第34話 完成した絵画
柔らかな日差しが射し込む美術室で、ひかりは誠司と向かい合って座っていた。
半分ほど開いた窓からゆったりとした風がそよいで、カーテンを涼し気に揺らす。
湯気の立つコップを手に、誠司はひかりにいつもと変わらない優しい笑顔を向けている。
ずっと自分に向けられていた笑顔を取りもどせて、ひかりは涙が出そうになる。
嬉しくて嬉しくて、ひかりはただ目の前にいる誠司のことを見つめていた。
ああ、なんて穏やかなんだろう。
それがどんなに自分にとって大切なものだったのかを、ひかりは噛み締める。
その時だった。突然バタバタとカーテンが音を立て、強い風が教室を吹き抜けていった。
長い髪が風に煽られ、ひかりは目を閉じる。
そして風はすぐに止んだ。
頬に掛かる髪をかき上げ、ひかりが再び目を開けると、今までそこにいた少年の姿は忽然と消えていた。
「高木君!」
ひかりは席を立って少年の姿を探す。
美術室を出たひかりは、そこに誠司ともう一人、見覚えのある少女の姿に直面した。
「どうして……」
あの靴箱で見掛けた女生徒だった。
二人は振り返ることなく、ひかりに背を向けて歩き出す。
「……高木君、待って、お願い待って!」
呼びかける声に振り返ることなく、二人はゆっくりと遠ざかっていく。
「高木君!」
そして、ひかりは目が覚めた。
「夢……」
うつぶせの状態で眠っていたひかりは、寝返りを打って仰向けになる。
あんな夢を見てしまったせいだろう。なんだか体が重い。
カーテンの隙間から射し込む陽光が、部屋の中に陽だまりを作っている。どうやらずいぶん遅くまで眠ってしまったようだ。
「日曜日……なんだ……」
何も知らなければ何の変哲もない日曜日の朝だった。
ベッドから身を起こしたひかりは憂鬱な表情で、部屋に掛けられた時計を見上げる。
時計は九時を少し回っていた。
窓からカーテン越しに差し込む日差しの明るさとは裏腹に、ひかりの胸は重く沈んでしまう。
靴箱で高木君と一緒にいた女の子。
とても親しそうに今日の待ち合わせのことを話していた。
十時になったら高木君はあの子と……。
ひかりは再びベッドに体を横たえ、大きな枕を腕に抱いた。
「行かないで……」
どうしようもないその気持ちを、ひかりは小さく声に出す。
「どうしてあの子なの……」
涙が頬を伝い枕を濡らしていく。
「どうして私じゃないの……」
そして、ひかりは部屋の隅にある机の上に目を向ける。そこには渡せなかったクッキーの入った袋が置かれていた。
会いたい……。
高木君に会いたい。
こんなにも高木君のことが好きだったなんて……。
こんなにも胸が苦しいなんて……。
それからひかりは、涙で濡れた枕をきつく腕に抱きかかえて、嗚咽を漏らしながら、ずっとひとり泣いていた。
日曜日の午前中、学園祭のクラス実行委員の誠司は、同じく実行委員の
色々模擬店の案が出たが、どれもパッとせず、最終的に味で勝負しようということでクラス全員が団結したのだった。
「すみません。お忙しいのに僕たちのために」
誠司は無理を聞いてくれた店主に深々と頭を下げた。
「いいのいいの、いつも買ってってくれてるお礼だよ」
たこ焼きを焼く係を買って出た林由美は、どうやらここの常連らしい。
一度大きな鉄板でたこ焼きを焼いてみたいと、前々から思っていたというこの娘は、いざその鉄板を前にして緊張よりも興奮の方が上回っている印象だ。
どう見ても誠司よりもこの女生徒の方が肝が据わっているようだった。
「実は私、たこ焼き焼いたことないんだ。なんだか緊張するなー」
「ホント? 立候補してたからてっきり家庭用タコ焼き機のベテランかと思ってた。俺も全く経験ないし、ほんとに上手くいくのかな」
早く焼いてみたそうな雰囲気のこの女生徒とは逆に、誠司は懐疑的で弱腰だった。
「なに弱気になってるの、私たちがしっかりしないと二組は終わりよ」
「その意気だお嬢ちゃん。しっかりマスターして帰ってくれ」
感じのいい店主はおおらかに笑った。
そして三年二組期待の星、林由美は腕まくりして熱く焼けた鉄板に向き合ったのだった。
たこ焼き屋で予想以上に手こずったものの、誠司は午後三時には学校の美術室でキャンバスに向かっていた。
島田は誠司が戻ってきているのを見て声をかける。
「おう、順調か?」
「絵ですか? たこ焼きですか?」
「どっちもだよ」
島田は誠司のために、日曜日も美術室を開けてくれていた。
「たこ焼きのほうは、俺はレシピをメモって焼き時間とか測る係でした」
「じゃ林は?」
「あの子プロになれますよ。帰りにバイトにスカウトされてましたから」
「そりゃすごいな。ていうか、うちはバイト禁止だっつーの」
島田は煙草に火をつける。すっかり誠司の存在を忘れているようだ。
「フー、なんかいけそうだな。打倒三組。といってもあの少女漫画のヒロインとラブぽよ2号以外は敵じゃないがな」
サラッと言った島田に、誠司は驚いたような顔を向けた。
「先生、今なんか変なこと言わなかった? 何とか2号みたいな」
「ああラブぽよ2号だろ。なんかアニメキャラに似てるって漫研のやつともう一人アブなそうな奴が広めてるみたいだな」
「それ、山田と、山本です」
「そうそう確かそうだった。あれ橘のことだろ。俺も一回観てみようかな」
「いや、深夜アニメでちょっと過激だし、観ない方がいいですよ」
「なんだお前やけに詳しいな。そっちの方にも興味あるって知らなかったよ」
島田は窓の外にふっと煙を吐いてから、「あっ」と言って慌てて火を消した。
「すまんすまん。つい癖で一服しちまった。内緒にしといてくれ」
「煙草のことはもう慣れているんでいいけど、俺アニキャラに興味ないですよ」
「そうか、とすると、新だろ。俺はあいつは相当なむっつりだと見抜いてるんだ。当たりだろ」
誠司は何も言わずキャンバスに向かった。
大当たりだった。
夕方、もうすぐ十月半ばになろうかという季節は、日の落ちゆく時間も早くなっていた。
「そろそろ帰ろうぜ。いくら何でも長時間労働しすぎだ」
美術室に戻ってきた島田は、さっきまで昼寝でもしていたのか大きな欠伸をした。
そして誠司は、もうキャンバスには向かわず窓から外を見ていた。
空が真っ赤に焼けている。教室に射し込む夕日が眩しい。
「とうとう終わったか」
島田が声をかける。
誠司は振り返り笑顔を見せた。
「見せてみろ」
「どうぞ」
まだ絵の具の匂いが残るキャンバスの前に立ち、島田はしばらく何も言わずに完成した絵を眺める。
教室に差し込む夕日が、教師とイーゼルの影をゆっくりと伸ばしてゆく。
やがて島田は大きく一つ頷くと、口元に満足げな笑みを浮かべた。
「大したやつだよ」
ぽつりと島田はそう口にして、夕日を遮る窓際の少年に顔を向け、眩し気に目を細めた。
「よく頑張った」
ずっと少年を見続けてきた美術教師は、ひときわ大きな声で一年越しの集大成を称えたのだった。
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