聞いていたよ」とアールは答えた。「いい傾向だと思う。俺も、読んでいるときはひとりごとをつぶやくんだよ」

 え、なんでそうなるの。うそでしょ、あんたやっぱ敵じゃんっ。『過去はなくても、未来は生きていける』、いい言葉だなあ。

 いちいち思ったことを口に出す癖があるようだった。アールにもある。癖というより、話し相手がいないからよくひとりごとをぶつぶつ言うのだ。エルには、淋しそうねとよく言われる。淋しそうじゃない──淋しいのだ。

「感想を聞かせてよ」今度はアールが身を乗り出した。「読了したてのほっかほっかの感想を聞かせてほしい」

「……え。いや、でもわたし、たぶん上手く言葉にはできないと思うんですが」

「感想に上手い言葉なんて必要ない。ありのままの思いなんだから」

 園井は眉を上げて、その表情から驚きを感じた。いったいなにを驚いているのか見当もつかなかったけれど、アールはそれより彼女の思いを聞きたかった。

「羨ましかったんです」

 まず、彼女が口にしたのはそれだった。

 なにが、とは訊かない。

「主人公ふたりの関係に、そう思ったんです。女の子同士で、ここまでお互いを愛することができるなんてすごいと思って」

「なるほど」とアールはうなずいた。

「同性だからこそ、そういう生々しさとか痛々しさとか、ぜんぶ知ってるものなのに……きっと、本当の『眼』でお互いを見ているんだろうなって」

 ふむふむ、と彼は唇をすぼめた。

「ほかの要素も面白かったと思いましたが、やっぱりわたしが惹かれたのは、二人の関係でした」

 最後にそう結論づけて、彼女は半ば不安で、半ば自信がこめられた双眸でアールを見つめ返した。

 彼は、その視線に呼応するようにうなずいて、言った。

「きみこそ、本当の『眼』で見てくれているのかもしれないな」

「え?」

「なんでもないよ」

 アールは微笑んだ。


  *


「お疲れさま。やればできるじゃないって褒めるのは、これで何度目かしらね」

 前にエルに叱られたときにいたカフェテリアで、同じ席をとり、今度は誉め言葉に似た皮肉をもらった。アールは彼女には一切目も向けず、机の下で『ビーストハント』シリーズの第五巻を読み続けていた。すると、彼女のハイヒールの先が彼の脛を強打し、思いきりのけぞって、そのまま倒れてしまう。

 お客さま、大丈夫ですかとウェイトレスがやってきて、アールは大丈夫じゃないですと答え、立ち上がった。椅子に座り直して、彼は自分に向けられている視線をひとつひとつ数えて、ぜんぶで十七だということがわかった。

「園井麻衣はたしかに『恋心』をリセットし、懸想していた相手との関係は安定したものに。いえ、関係そのものは安定していたけれど、彼女の気持ちそのものが乱れていたのね」

 ああ、とアールはうなずく。

「まあ、お相手の生徒会長のほうが別の、しかも殿方に懸想してなさると知れば、当然の反応かもね」

「そういうものかな」

「あなた、ライトノベルでそういうのはいくらでも読んでいるでしょ」

 たしかに、『花恋』にも主人公カップルの片方が男性キャラクターに奪われそうになった展開があった。もう片方が、自身が同性愛者であることのコンプレックスに端を発してカッターナイフで腕を傷つけるという行動をしだしたときには、それこそ目が飛び出そうだった。

 それを片方が知って、いわゆる庇護欲に感化されて助けに行くシーンは、胸が熱くなるような空っぽになるような展開だった。

 結局は、共依存に過ぎないからだ。

 作者は、それについてどうケリをつけようとしているのだろう、とアールは気になるばかりである。

「言っただろう、登場人物を人間と思って読んじゃいない、と」

「あのね。それってファンとしてどうなの?」と、さすがの彼女も気になったらしい。

 諦めて、アールは言うことにした。

「フィクションを嗜むときに必要なことだよ。あれは、現実にはないんだ」

「……?」

「感情移入し過ぎると、仕事を忘れる。かといってしなさ過ぎると、楽しめない。だから、その真ん中を狙う。そのために俺は、人間と思って読まないようにしている。あれは、きっと別の星にいる地球外生命体なんだ、と」

 ふうん、とさして面白くなさそうにエルは頬杖をついた。

「ねえ」

「ん?」

「今度、『花恋』貸してくれる?」

「嫌だ」とアールは首を振った。「だって返ってくるころには、きみの涙でページがしわしわになっちゃうじゃないか」

 

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適当短編集 静沢清司 @horikiri2

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