第6話 わが身世にふる 眺めせしまに



「言いつけた課題ができていなかったので、学習方針を変えます」

 街からご帰館早々、うきうきと何かを言いかけたエレオノーラの前に、俺は魔法陣を描いた皮紙をつきつけた。

「これは……っ!?」

「〝火炎飛槍ゲイジャルグ〟の魔法組成図です」

 基礎学習をする気が起きないなら、はじめに卒業課題に着手し、自分に何が足りないかを思い知ってもらう方針に換えた。

 火系詠唱型破壊魔法・中位の下――通称〝火炎飛槍〟。というのが正式名称だ。

 もちろん未熟術者に配慮して、言語変換コンパイラ部分の効果術式を少しいじってある。魔法学校でも安全装置として発現効果をつかさどる最下第6層術式は意図的に休眠させてあるはずだ。火系中位は、安全装置がなければ死傷者が出るので組成図は第5層までだ。

「先生、そんなことより」

「そんなこと? 今のあなたに、これ以上のことがありますか?」

「私、ついに〝ワイルドハント〟の尻尾を掴んだのですっ」

 ワイルドハント。世界をまたにかけた英霊狩りの冥府魔道猟団、おとぎ話だ。

 俺は、彼女が抱く好奇心の領域を見切った。

「それなら、これは燃やしてよいのですね?」

「えっ?」

「もう次は描きません。当主様に頼まれても御当家で指導する火炎飛槍の魔法陣はこの一枚です。燃やして、いいんですね?」

 エレオノーラにようやく、俺の決意が染みこんだのだろう。赤ん坊がぐずるみたいに顔をくしゃくしゃにし、秀でた額にもうっすらと汗でテカり始めた。

「勉強は必ずしますっ。でも、今を逃したくないんですっ」

「なぜです。それほど殺人鬼を追うことが重要ですか」

「あれは連続見立て殺人ではありませんっ、彼らは世界転移侵略者なのです!」

 世界転移、侵略者? 

 エレオノーラは急に表情を変えた。何が変わった。眼か。魔力か。まるで別人の気配だ。

「先生。私たちの真実をお話します……お部屋に来てください。」



 エレオノーラの部屋は、ベージュに統一されたやわらかな雰囲気でよく整理されていた。

「姉さん、何?」

 アルバートもやってきて、顔を出す。

「鍵をかけて。先生に、私たちの過去を話すことにしたから」

「えっ。……ふぅん」

 アルバートは内鍵をかけると、姉と俺がそうするように絨毯に座り、あぐらをかいた。

「この人、信用できそう?」

「私は、できると思っています。たとえ協力者になってもらえなくても」

「惚れたわけ?」

「まだ十日です。一目会ったその日から花咲く兆候も感じなかったから、当分、起きないわよ」

 弟の軽口を素っ気なくいなし、エレオノーラが俺を見る。

 その二人が、俺に張りつめた暗い視線を向けてくる。

 値踏み。明らかに笑えない緊張感が俺に圧をかけてくる。


「先生。私たちには、前世の記憶があります」

「という、設定ですか?」

 思わずそう返したら、アルバートが腹を抱えてひっくり返った。

 エレオノーラは一瞬、失望した表情を見せてがっくりと押し黙る。

 俺は彼女の文机から皮紙を手に取ると、インクと羽ペンを探して、

「あの、インクと羽ペンはありますか?」

「そこの壺に入っているのがそうです」

 小壺に入っているのは、枝だ。羽じゃない。

 俺が途方に暮れていると、令嬢がやって来て小壺から一本ぬき取った。先がとがっている。

「これは?」

「鉛筆といって、木の中に黒鉛をり込んだものを差し込んだものです。周りの木を削ることで芯を出して紙に書きます」

「ちなみにそれ、ぼくが作りましたー」アルバートが手を挙げる。

「先生、それで? 私の何を試すおつもりですか?」

 俺は改めて筆記用具をエレオノーラに差し出す。


「前世の記憶があるというのなら、ここにその当時の文字を書いてみてください」

「ふぅん、なるほどね。やっぱり先生、頭いいかも?」

 アルバートが微笑を姉に向ける。それから俺に挑むような眼ざしは小癪な若造を見る老獪ろうかいのそれだった。

 エレオノーラは鉛筆をとって、紙にさらさらと短文を書いた。

「なんと書いたのですか?」


「〝花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせし間に〟です」


「おお、おののこまちー」アルバートが茶化す。

「おおおののこ、まち?」

「町ではありません。おのの、こまち。女性の名前です。この短文の意味は、〝桜の花の色は虚しく衰え色褪いろあせてしまった。春の長雨が降っている間に、私の身が衰えたように。恋や世間の様々なことに思い悩んでいるうちに〟といったところでしょうか」

「この短文からそこまでのことがわかるのですか?」

「これは掛詞かけことばといって、一つの言葉に二つの意味を重ねて織り込むことで、心情を濃厚に表現する技法が使われているのです。この」


 エレオノーラは鉛筆で、後半部分を円で囲んだ。


「上の句で、〝うつりけりな〟『移りゆくもの』として、下の句の〝わが身世にふる ながめせし間に〟で、世は『世間』と『男女の仲』という二つ意味で、〝ながめせしま〟とは『眺めてる間』と『長雨で流れた恋間』という二つの意味があります」

「おののこまちとは、普段から暗号で人とやり取りしていたのですか?」

 俺の率直な感想に、姉弟は顔を見合わせて大笑した。

「私たちがいた世界は、ただ言葉を相手に伝える手段ではなく、思いを言葉に託す民族でした」

「思いを言葉に託す。一見しただけでは見えないように?」

「はい」

「なぜそんなことを?」

「恋した相手を深く知りたいからです。恋とはそういう隠し隠されの感情ではありませんか?」

 十四、五歳の少女に恋のなんたるかを語られて、俺は戸惑った。


「あと、サクラというのは?」

「花の種類です。短文を書く上で、『花』といえば桜という植物を特定していました。この世界で私もまだ見たことがありません」

「あったら、見たいですか?」

「ええ、もちろん。木を覆うほどに咲き誇る、淡い薄紅色の、とても美しい花でしたから」

 そう微笑むエレオノーラは恋に恋する少女ではなく一人の女性で、もはや手に戻らない宝物を懐かしむようだった。

 俺は思わず紙面を見ながら、その場で頭を抱えた。 

 わけがわからない。子供の空想にしては作り込まれすぎている。

 知らない文字、知らない恋、知らない文明。いや、これを文明と言っていいのか。

 恋って隠すモノではなく、相手に伝えるモノじゃないのか。

「先生、大丈夫ですか?」

「エレオノーラ様、前の世界でもあなたはアリス・エレオノーラだったのですか?」

 令嬢は一瞬、俺の愚問に微笑を浮かべて、俺が魔術師だったことを思い出したのか緊張をそっと飲みこんだ。

「いいえ。でも名前は申せません。先生が、私たちの味方だと確信しない限りは」

「味方? 敵がワイルドハントだと? 繰り返しになりますが、彼らはおとぎ話の住人では」

 エレオノーラはゆるゆると首を振った。再び向けられた眼ざしには静かにたぎる憎悪の炎がゆらめいていた。

「ワイルドハントはかつて、私たちの国を攻め滅ぼした張本人です」

「その国の名は?」

 令嬢は利き手の肘をもち、鉛筆で紙に複雑な図か文字を二つ、離して書いた。


【 瀛  䋝 】


「どちらも〝エイ〟と読みます。上は国、下は都に住まう私たち一族をさす名でした」

「お二人は、その時も姉弟を?」

「いいえ。彼は従弟いとこでしたが、䋝の一族でした。なので、この世界でも関係はほとんど変わってませんね」

「だよねー」

「では、このことを、お父上のウォーデン・アズマは?」

「伝えました。ちなみに彼も〝現代日本〟という、私たちとは別の世界で漫画家をしていたそうです」

「ま、マンガカ?」また知らない単語が出てきた。

「私もよくは存じませんが、絵を描くお仕事だそうです。過労で亡くなったそうです」

 絵を描くだけなのに過労で死ぬのか。これも分からない世界だ。あの英雄も前世とやらの記憶がある。それなら、部屋に飾られていた奇怪な絵は当主が自ら描いたものか。


「さあ。先生にお話しできることは話しました。これで」

「まだです。まだ肝心なことを聞いていません」

 エレオノーラはきょとんとした面持ちで、小首を傾げた。

「ガブリエルハウンズです。あなたはガブリエル・ラチェッツ、猟犬と呼んだ」

「はい。彼らは英霊狩りを主人から請け負っている先兵、いわゆる勢子せこ(獲物の発見と追い立て役のこと)です」

「ヤツらは、この世界の英霊を捜している? なんのために」

 エレオノーラは確信を得ている眼ざしを向けて俺を見つめ、頷いた。

「彼らが英霊を狩り集め、冥府で幹部たちが英霊を掌握して猟兵に変えます。そして生者に憑依ひょういさせて戦乱や政治腐敗を誘発して国の屋台骨を腐らせてから、攻めかかる戦法をとります。私たちの世界もそのように内からむしばまれて滅ぼされました」

 俺は腕を組むと部屋を歩き回った。その時だった。ドアを激しく叩かれた。

 俺は鍵をはずしてドアを開けた。

「あっ、サリバン!?」

「緊急じゃないなら、後にしてくれ」

 ドアを閉じて、鍵をかけ直す。

 シンクレア夫人だった気がするが、すぐ脳裏から流した。


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