81.リディルへ


 じっと彼を見ていると、あの強烈な違和感がふっと消えた。

 いつも通りの彼に戻ったように感じる。どうやら”隠れた”ようだ。


 ……気が変わったりしないかしら。やっぱり帰って、とか言い出さない?


「と、とにかく行きましょう」


 腕に手を添えて道に誘導した。

 とにかく町から離れよう。気が変わったと言い出す前に。

 それに、いつ何が起きるか分からない以上、私達はなるべく人の少ないところにいたほうが良いような気もする。


 歩きながら彼は目を伏せて辛そうな顔をしていた。

 多分だけど、一緒に行こうと”魔物”が言った事を知っていて、後悔しているのかなと思った。

 あれだけ頑なに一人で行くと言っていたのに、私の泣き落とし一つで彼が簡単に了承するはずがなかった。残念だけど、あれは魔物の言葉だったのだ。

 草原から道に戻り、町に背を向けて歩き出す。魔導車はここに置いて行こう。ベティ達が帰り道で使えるようにね。


 王都側から冷たい風が吹いてきてぶるっと身震いした。

 当然ながら、日の光が遮られたところの気温は低くなっているようだ。


 王都は大丈夫かしら……。

 心配だけど、あちらにはお父様やお兄様がいるし、頼りになる大人だってたくさんいる。

 大丈夫。

 私は”こちら”に集中しなければ。


 黒い雲が今もなお広がり続けている事を考えると、あまりのんびりはしていられない。

 放っておいたらそう遠くない内に日射しが完全に遮られて、地上は凍り付いてしまうのかもしれない。

 早く、どこかで何とかしないと――。

 そこまで考えてふと足が止まった。

 どこか? ……それってどこ?

 今までハヤトを追いかける事しか考えてなかったけど、そもそも彼はどこへ行こうとしていたのだろう。

 足取りの重い彼に、おそるおそる訊ねてみる。


「あの……どちらへ向かっているのですか?」


 彼は少し考えている様子を見せてから口を開いた。


「……南の方角、かな」


「南ですか」


 お父様もそう言っていた。きっとお父様は全て聞いて知っていたのだろうなと思う。

 でも、なぜ南……?

 女神様に討伐されるのが本当に彼自身なのだとしたら、彼は死に場所を探して旅に出たという事になる。

 そんなシチュエーション、想像したことも無いけれど――もしも私なら、思い入れのある場所を選びたいと思う……はず。

 南にあって、思い入れのある場所……って、もしかして。


「私達の……領地に行こうとしていたのですか……?」


 まさか、と思うけど。

 学院を卒業して、結婚したら移るはずだった私達の領地。彼は頷く事こそしなかったけれど、否定もしなかった。

 ただ気まずそうに目を逸らしたから、きっと当たっていたのだと思う。

 ――そっか。貴方が選んだ死に場所は、未来の私達が暮らすだった”家”だったんだね。


「……実は、私も行ってみたいと思っていたんですよ。ちょうど良かったです」


 微笑んで、彼の前に出てリディルに繋がる道を足早に歩く。

 彼が愛しくてたまらなかった。



 なんとかしなければいけないし、なんとかするつもりではいるけれど、具体的にどうしたら良いかが見えている訳ではない。

 私は彼の少し前を歩きながら、解決の方法に思いを巡らせていた。

 悪意ある魔力に”乗っ取られた”時の対策と治療法なら、学院で習った事がある。

 一番の対策は”対象から引き離すこと”、それに尽きる。

 人間同士の話であればこれで済んだのだろう。マリアの時も一番最初にそうしたはず。

 でも彼の場合は一般的な対策を当てはめて考えるのは難しい。

 引き離そうにも、対象――本体が中にいるのだから。

 ”中”に深く入り込んで戻らない時の治療法は――なにか”媒介”を用意して、元の人格をよく知る、魔力の色が近い人と媒介越しに魔力を送り込み合い異物を媒介に閉じ込める事――らしい。

 ただこれは危険だし、成功率も低い。媒介を通すとはいえ、治癒者は他人の魔力を送り込まれるのだ。

 この世界では”魔力”と、何らかの属性を与えて”魔法”にしたものは全くの別物で、魔力は生き血のようなものと捉えられている。この例えで言うのなら、魔法は生き血(魔力)を精製して作った薬品のようなもの。

 つまり、魔法をかけられるのと魔力を流し込まれるのとでは、生き血を与えられるのと薬品を与えられるくらいに違う。

 危険さや効果の微妙さは、なんとなく分かっていただけると思う。何より、この治療法の難しいところは。


「……ねえ、ハヤト。手を繋いでも、いいですか……?」


 そう呟くと彼は手を取ってくれた。

 ここから彼に"魔力を交換しましょう"を申し出たとして、彼と"中にいる魔物"は了承してくれるだろうか。それが一番の難関。

 この治療法はあくまでも第三者の介入を排除し、治癒する側とされる側の二人だけで行われるもの。

 "中"に本体がいる状態で実行したところで、果たしてどれほどの効果があるのか……。

 きっと見込みは薄いのだろう。だからハヤト本人もお父様も、それにギルド長のピートさんも女神様すらも、諦めてしまった。

 でも私は諦めない。出来る事があるなら何でもする。

 だから――私は彼と"中にいる誰か"に言わなければならないのだ。“貴方が今どんな状態にあるか、分かっている”と。


「ハヤト」


 手をぎゅっと握って、まっすぐに目を見る。

 怖いけれど、貴方のためなら命なんて惜しくない。


「ん?」


「私ね、貴方のことを本当に愛していますよ」


 返事は無かった。でも繋いだ手が少し熱くなったから、それでじゅうぶんだと思った。

 独り言のように言葉を続ける。


「だからね、私――また、本当の貴方に会いたいんです」


 手を振りほどかれそうになった。予想はしていたので腕にしがみついて顔を見上げる。


「逃げないで下さいってずっと言ってるじゃないですか」


「でも」


 つらそうな顔。こんな弱いハヤト、初めて見る。

 私まで弱気になんてなっていられない。


「でも、なんですか? 気遣いのつもりですか? もしかして、私を巻き込まないようにとか考えてるんです? 言っておきますけど、もう手遅れですからね。諦めて責任取って下さい」


「責任?」


「そう。ここまで惚れさせた責任です。……私、もう貴方がいない人生なんて考えられないんです。一緒に、抗わせて下さい」


 ハヤトは泣きそうな顔のままで何も言わずに目を伏せた。意地でも頷かないつもりらしい。

 あの夜から戻って以来、ずっとこうだ。心が通じ合う感覚が無い。出会ってから今まで、こんなに壁を感じる事なんて無かったのに。


「……どうして、ですか」


 どうして何も話してくれないの。

……いや、ハヤトの気持ちも分からなくはないのだ。もしも私がその立場なら同じように突き放そうとしたかもしれない。でも、置いていかれる側としてはどうしても引き下がれない。

 しばらくじっと見つめていると、ハヤトは観念したようにこちらに目を合わせて呟いた。


「……危ないから、ダメだ」


 ――やっと、話をしてくれた。

 このチャンスを逃すまいと食らい付く。


「何がどう危ないんです? 私、貴方からは何も聞いてないので分かりません。ちゃんと話して下さい」


 そう。貴方の抱えている事情は実際のところまだ私の推測の域を出ていない。

 もしかしたら私が見当違いな思い込みをしている可能性だってある。というか、そうであってほしい。

 立ち止まって話す私達の頭上に黒い雲がものすごい早さで広がってきて、朝露できらきらしていた一面の草原に朝と夜の境目がくっきりと現れた。

 私も背後から夜の世界に包まれ、すぐに目の前にいるハヤトも雲の影に覆われていく。夜の世界で見るハヤトの瞳はやけに紅く輝いて見えた。私達の間を、冷たい風が吹き抜けていく。


「……どうなるか、分からなくて……怖い」


「どういう事ですか?」


「下手に刺激したら、手に負えなくなるんじゃないかって」


「……それは、“貴方の中にいる何者か”が……でしょうか?」


 するとハヤトは複雑そうな顔をして、ため息と共に頷いた。


「やっぱり分かるよね……。まぁ、あんな事を言ったら当然か。そうだよ。以前、変な奴を拾っちゃってたみたいでさ」


 諦めたような顔で話し出してくれた。

 やっと。やっとだ。


「……気付いたのは一昨日だけど、拾ったのはもっとずっと前――アリーシャと出会う前だった。そいつが今頃になって表に出て来ようとしてるみたいで」


 暗闇に覆われていく世界で、彼の声が冷たい風に混じって響く。私は耳を澄ませた。一言も、聞き漏らさないように。


「このままじゃ分離は難しいんだけど、女神様が何とかしてくれるらしいんだ。……だからね、アリーシャ。これは俺達が頑張ればどうにかなるとか、そういう話じゃないんだよ」


「女神様が何とかするって……それって、貴方の犠牲ありきの話じゃないんですか? そんなの……受け入れられません」


「……大丈夫だよ」


「何がですか……? 何も大丈夫じゃないと思ったから貴方は身の回りを整理してまで出て行ったんじゃないですか? だから私もここまで追いかけて来たんですよ。お願いです、一度だけでいいから――分離術を試させて下さい。じゃないと……私は、一生後悔してしまいます」


 懇願。何もせずに諦めるなんて、どうしても出来ない。

 ハヤトはゆっくりと首を横に振る。


「それでアリスに何かあったら……俺も一生後悔する。だから、出来ない」


「大丈夫です。分離術なら学院でも王妃教育でも習いました。実際にやるのは初めてですが、やり方自体は簡単なのできっと上手くやれます」


「でも、もしもモリオンが反抗してきたらどうなるか分からないんだよ。今は女神様の加護があるおかげか大人しくしてるみたいだけど……アリーシャもさっき見ただろ。きっとその気になれば、あいつはいつでも俺と成り代われるんだ」


「モリオンって言うんですか、その魔物は。上等じゃないですか。もし表に出てきたら、私の大切な人になんてことするの、って言ってやりますよ」


 なかなか頷かないハヤトに、私は続けた。


「……それに私、一度死んだことがあるんです。少し異常が出るくらい、なんてことありません」


 初めて口にする、私の“前世”に関わる事。

 どうして死んだのかは思い出せないけれど、病気とかはなくて健康だったし、きっと事故か何かだと思うな。痛みも後悔も何も分からない内に死ねたのはある意味ラッキーだったかもね。

 私の突拍子もないセリフは案外ハヤトの関心を引けたようで、彼は少し表情を和らげて首を傾げた。


「なにそれ……。死んだことあるって、どういう事?」


「言葉の通りです。正確には、今の自分とは違う人生の記憶があるっていうだけなのですが」


「前? 前にもアリーシャがいたの?」


「さぁ、どうなんでしょうね。詳しく聞きたいですか?」


「うん」


「だったら私と魔力の交換をして下さい。話はそれが終わってからです」


 千夜一夜物語みたいだね、と思いながら微笑む。すると、彼はため息をついた。


「……ズルいな、アリスは」


「今頃気付いたんですか? そうですよ、私はズルいんです」


 駆け引きの勝利を感じて、マントの影から媒介になり得るものを出してみる。

 魔力の容量が大きい貴金属や宝石。これを通して魔力を交換し合うのが分離術。媒介はフィルターで、私は流れ込んで来る魔力を“彼じゃない”と思ったり悪意を感じたりしたら押し返して媒介に閉じ込める役。

 当然ながら成功率は低い。でも、僅かな可能性でも賭けたかった。


「これに触れて下さい」


 とりあえず手持ちの中で一番大きな石のついた白金のネックレスを彼の方へと差し出してみた。今使える中ではきっとこれが一番魔力を多く含めるから。

 彼はいまだ逡巡しているようだ。

 手を伸ばさずに黙って見ている。


「まだ悩んでるんですか? 言ったじゃないですか、死ぬまで一緒だって。……もし上手くいかなくても本望ですよ」


 しばらく悩んだ末に彼は言った。


「……少しだけ、待ってほしい。万が一の事があるといけないだろ。もっと町から離れたい」


「あ、そうですね。確かに……」


 必死すぎて考えが足りなかった。

 なんたって女神様自ら“人の手には負えない”と言った相手なのだ。

 刺激したらどうなるか分からないのを承知で実行するにしても、人を巻き込む可能性はなるべく排除しなければいけない(どのくらい意味があるのかはさておき)。


「……じゃあ、どこか遠くへ行きましょうか」


「うん……」


 ハヤトの腕を取ってまた歩き始める。

 どこか、と言いつつ私達の足は自然と南に向いていった。いつかみんなと一緒に行くはずだった南にある領地、リディルへ。


「で、一回死んだことがあるって何?」


 歩きながら彼は尋ねてきた。さっきの話だ。


「まだ話しませんよ。全部終わってからです」


「ふーん。物語でよくある“生まれ変わり”とかいう話をされるのかと思った」


 なんだ……。分かってるじゃない。

 確かにね。この世界にも生まれ変わりという概念はあって、演劇や小説のネタとして常に一定の人気を保ち続けている。

 でも本当に生まれ変わった人の話は聞いた事がない。それこそ某国の誰々さん(3歳)が生まれる前の話をし始めた、くらいの都市伝説レベルの信憑性でしか。

 生まれ変わるどころか世界線を越えてきましたなんて、私とハヤトの信頼関係をもってしても危うい話題だ。頭がおかしいと思われる。だから今まで話してこなかったのだけど。


「そういうのって信じますか?」


「さあ。話としては面白いと思うけど、どうだろうね。あんまり考えたことないや」


「ですよね」


 つまり、あんまり信じてないって事だ。

 まぁ、どちらでも良いか。信じるか信じないかは貴方次第、ってね。


「そうですね……。例えば、昨夜貴方が酒場で弾いた53-6ですけど。あれはフレデリック・ショパンという音楽家が作曲したものなんですよ」


「なにそれ。女神の楽譜の謎じゃん。どこでそんな事を知ったの?」


「“前”の私の知識です。ポロネーズというのはポーランド風という意味で、ショパンの出身国ですね。あの“タンタタタッタ”のリズム、ありますでしょう? あれがポーランドの伝統的な舞踊曲のリズムで、だからポロネーズなんです。戦で祖国が封鎖され、帰れなくなったショパンがポーランドの栄光を願って作った曲と言い伝えられていました」


 私が小出しにする前世の話を、彼は黙って聞いていた。

 当然ながらこの世界にポーランドは無い。

 彼は今きっと勉強した知識の中からポーランドに関する情報を見つけ出そうとしているのだと思うけど、あいにく存在しないからね。考えても出て来ないよ。悩ませてごめんね。


「……あ、そういえば、貴方が英雄ポロネーズを弾いてからやけに体が軽いような気がしているんですが。何かしましたか?」


「ああ……。まあ、一応。音で“上限”を引き上げられるようになってたから。少しでも戦える人が増えてくれたらなって思って」


「なんですか、それ……。音で、上限?」


「うん。何年か冒険者をやっているとね、どこかでランクが上がらなくなる……頭打ちになる時期が来るんだ。それを俺達は上限って呼んでるんだけど、どこまで上がるかは人それぞれでさ。けっこう個人差が大きいところだったんだ。で、俺、気付いたらその上限を“音”で引き上げられるようになってた。多分、それっぽい音ならなんでも良かったと思うんだけど……。せっかくなら、アリーシャが好きって言ってた“英雄”がいいなって思ったんだ」


 そうなんだ……。

 分かったような分からないような微妙なとこだけど、つまりそれって、もしも女神様が上手くいかなかった時のことを考えて、いつか自分を倒しに来る“英雄”候補を作ったってことなのかな。


 ……考え過ぎかな。

 憂鬱さを拭いきれないまま、深い森に足を踏み入れた。


 どのくらい歩いただろう。

 すっかり闇魔法の雲に覆われて真っ暗闇の世界を、魔道具のランプと方位磁石と道に残る微かな轍を頼りに歩き続けた。

 ふと、耳元のイヤーカフが振動し、通信を知らせてくる。


「ハヤト。ちょっと失礼しますね。通信です。……はい。どなたでしょう?」


 魔力を通して接続すると、イヤーカフからベティの声が響いた。


『あ、アリス様!? よかった、繋がったー! ね、ハヤト君は見付かった!?』


「はい。おかげさまで。……すみません、声もかけずに出てしまって」


『ううん! 私達ぐっすり寝てたからね! 遅くまで飲んでた私達が悪かったの! でもびっくりした~! 起きたら空が全部真っ黒になってるし、お二人ともいなくなってるし、テーブルには山盛りの金貨が載ってるしで。手紙があったから事情は分かったけど』


「お騒がせしました……。そっちは大丈夫ですか? 混乱など起きていませんか?」


『まぁそれなりに……。でも大丈夫だよ。王都からね、いろんな魔道具が運ばれて来てるみたいなの。灯り用のやつとか、周囲を暖かくするやつとか。あとね、武器とかの装備品も』


 知っていた事だけどドキッとした。

 お父様達、本当に戦闘用の魔道具を提供し始めたんだ……。

 改めて、後戻りは不可能な状況なのだと感じる。


『新しい灯りの魔道具ね、凄いんだよ。人が触れてなくてもずっと光っていられるの! 誰が魔力を提供しているのか分からないけど、とにかく凄い!』


「触れていなくても作動するんですか」


 そういえば、お兄様がそういうオモチャ作ってたな……。

 魔法銀なら遠隔操作もいけるって言ってたような。量が確保できないから趣味にしか使えないとも言ってたけど……。たくさん入手できたのね。このタイミングで。

偶然にしては出来すぎだけど、良かった。


『うん。……まぁ、色々大変な時だけどさ。この状況もハヤト君がなんとかしてくれるんでしょ? それまで私達も頑張るよ。例の変異種がわらわら出てるらしいんで、今日は私達も狩りに明け暮れる予定ー。なんかさぁ、昨日から妙に力が湧いてきてあり余ってる感じがするのよね』


 そうだ。ベティ達も上限を引き上げられた"英雄"候補のうちの一人だったのだ。酒場であのピアノを聴いたから。


「……気を付けて下さいね」


『ん、大丈夫。ジョージもテッド君も私と同じみたいでさ、起きてからずっと"早く狩りに行こう"ってうるさいのよ。……じゃ、えーっと、お金は報酬としてありがたく頂いておくね。この通信用魔道具も、私達がしばらく預かっておくから。何かあったら連絡ちょーだい』


「はい、了解です」


『うん。じゃあ、またね』


 プツ、と接続が切れた。

 またみんなと会えたらいいな。そう思いながらふと時間が気になり、手持ちの懐中時計を開いてみる。もうすぐお昼。みんなよく眠ったみたい。

 ふふっと笑って時計の蓋を閉じる。


「みんな起きたって?」


 ハヤトが訊ねてきた。気になっているようだ。


「はい。そのようです。早く戦いたいって騒いでるんですって。きっと、上限が上がった事を本能で感じているんでしょうね」


「……そっか」


 彼は目を伏せて微笑んだ。心なしか穏やかな笑みだった。

 私達があの演奏の場に居合わせたのは全くの偶然だったけれど、結果的に良かった気がする。

 きっとベティは変異種にやられたりしないだろう。ジョージも、テッドさんも。この事実はハヤトにとって相当気持ちが楽になるはずだ。


「あ、アリーシャ。疲れただろ。少し休もうか」


「大丈夫ですよ。まだお昼前ですから」


「そう? ……空が暗いと時間の感覚が狂うな。まぁ、俺がやってるんだけどさ」


 とうとう自虐をかまし始めた彼は少し開けたところで地面に座り込み、「ほら、アリスも座りなよ」と言う。


「えっと……」


 訓練場の地面をゴロゴロ転がったことはあるけど、森の地面にじかに座るのはさすがに初めてで少しためらってしまう。

 それに気付いたらしい彼は「あ、そっか」と呟き、ぽんぽんと膝の上を叩く。


「ここ、座る?」


「えっ」


「嫌ならいいけどさ」


「いいえ! お邪魔させていただきます!」


 魔道具のランプを抱え、おそるおそる横向きで腰を乗せる。

 案外バランスが取りにくくて、背中を支えてもらいながらもぞもぞと体勢を直した。


「お、重くないですか?」


「全然」


 そう言ってはくれるけど、やっぱりこれは落ち着かない……。

 ちょっとやってみたかっただけなので「ありがとうございます、やっぱり地面に座ります」と言って下り、隣に座った。


「別にいいのに」


「貴方は良くても私がダメなんです。あれでは気持ちが休まらないですよ」


 話しながらマントの影から食べ物を取り出す。

 と言ってもチョコとかビスケットくらいしかないんだけどね。家を出る時慌てていたせいで、部屋にあったやつしか入れて来なかった。


「それ何? チョコレート?」


「はい。貴方もどうぞ」


「……俺はいいや。アリーシャが全部食べなよ」


「お腹すいてないんですか?」


「うん」


 ああ、そうだ。確か、マリアも同じ事を言っていた。

 規模は全然違うけど、どうやら乗っ取りを受けた人は空腹を感じなくなるようだ。

 でもそんなマリアでも食べさせたら涙をぽろぽろ零していた。空腹じゃなくても、食べるのは心にとっても大事なこと。

 そう思ってハヤトの口に無理やり一粒のチョコレートを押し込むと、"なんだよ"みたいな顔をした後、ふっと表情を和らげて笑った。

 私も一粒口に入れてニコニコになる。

 甘いものっていいよね。こんな時でも笑顔になれるんだから。


「……あっ、そうだ。アリーシャ。寒くない? 大丈夫?」


「ちょっと寒いですね」


 日の光が遮られてまだ数時間だけど、気温がぐんぐん下がっている。

 彼は羽織っていたマントを広げて私の肩に被せてきた。

 マントの正しい使い方だ。二人でくるまって、肩を寄り添わせる。

 すごくあったかい。


「……ごめんね」


 ハヤトがぽつりと零したのが耳元で響いた。


「いいんですよ」


 ランプを地面に置くと魔力を失ったランプはふっと光を失い辺りが暗闇に包まれた。

 代わりに地面に落ちていた小枝へ炎魔法を放ち、小さな焚き火を熾す。


「あれが燃え尽きたら出発しましょう」


 そう言って、ハヤトの手を握る。

 いつになく冷たい手だった。なんだか彼の不安が伝わってくるようだった。


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