楽しいです
「あ~も~、話するんでしょ!! とっとと理事長室行くよ!! ……ってわけで、じゃあな伊勢美!!」
「あっ、泉、逃げるな~!! ……灯子、今度ゆっくり話そう!! ではまた!!」
恥ずかしさがピークに達したのか、逃走する泉さんと、それをすぐに追いかける愛さん。2人はそれぞれ僕に挨拶をすると、瞬く間に見えなくなった。早い……。
そして追いかける気ゼロな忍野さんだけが、その場に残った。
「楽しそうだな」
脈略もないその声掛けは、彼らしいなと思う。ただ自分が言いたいことだけを、ただ言う。そこに相手への気遣いなど1ミリも存在しない。……まあその分、こちらも気を遣わなくていいから楽だけど。
「そうですね、楽しいです」
そう素直に答えると、忍野さんは黙る。見上げると、心底気持ち悪いものでも見るかのような視線を向けられていて。僕は思わず不平の声を上げた。
「……文句ありますか」
「……ねぇけど、なんか気持ちわりぃなと思って」
「それ、文句あるって言うのでは?」
失礼な人だ。いや、別に、この人に礼儀なんて欠片も求めていないが。
「……まあ、少し辛いこともありますけど。それは自業自得なので。……それでも、楽しいと思いますよ。今、この、何気ない日常が」
「……」
彼を見ないまま付け加えると、忍野さんは黙って何も言わない。すると遠くから誰かの笑い声が聞こえて。僕たちが日常の一部に溶け込んでいるような、そんな感覚になる。
「……この程度で辛いとか、もっと辛いことを知ってるだろ。お前は」
「……まあ、そうかもしれないですけど」
「だったら弱音吐いてんじゃねぇよ。楽しいと思うのなら、素直に享受しておけ。……どうせ、その楽しさは一時的なものだからな」
「すごい気分下げてくる発言してくるじゃないですか」
「俺に何を期待してるんだよお前は」
「いや、期待なんてしてませんけど」
あまりにも空気が読めないと思っただけだ。僕が言えることではないと思うが。
忍野さんは深々とため息を吐くと、僕を一瞥しながら告げた。
「……俺たちみたいなやつは、もうどうしたってマトモな道を歩けないんだよ。どうせどこかで何かを壊してしまうし、破綻してしまう。……そういうものなんだよ。だから、せっかくの楽しい日々、せいぜい楽しんでおけ」
「絶対楽しめとか思ってませんよね」
……まあ、その言い分はもっともだと思う。僕の中にある罪の意識は、いつまでも僕のことを縛り続けるだろう。運良く周囲からの信頼を取り戻せたとしても、疑惑を完全に消せるわけでもない。だから、いつ壊れてしまうか分からない。僕の存在が、また日常を壊すことになるかもしれない。
予想は出来る。でも、それでいつまでも止まるわけにはいかないから。
「僕は忍野さんと違って、日常を楽しむことも、壊してしまったものを修復することも、諦めませんから」
僕は世界を「拒絶」していた。初めから、関わることすら諦めていた。
でも、優しく受け入れてもらって、僕自身も、世界を「受容」出来るようになったから。
だから、諦めない。諦めたくない。それが、僕にとっては難しいことだとしても。
「……随分棘のある言い方だな」
「別に。忍野さんってなんだかんだ自己満足のために言いたいこと言ってるなんて思ってませんけど」
「思ってるじゃねぇか……喧嘩なら買うぞ」
「いつも先に喧嘩売ってるのはそっちでしょう」
ふ、と笑うと、分かりやすく忍野さんが眉を吊り上げる。なんか、この人の扱い方、分かってきた気がする。
「密香~、何油売って……って!? 何このギスギスな空気!?」
「泉さん、この人が売ってるのは油じゃなくて喧嘩です」
「何!? 伊勢美なんかその言い方火力高くない!? どうしたのお前そんなキャラじゃなかっただろ!?」
「いや、いつも売られてるんで、たまには買ってみようかと」
「そんな試食するみたいな気軽さで!?」
忍野さんは泉さんに首根っこを掴まれ、理事長室へと連行されて行った。彼は僕と戦う気満々だったけれど……まあ、買っておいてあれだが、異能力を使うのを自主規制していたので、あのまま戦闘に発展しなくて良かったと思う。
というわけで、今度こそ本来の目的を果たしに行くことにする。僕は被服室の扉を叩いた。
「は~い。……あ、伊勢美さん。こんにちは」
「あ、
扉が開くとそこから顔を覗かせたのは、
あの時と違って、刺々しい雰囲気はない。僕はそのことに少しばかり安堵しながら、口を開いた。
「あの……あの時は、ありがとうございました」
「あの時……? あっ、あの時ですね。……でも私、あの後結局気分悪くなっちゃって、先輩に迷惑掛けただけですし……」
僕の言葉に、何のことか思い至ったらしい。そう、あの時だ。愛さんが倒れてしまった時、彼女の姿を、この人が異能力で隠してくれた時。
「俺がなんだって?」
「ひゃぁっ!? ……せっ、先輩!!」
すると小布施さんの背後から現れたのは、
一方墓前先輩はそんな小布施さんに構わず、僕を見るなり、あっ、と呟いて。
「そういやそっか。もう乾いてるから……待ってろ、取ってくる」
「すみません、お手数おかけします」
「いいよいいよ、気にすんな」
墓前先輩はそう言って軽く僕に手を振ると、被服室の奥へ消えていく。そしてすぐに戻ってくると、その手には綺麗に折りたたまれた僕の制服が。
「はい、これ。お前も災難だったな」
「はは……災難というか、自分から突っ込んだっていうか……」
もちろん、文字通りの意味だ。
小布施さんから被服準備室の鍵を借り、僕はそこで制服に着替える。姿見の前で、真っ赤なリボンを結んで。……うん、完璧だ。
無意識に、リボンに手を添える。……もう、ののかの見た目を少しでも真似する必要なんて、ないけれど。結局続けてしまっている。だって、もうすっかりこの姿に慣れてしまったし……元の地味なネクタイより、こっちのリボンの方が可愛いと思うし。
被服準備室から出ると、そこでは墓前先輩と小布施さんが、1つの服を前に何かを話し合っていた。鍵を返すために、申し訳ないが話しかけさせてもらって。
「……似合ってますか?」
なんとなく、聞いてみる。小布施さんは不思議そうに首を傾げ、墓前先輩は……優しく、微笑んだ。
「うん、似合ってるよ」
たぶん、色々察した上で、そして本心で、そう言ってくれている。
それが分かったので、僕は少し照れくさい気持ちになりながら……ありがとうございます、と告げるのだった。
そしてそんな墓前先輩の脛を、小布施さんが思いっきり蹴り飛ばしていた。理由は分からなかったが、なんだか面白かったので……小布施さんと2人で、大爆笑してしまった。蹴られた墓前先輩だけが、目を白黒とさせていた。
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