50.負けず嫌い同士の煽り愛
週末!!
今日と明日は学院はお休み。
そして今夜はベティが開いてくれる婚約パーティーだ。
ラヴも後から直接現地に来てくれるらしく、楽しみです、と顔を綻ばせて言ってくれた。
ちなみにお兄様は、来ない。
場所は噴水広場近くの通りに面した広めのダイニングバーと聞いている。
時間は夕方五時からで終わりは未定。
ラヴは久しぶりに会う人も多いだろうから、楽しんでいってほしいなと思う。
朝いちで公爵家を出て十五番街の家に戻り、まずは軽く掃除をする。
こっちには使用人を連れて来ないので全部自分でやっているんだけど、これが結構楽しいのだ。
家中にはたきを掛けてから風魔法を組み込んだ魔道具の掃除機を起動し、家中をひたすら歩き回る。
「お風呂掃除終わったよ」
「ありがとうございます。こっちもあと少しで終わります」
ハヤトが浴室から出てきて、水に濡れた腕を拭いていた。
本当に新婚さんみたいだよね。些細なことだけど、こういう日常こそが嬉しい。幸せだ。
頬が緩むのを抑えながら掃除機を掛け、終わったら階段下の物置部屋にしまう。
ひと段落したので洗面台に手を洗いに行くと、そこはまだハヤトが掃除中だった。
端切れを手に鏡を磨いている。すいっと彼の腕の下から潜り込み、足元にある水魔法と火魔法を同時に起動する魔道具のスイッチに魔力を流した。すると蛇口からお湯が出てくる。この世界の水道はそういう仕組み。
ちなみにシャワーもこれと同じ仕組みだ。とても便利。
私は洗面台の上に置いてある石鹸置きからラベンダーの精油が練り込まれたお気に入りの石鹸を手に取った。
「邪魔してごめんなさい、すぐ退きます」
「いーよ。こっちももう終わり。俺も手洗いたいから石鹸貸して」
そう言ってハヤトは端切れを屑籠に投げ入れ、私を挟み込むようにして両脇から手を差し出してきた。
それ、洗いにくくない……?
「やってあげます。じっとしてて下さいね」
ハヤトの右の手のひらに石鹸を当て、私の両手で包み込んで泡を立てた。少し水気の多い泡と一緒にラベンダーの濃い香りが立ち上る。
石鹸を置き、泡にまみれた手をこすり合わせてみた。
私の手とは明確に違う、大きくて節くれ立った手。
ぬるぬると泡を滑らせているうちになんだか妙にドキドキしてきてしまった。
……これ、もしかしてあんまりやらない方が良かったやつなんじゃないかしら。
それでも始めてしまったものはしょうがないので、なるべく手早くささっと指先まで洗い、すぐに左手も同じようにして終わらせる。
最後にお湯で泡を流そうとすると
「……アリスはまだでしょ。今度は俺が洗ってあげる」
と、やけに熱っぽいような声が真後ろから降ってきた。
「……今ので私も洗えましたから、もういいです」
「ダメでしょ。結構雑だったよ」
はい。その通りです。
自覚はあるので大人しく従う事にした。だけどすぐに後悔する羽目になる。
泡を一度流して石鹸を付け直し、新しい泡を纏った指が手のひらを撫でてきた。この時点で直感した。これやっぱりダメなやつだ。
しょっちゅう触れ合っている場所なのに、そして洗っているだけなのに、なぜこんなにこそばゆくて恥ずかしくなってしまうのか。
不思議だ。
「ちょっと! くすぐったいですよ!」
手のひらを握り締めて抵抗したけど、隙間からぬるりと指を捻り込ませてきてくちゅくちゅと動かしてくる。手のひらはあっけなく開かされた。
「我慢しなさい。少しは俺の気持ちも分かってもらわないと」
「え、どんな気持ちですか?」
「分からない?」
そう言いながら手のひらを丁寧に隅々まで撫でてからくるりと裏返し、甲を包み込んできた。ぴったり密着させてぬるぬるとゆっくり何度も往復させ、やがて指先まで滑らせてそこで止まる。
私の人差し指の、第一関節が摘ままれた。そして指先を使ってすりすりと私の爪の先を丹念に擦る。いったい何がそう思わせるのか謎だけど、画的にも感触的にも何故かすごくいけないもののように感じてしまった。
「わ、わかりました! 多分! いや、本当に!」
「そう。なら良かった」
と言いつつ止める気配はなく、全ての爪の先を同じようにして擦り、それから親指を握り込んで上下に扱く。順番に小指まで洗い終えると、今度は指の間に指先を入れ、付け根をこしょこしょと擽るように動かしてきた。もう限界だと思った。
「も、もういいですよ! 後は自分でやります!」
「どうして? あと少しなのに」
どうしよう、止めてくれない。
たまらず顔を上げると鏡に映っている彼の顔が見えた。
わっるい笑顔してるわ~……。
きっと私が狼狽えている様子を面白がっているのだ。
やっぱり彼はなかなかにイイ性格をしていると思う。
こちらの視線に気が付いたのか、彼もふっと顔を上げた。
鏡越しに目が合って少し睨み付けると、悪さの中にやたら甘さを含んだ笑みを浮かべ――静かに、頬にキスしてきた。
脳が停止した。
あまりにも視覚の暴力が過ぎる。
思い起こせば、私とハヤトが並んでいる姿を見るのってこれが初めてだった。
二人揃って鏡の前に立つ事なんて無いからね。
なるほど、私達二人は並ぶとこんな風に見えているんだな。
自分で言うのもなんだけど、結構お似合いなんじゃないかしら。と、自惚れもいいとこな脳内独り言を呟き現実逃避を図る。
だってキャパシティが限界なのだ。これ以上何かが起きたらきっと記憶が飛ぶ。
私が停止している間に手首まで洗い終えたハヤトはお湯でさっと流してくれて、その温かさにホッと気持ちが緩んだ。
や、やっと終わった……。
いや、時間にしたらきっとたかが二~三分の事だったんだろうけどまるで時空が歪んでいるかのように長く感じた。
ものすごい疲労感に襲われながら
「ありがとうございました……」
と呟くと、ハヤトは「?」と不思議そうな顔をする。
「まだ左手やってないよ」
「えっ」
「えっ」
どうやら記憶は既に一部飛んでいたらしい。
「今度は左手だよ。あと少しだから頑張ってね」
もう一周、手洗い耐久レース……!?
ゴールが果てしなく遠く感じる。左の手のひらがみるみるうちに泡にまみれ、ハヤトにされるがままなのを眺めながら思った。
そりゃ確かに先にやったのは私なんだけど。絶対、ここまでやってない。
手を洗っただけ(しかもやってもらっただけ)なのに何故か非常に疲れてしまい、その後元通りに動けるようになるまで数分を要した。
簡単に昼食を摂った後、片付けをしてからパーティーに行くための身支度に入った。
ベティには、始まったらきっと話す時間が取れないから少し早く来てほしいな、と言われている。
あまりのんびりしていられない。さっとお風呂に入って、手が届く範囲で全身に香油を薄く塗った。目指せ艶肌。肌に馴染むのを待つ間に髪を乾かして、口紅以外の化粧を終わらせ、髪を緩く巻く。
ここには侍女がいないので全部自分でやるしかない。ので、華やかな髪のセットは早々に諦めた。
だってあれは私には難しすぎる。下手が頑張ってやっても形が決まらないし崩れるだけ。
いいのいいの。髪はこれだけで終了。次に、ウエストをコルセットで締める。ほどほどに絞めて、カルロス姐さんチョイスの白いドレスに脚を通した。
試着しないで買ったけど、サイズの調整が効くから大丈夫って言ってたよね。
そう思ってぐいと上に引き上げる。
……いや、甘かった。
重大な事に今気が付いた。
これ、背中の紐を編み上げて着付けるやつじゃん。一人では着られないやつだよ。
カルロス姐さんが“貴族でも下のほうなら着ててもおかしくない程度には質が良いもの”と言っていたけど、そういう意味でも上流階級向けだった。
着るのにお手伝いが要るなんて。
既製品だからそこまで考えてなかった。
……どうしよう。
迷いに迷った結果、一人しか頼む相手がいないのでここは素直にお願いする事にした。
婚約者だもの。これくらいいいよね。
ベアトップ型で肩や首に引っ掛けるパーツがないドレスを、ずり落ちないように手で押さえながら階段を降りた。ハヤトは勉強中だ。身支度に時間をかけないのは男の人らしくて良いなと思う。
邪魔しちゃうけどゴメンね。
「ハヤト」
「ん?」
「着替えを手伝ってほしいのですが」
「……はぁ?」
彼は教科書から目を私に移した瞬間、たじろぎの色を浮かべた。
だけどすぐに気を取り直したようで、いつも通りの顔になる。
「……何をすればいいの?」
「背中の紐をですね、編み上げてしっかり締めてほしいんです」
くるりと後ろを向いて実物を見せる。そんなに複雑に編まなくても良いのだ。
基本的なやり方はブーツと一緒だから、男の人でも出来るはず。
しばらく間があき、長めの沈黙の後
「……わかった」
と、まるでこれから死にに行く兵士のような声で返事をもらった。
なんか、ごめんなさい。
彼がやりやすいように、椅子の横に立って座ったまま手伝えるようにする。
手が腰の辺りに触れ、一番下のホールにしゅっと紐が通された。
それから一段上のホールを通り、また一段上へ。
「ぎゅっと絞めて下さいね」
「ぎゅっと」
「途中で緩んでずり落ちてこないように」
「ずり落ちてこないように」
どうしよう。スパダリが復唱マシーンになってしまった。
それでも、頼んだ通りに一回一回ぎゅっと絞め上げてくれている。
だけどそれだけに違和感に気付きやすい。というのも、どうもさっきから同じところを絞めたり外したりしているようなのだ。一歩進んで二歩下がる的な感じで一向に終わらない。
「……何してるんですか?」
「いや、なんか……手が勝手に」
面倒な事を頼んで悪いなって思ってるけど、何も自分から更に面倒にしなくても……。
時間を掛けながら、紐は何とか上の方に進んでいく。
「……アリス、ちょっと髪どかして」
「あ、はい」
そうだね。邪魔だよね。
右手でうなじの髪を一纏めにして、全て右側の前に持ってきた。背中を全開にして、そのまま大人しく待つ。
大人しく待つ。
……大人しく待った。
今度は完全に停止してしまったようだ。ちょっと、どうしちゃったの? 首を後ろに向けて見ると、ハヤトは紐を手にしたまま目を閉じてしまっていた。
「あの……どうしたんですか? 大丈夫?」
「……うん、もう大丈夫。今ちょうど瞑想し終わったから」
「瞑想!?」
この人そんなキャラだったかな。
そう思っている間にさっと一瞬で絞めてくれた。その気にさえなれば仕事が早い。さすがハヤトさんである。
ふー、とやや大きめのため息をついて彼はテーブルに頬杖をつき、私の背中を見詰めた。
「あのさ、腰に巻くやつが少し出ちゃってるけどこれって大丈夫なの?」
「え、コルセットが? 本当ですか?」
「うん」
背中に手を当てて確かめると、確かに少しはみ出てしまっていた。このドレス、背中が結構下まで開いている。やっぱり試着はするべきだった……。
この世界の淑女は、背中やデコルテなど肌の露出に関しては“そういうものだから”と寛容だけど、隠したはずのものが隠れていないのは絶対に許されない。
見せるものと見せないものをコントロール出来ないことこそが“だらしがない”のだ。
つまり、このコルセットは外さなければならない。
事前の確認不足を反省しながら、おそるおそる振り返ってお願いする。
「これは大丈夫じゃないです。……外すので、もう一回やり直してもらってもいいですか?」
一瞬絶望したような表情を浮かべたものの、すぐにキリッとした顔になり静かに頷いてくれた。
結んだばかりの紐がほどかれ、しゅるしゅると緩められていく。全て外されるまで早かった。まるで手慣れた侍女のようだ。
「ありがとうございます。ちょっと部屋に行って外してきますね」
「はい」
なぜか丁寧な返事をもらい、部屋に戻ってコルセットを外した。
腰のラインがそのまま出てしまうのは落ち着かないけど、もう仕方ない。再び下に降りて彼の横で背中を向ける。
「じゃあ、お願いします」
「了解しました」
丁寧な言葉遣いは継続するらしい。だけど二回目ともなると随分落ち着いた様子で、ひとつひとつ、丁寧にホールに紐を通してくれた。
絞める力の加減もちょうど良く、その手つきになんだか勝手に愛を感じてしまう。
何気ない言動や日常の中に愛を見出だす。こんな幸せな事ってない。
きゅっ、と一番上で強めに結ばれ、
「出来たよ」
と声がかかると同時に振り向いて抱き付いた。無性にそうしたい気分だった。
「助かりました。ありがとうございました」
「どういたしまして」
そっと抱き締め返してくれて、改めて感謝の気持ちが湧き上がる。
ありがとう。大好き。
「私、貴方と出会えて本当に良かったです」
「ん? 前もそんな事言ってたね」
「前も……? ああ、こんな事をした時ですか?」
彼の頬に触れ、むにむにと摘まむ。
まだ一緒に暮らし始めたばかりの頃にこうして触れ合ったのを覚えている。ハヤトは笑って「そう」と言った。
……でもこれだけじゃなかったよね。
あの時されたように耳まで指をやり、耳たぶをやわやわと揉む。すると綺麗な形の眉が寄り、彼は困惑の表情を浮かべた。
「アリス、それはダメ。やめなさい」
「あの時こうしてきたのは貴方ですよ。私がどんな気持ちだったか、少し分かりましたか?」
「はいごめんなさい。もう手、離して」
それでもしつこくやり続け、困惑顔からやがて真顔に変わったところで止めてあげた。
何となく、当時とさっきの手洗いの二つぶん、意趣返しが成功したような気分になり勝利の笑みが浮かぶ。
「では、私はお部屋に戻って支度を終わらせてきますね」
そう言って踵を返そうとすると、手首を掴まれて足が止まってしまった。
少しやり過ぎた自覚はあるだけに、びしばし感じる怒りのオーラにちょっとした恐怖を感じる。
「……なんですか?」
「さっき気付いたんだけど、背中だけ香油塗ってないでしょ。手が届かないならやってあげるから、持ってきて」
「えっ、でも」
「持ってきて」
真顔の迫力に気圧されて、言われるがまま香油の瓶を部屋から持ち出した。
手が届かなくて背中全体に塗れなかったのは事実なのだ。
有り難いと言えば有り難くはある。
「持ってきました」
「はい。じゃあ後ろ向いて」
非常に強制力のある言葉だった。これは相当怒っている。
大人しく背中を向けると髪を左右にかき分けられ、ぱさりと肩の前に置かれた。香油を纏った温かな手の平が背中に触れ、侍女よりずっと大きな手の平が、肩甲骨の形をなぞるように香油を塗り広げていく。背骨に沿ってうなじまで上がり、そのまま肩まで塗り伸ばす。それを何度か繰り返しているうちにマッサージのようで気持ちいいような、でもちょっといけない事をしているような、フワフワとドキドキがない交ぜになった複雑な気持ちになった。
仕返しにしてはマイルドだけど、やられっ放しでは絶対に終わらないという彼の意志を強く感じる。
「――はい、できた」
「ありがとうございます」
香油の瓶を受け取り、一旦部屋に退散する。
顔がめちゃくちゃ熱い気がするけど、血行が良くなったおかげだ。
そういう事にしておく。そういう事にしないと、この煽り合いはきっと終わらない。
気持ちを切り替えて、荷物の中からネックレスとイヤリングのセットを取り出した。大粒のサファイアのまわりをダイヤモンドで飾った、白金のジュエリー。
これ、ハヤトの月夜の色。
なお月夜の色とは私が勝手に名付けた非公式の呼び名だ。ちゃんとLOVE–NOTEにも書いてある。
ますますもって誰にも見せられない事になっているノートの事はさておき、今回使うアクセサリーを選ぶ時、色の組み合わせ的にこれ一択だった。
装着して謎の満足感を味わいながら靴を履き替える。それから手首までの長さのショートグローブを用意して、これで身支度はほぼ完了。あとは口紅を塗るだけ。
時間は、少し余裕があっていい感じだ。
今のうちにお茶を一杯飲もうかな。
そう思って、ピンクの口紅を一本だけ持って下に降りた。
ハヤトは部屋に戻ったみたいで、もうリビングには居なかった。お茶を淹れてふぅと一息つく。
……ベティに会うの久しぶりだなぁ。
元気にしてたかな。テッドさん達とは上手くやれてるのかな。
などなどお茶を飲みながら考えていたら、ハヤトの部屋の扉ががちゃりと開いて、中からマフィアの若頭みたいな人が出てきた。いやほんとマフィア。細身の黒スーツに黒シャツ、ノータイの首もとには(私の)ゴールドのタグが煌めいて、左手の薬指には婚約指輪、小指には大振りのシグネットリングがそれぞれ嵌められている。アル・カポネの側近にいそう。
本体含め、ひとつひとつは品があって高品質なものばかりなのに……総合するとどうしてマフィアになってしまうのかしら。不思議。
今夜の彼は危険な男。
それも素敵。
「あと少ししたら出よっか」
「はい。お茶、飲みます?」
「うん。自分でやるからいいよ。座ってて」
若頭、自分でキッチンに立ちティーカップに紅茶を注ぐ。
なかなかにシュールな絵面を眺めていると、彼はティーカップを手に私の向かいに座った。
そしてテーブルに無造作に置かれた口紅を見て、何気なさそうにそれに触れた。
「これ、今からつけるの?」
「はい。口紅は落ちやすいですし、服についたら大変なので。出掛ける直前につけようかと思いまして」
ふーん、と言いながらキャップを外し、色を見ている。
少しだけ青み寄りの淡いピンク。サファイアの青に合わせたんだけど、お気に召さないかしら。
「つけてあげよっか」
「え?」
思いも寄らない申し出がきた。
若頭、口紅をオモチャか何かだと思ってない?
「使い方、わかるんですか?」
「使い方って、塗るだけでしょ? いつも思ってたけどさ、アリス。こういうの使う時ちょっと力入れすぎてるんじゃない?」
遠回しに毎回色が濃いと言っている。ショック!
「そういうのは思ったその時に言ってください! 後から言われても、濃い色で過ごした日々はもう戻らないんですよ⁉」
笑いながら「ごめんごめん」とまるで反省していない様子で彼は口紅を少し繰り出して、手の甲につけてみている。
絵になるからか、やけに上級者に見えてしまう。悔しい。
少し色のついた手の甲を見ながら何か納得したように頷き、座ったまま椅子ごとずりずりと私の横に近付いてきた。
その顔は新しいオモチャを手に入れた子供そのものだ。
「ね、いいでしょ? 多分、(アリスより)上手いよ」
「えー……。やった事あるんですか?」
「ないけど、大丈夫だから。ほらこっち向いて」
椅子ごとハヤトのほうに向けられて、顎をクイと上げられた。
その途端羞恥心が爆発する。ま、まるでキスする五秒前みたいだよ!?
こんな至近距離で顔をじっと見られるなんて。
唇にそっと口紅を当てられ、ごく軽いタッチでスッと横に引かれた。
上と下で一回ずつ。
そこに指先が置かれて、ポンポンと叩くように色を伸ばしていく。
……あら? 本当に上手いのかも……。
確かに、濃くなりようがない付け方だ。
一気に信頼感が出てきた。
案外真面目にやってくれているおかげで羞恥心は薄れていき、やがて間近で彼を観賞する余裕まで出てくる。
――ズルいくらい綺麗な顔立ち。
相変わらず、肌も髪も光をたたえているようだ。もちろん、目だって――。
見つめていると、彼の視線がふと私の目に移ってきた。
すぐ逸らすかと思いきや、じっと見つめ返してきて離れない。
……私と彼はきっと今同じ事を考えている。
こういうのって、恥ずかしいくらいはっきり伝わるよね。
――キス、したいな。
喉元まで出かかった言葉が口に出る事は無く、微妙な空気のまま、お互いに静かに離れて終わった。
その空気も消えぬうちに家を出る時間になり、ハヤトは私が腕を組みやすいように少し肘を突き出してくれた。
私は白いショートグローブを嵌めた手で彼の腕に掴まる。すっかり板についたこの動作。少し空が暮れ始めた街を並んで歩き、噴水広場に向かった。
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