第33話 クッキーと本心

 ひかりは携帯電話の通話ボタンに指をかけたまま、電気もついていない暗い自室のベッドで目を閉じていた。

 もうその状態で二十分は経っただろうか。

 やがて、ひかりはベッドの上で座りなおして深呼吸を一つすると、通話ボタンを押した。

 何度目かのコールのあと、電話は繋がった。

 

「もしもし高木です」

「私、時任です」


 ひかりは自分の声が別人のように硬くなっていることに自分でも驚いた。


「時任さん、どうしたの?」


 電話の向こうの誠司の声はひかりと同じく硬かった。


「今日ね、言い忘れてたんだけど」

「うん」

「高木君のノート、私これからもとっとくから……まだ字を書くのは時間かかるんでしょ?」


 受話器の向こうからすぐに返事が返ってこない。

 そして短い沈黙のあと、また硬い声が聴こえてきた。


「時任さん」

「うん」

「俺、字もだいぶ書けるようになったんだ。明日からそっちもがんばってみるよ。心配してくれてありがとう」


 携帯を握りしめたまま、ひかりは目を閉じる。


「時任さん?」


 返事のないひかりに、受話器の向こうから心配そうな誠司の声が聴こえてきた。

 誠司のその声に、ひかりは胸の辺りに疼くような痛みを感じた。

 怪我をしたあの人の支えになりたい。そう思ってこれまでやってきたはずなのに、今自分は前に一歩踏み出したあの人を引き留めようとしている。


 私、高木君を応援するって決めたのに……。


 胸の痛みを必死で抑えて、ひかりは声を絞り出した。


「うん。わかった……」


 ひかりは前に進もうとしている誠司のことを思い、無理に明るい声を意識して言葉を続けた。


「明日、今までのコピーを取って明後日には渡せるようにしとくね」

「うん。ありがとう。最後まで手間を掛けさせてごめんね」

「いいの。それじゃあまた。おやすみなさい」

「電話ありがとう。おやすみなさい」


 電話を切ったあと、ひかりは一つ大きく息を吐いた。

 胸の奥の疼くような痛みが消えない。

 今起こっている現実を直視できずに、ひかりは動けなくなってしまっていた。

 そして膝を抱えて顔をうずめる。


「応援するって、決めたのに……」


 肩が小さく上下し嗚咽が漏れ始めた。


「私、どうしたらいいの……」


 今日散々泣いたひかりの眼から、また涙があふれてきた。



 通学路の並木道。朝の空気の中でひかりは誠司の姿を見つけた。

 ただおはようと声を掛けるだけ。そう思って気持ちを落ち着かせる。

 そして駆け出そうとした時、誠司が右手で鞄を持っていることに気付いた。

 踏み出そうとした足が止まってしまう。

 そのままひかりは声をかけることができなくなり、ただその背中を目で追うことしかできなかった。

 

 その翌日、ひかりは約束していたノートのコピーを手に、誠司のクラスへと向かった。

 入り口で脚を止めたひかりは、フウと一つ息を吐いて誠司の姿を探す。


「あれ?」


 そこにいると思っていた席に誠司の姿はなく、ひかりは教室の奥を覗き込む。

 そしてそこには、クラスの女子と楽し気に何かを話している誠司の姿があった。

 その瞬間、ひかりは胸に息苦しい様な感覚を覚えた。

 自然と胸に抱えていたコピーを持つ手に力が入る。


「あら、時任さん、誰かに用なの?」


 声を掛けて来たのは、前に同じクラスだった女生徒だった。

 立ちすくんでいたひかりは、慌てて動揺を隠す。


「えっと、うん。ちょっと高木君に用があって……」

「ちょっと待ってて、高木くーん」


 良く通る女生徒の声に振り返った誠司は、入り口にいたひかりに気が付くと、会話を中断してすぐにやって来た。

 教室から出て来た誠司は、やや申し訳なさげにひかりと向き合う。


「ごめんね時任さん。えっと、コピー取ってくれたんだね」

「うん。このまえ約束してたやつ……」


 もっと話をしたかった筈なのに、何故か言葉が出てこない。

 ひかりは思い通りにならない自分の心に戸惑う。


 せっかくこうして話せる機会ができたのに……。

 話したいことがいっぱいあるのに……。


「ありがとう時任さん。本当に感謝してます」

「あ、うん。じゃあまた」


 短い会話のあと、もう一度お礼を言って、誠司はクラスの中へと戻って行った。

 あっという間に要件が済んでしまったひかりの口から、誰にも聞こえることのない小さなため息が漏れる。

 そのまま教室に戻ろうとしたひかりだったが、少し開いた窓の前で再び脚を止めた。

 僅かに開いた窓からは、教室の奥で会話の続きを再開した誠司と女生徒の姿が見えた。

 ひかりは楽しげにお喋りをしている二人を、食い入るように見つめる。

 

「なんだ時任、もう授業始まるぞ」


 廊下で立ち尽くしていたひかりは、次の時限の教師に背後から注意され、ハッと我に返る。


「あ、はい。すみません」


 そして、ひかりは教室に急いで戻って行った。



 部活の練習が終わって、ひかりはバスに揺られていた。

 楓が最寄りの停留所で降りてから、最近ひかりは一人になる。

 隣ではにかんだような笑顔を浮かべていた少年はもういない。

 喪失感を埋められないまま、ひかりはぼんやりと流れていく景色に目を向ける。


「あの子と何を話してたんだろう……」


 小さく呟いたモノローグに、ため息が混じる。

 そして次の停留所でバスが停車する。

 やがて扉が独特な音を立てて開き、鞄を持った小学生らしい男子と女子の四人組が、お喋りしながらバスに乗車してきた。

 これから塾にでも行くのだろう。仲の良さそうな子供たちの話し声が静かだった車内の空気を一変させる。

 ひかりは賑やかになった車内で、しばらくぼんやりと小学生の方に目を向けていた。

 そして、また窓の外に目を向けて、小さな吐息を漏らす。


「クラスメートなら、お喋りするくらい、きっと普通だよね……」


 まるで自分に言い聞かせるように、ひかりはそう呟いた。



 それから十日が過ぎた。

 ひかりは誠司の姿を気が付いたら探してしまっていた。

 用も無いのに誠司のクラスの前を通ってみたり、誠司が部活を上がる時間帯に合わせてバスに乗ったり、少しでも接点を持とうとしているひかりの姿は痛々しいほどいじらしかった。

 それでも次第に学校内でも通学路でも、ひかりは誠司に殆ど会わなくなっていった。



 ほんの少し肌寒くなった秋の入り口、今日は午後からは学校全体が学園祭の準備の日に充てられていた。

 そして、この日は部活動も無く、作業時間が決まっていたので、ひかりは校舎を出たところで誠司を待っていた。

 ひかりは今日、誠司に会ったら渡そうと思って、自分で焼いたクッキーを鞄に入れていた。

 なんとなく声をかける理由が思いつかなかったこともあった。でもそれよりも、またあのお昼休みの時のように、美味しいと言って喜んでくれる顔を見たかったのだった。

 鞄の中にしまってあるクッキーを渡すことを想像しながら、ひかりはもう三十分以上も待っていた。


「喜んでくれるかな……」


 ぽつりとつぶやいてから、少し日が傾きかけた空を見上げる。

 下校する生徒の数もまばらになり、校舎から聴こえていた声も静かになった。

 きっと校内には、もうあまり生徒は残っていないのだろう。

 そろそろだと思ってガラス扉ごしに靴箱を覗き込むと、丁度誠司が靴箱の前に姿を見せた。


 来た。


 急に胸がどきどきし始めた。

 落ち着こうと、ひかりは大きく深呼吸をしてみる。

 ガラス扉の向こうで、誠司はこれから靴を履き替えようとしていた。

 ひかりは気持ちを落ち着かせようと胸に手を当てたまま、その姿を見つめる。

 誠司が靴箱に左手を伸ばした時だった。


 あっ。


 視線の先で、誠司の右手に提げていた鞄が、するりと指から放れていった。

 鞄はそのまま床に落ちて、わずかに埃を舞わせた。

 ひかりはとっさに誠司に駆け寄ろうと、ガラス扉を回り込もうとする。

 その時、ひかりの耳に女の子の声が聴こえて来た。


「大丈夫? 高木君」


 その声にひかりの脚が止まった。

 少し見えにくかったが、その女生徒は誠司の鞄を拾い上げて埃を払った。


「靴を履いてるあいだ、持っててあげるね」


 ガラス越し見えるその横顔に見覚えがあった。コピーを渡しに行った時に誠司と楽し気にお喋りしていた女生徒だった。

 そして今、鞄はその女生徒の胸に抱えられていた。


「ありがとう。助かるよ」


 以前何度もひかりに言ってくれていた言葉が、今はその女生徒に向けられていた。

 胸に言いようの無い息苦しさを感じながら、ひかりは咄嗟に二人から見えないよう柱の陰に身を隠した。

 隠れて様子を見つめるひかりに気付かず、二人はなにやら親しそうに話をしている。

 やがて靴を履き終えた誠司と女生徒はガラス扉を抜けて、ひかりが身を隠している柱のすぐ近くへとやって来た。

 咄嗟にひかりは、さらに柱の陰へと回り込む。

 あちらから見えないのと同様に、ここからではひかりも二人の様子を見ることができない。それでも、ガラス扉が無いせいで、さっきよりも二人の会話がはっきりと聴こえて来た。


「日曜日何時にする?」


 女の子の声だった。


「十時にしよう。少し早いくらいの方がいいよね」


 その短い会話は、ひかりにとって受け止められないほど重いものだった。

 息苦しさを感じながら立ち尽くしていると、また二人の会話が耳に入ってきた。


「じゃあ駅前に十時で」

「うん」


 ひかりから見えない所で二人は親し気に話している。

 どうすることも出来ずに、ひかりはただ茫然と立ち尽くす。


「なんだか緊張するね」


 誠司の声だった。


「うん。私もだよ」


 心なしか、そう応えた女の子の声は弾んでいた。

 二人は隠れているひかりに気付かず、並んで通り過ぎていくと、そのまま校門へと向かって行った。

 やっと柱の陰から出て来たひかりは、遠ざかっていく二人の背中を、やるせない気持ちでただ見つめる。

 胸の前で強く抱えてしまった鞄の中のクッキーは、ひかりの胸の中のようにたくさん割れてしまっていた。

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