第10話 ストーンヘブンで捕まえて 前
アバディーンを出て、最寄り町ストーンヘブンへ入ったのは、その日の夕方になった。
終戦後、切り出された花崗岩をアバディーンだけでなく、この港町からも運び出された名残が街の名前になっているそうだ。今は漁港で、風光明媚な静かな町だ。
町の宿は二つ。〝大きいお宿〟と〝小さいお宿〟があった。
「泊まりなら、大きい方が綺麗だけど、小さい方ほうにしときんさい」
路上で魚介類を売っていた露天商のおばちゃんから、妙な
「どうしてですか?」
バケツの底を這い回っているエビを珍しそうに眺めるエレオノーラに、おばちゃんは声をひそめた。
「そりゃあんた、大きな声じゃ言えんけど、大きい方は
「麝香? これと、こっちもください。小さい宿は信用できますか」
おばちゃんは小エビを天秤ばかりで中錘(一五〇グラム)とムール貝を二十粒、しめて銀貨十八枚で売ってくれた。夕方の処分価格。白ワインとニンニクがあれば、調味料もいらないのだそうだ。ついでに、よろず店も教えてくれた。
「小さいお宿はスプラ荘っていうてね。トゥンって男がやっとるけど、悪いヤツじゃないよ。大きいお宿ができたせいで客が来なくなったから、設備がちと古いけど許してやってね」
経験上、庶民の宿といえば大体、木賃宿のことだ。
木賃宿は、食事ナシの鍵付きの部屋だけ。文字通りひと晩の宿を借りる施設だ。
毛布やベッドの寝具は別料金。馬のエサ代も別料金だ。だから旅人は自前の毛布やマントを寝具代わりにして床に寝る。当然、寝心地はよくない。
暖房や調理の
ならば、せめて食事くらいはしっかり
大きい宿は、この兼業居酒屋の対比になる、宿屋。いわゆる食事付き宿泊施設のことだ。
部屋に寝具はすでに調っていて、食事は別料金ながら頼めば朝食と夕食も用意してもらえる。大都市になると宿屋専属の料理人を雇って作らせるのだとか。なので当然、宿泊料は木賃宿の数倍する。一度だけ貴族の旅行について泊まったことがあるが、下級使用人は旅費節約のため外に野宿になる。家庭教師でよかったとしみじみ思った。
旅とは、そういうものだ。
あと、誤解がないように主張しておくが、貴族の子女が男の供だけを連れて旅をするというのは、〝家出〟か〝駆け落ち〟だ。間違いがおきれば、首が
なのに、ディアンケヒト家では家族が止めないどころか難色すら示さない。あの母親様の思考は本当にどうなっているんだか。
食事は、買ったばかりの小エビとムール貝の海鮮パスタになった。
作ったのは、なんとエレオノーラだ。調理場で男どもが
「先生。いかがですか?」
「たっ、大変おいしゅうございますぅ」
口の中が海の旨味であふれかえっている。俺まで貴族言葉になりそうだ。
「こりゃうまいな」ハニガムも目を見張った。「お嬢さんに、こんな立派な食事を作ってもらえるとはな。お見それしましたぜ」
「うむ、正直でよろしい。昔取った
「十五歳の昔とは」
「内緒です。それより部屋の掃除は済みましたか?」
「ええ。もう問題ありません」
「ごちそうさま。姉さん、ぼくは馬車で寝るよ。おやすみ」
自由な公爵
俺はソースを染みこませた黒パンを口に放り込む。芳醇なエビと貝の旨味がニンニクと手をつないで踊る。まずいはずがない。
朝食は男たちでエレオノーラの分を作らなければならない。
この夕食はある意味、令嬢からの
§
「せんぱーい。なんかいい匂いしてきたっすねえ」
「ああ。してるなー。エビと貝とニンニクと唐辛子だ。
「鼻よすぎ。なんでここ、居酒屋じゃないんっすかねー」
「知らーん。どっちにしても、お前が財布を海に落としたから関係なくね?」
「さーせん。波が悪いんすよ。波があーしを呼んでたんっす」
「だろうな。次の調査、お前と出る時は、財布はおれが預かる」
「いーっすよぉ、別に」
こんこんっ。
ドアがノックされて、二人はドアにカバーリングし、エイジャックスがそっと開ける。
立っていたのは懐かしい顔、前世から記憶に刻まれたにおい。思わずドアを全開にした。
「本当に、アリスかっ!?」
少し見ない間に背も少しだけ伸びたか。大貴族令嬢がどうしてこんな安宿に。
「エイジャックス兄様。
「先輩、こいつなんなんすか?」後輩が
エイジャックスは調子が狂った微苦笑で頭を掻いて、
「おれの妹」
「はっあ!? 似てねー!」
「おれは養子だつったろ。──アリス、なんでおれがここにいるとわかった?」
「お母様の託宣です」
「あー、なるほどね……っ」
驚きや戸惑いがみるみる終息する。離れていても母の
「それと、帝国調査員のお仕事なら、宿帳に本名を書くのは悪手なのではありませんか?」
駄目押しかよ。次兄エイジャックス・チェンバー=ディアンケヒトは、盛大な溜息をついてうなだれると、さすがに後輩の後頭をパチンと張った。
「痛いっすよぉ、せんぱーい。えへへ」
打てども響かない後輩と、察しのよい妹は本当に同じ年を重ねた人族なのか。
「実は、兄様に頼みたいことがあるのですけれど」
「むしろこちらから頼むわ。昼から何も食ってなくて、腹が減って死にそうなんだ。食わせてくれるんなら、なんでもする」
「今晩、ここが何者かに襲撃されるとしても、ですか?」
「ああ、問題ない。荒事のほうがわかりやすくていい。な、アディ」
「別に……いいっすけどぉ。なんか王国貴族に従うのって負けたみたいで
「はあ? 負けたんだよ。お前が海に財布を落としたからっ。
「兄様、時間がありませんの。すみやかに食事をすませてください」
「了解だ。行くぞ、アディ」
ふくれっつらの後輩の奥襟を掴んで、エイジャックスは調理場へ向かった。
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