第3話

 鉄柵を越える時、靴を脱ごうか迷った。素足の方が、足元が安定するに違いないが、鉄柵を越える前に靴を脱げは、その脱いだ靴を鉄柵の内側に置き残すことになる。いかにも自殺する人間がやりそうな事だ。くさい前置きだとか、劇場型の自死のつもりかなどと現場検証の際に笑われたくない。それに、ピンヒールではないが、太くて少し高めのヒールがついた靴を脱いだ自分の身長で、この鉄柵に登り、越えられる自信は無かった。


 柵の内側で離れて転がっている私の靴を横目で見て、葛木が言った。


「あれ、どうすんだよ。何か考えとけよ」


 最初から脱いで奇麗に柵の内側に揃えて置いておけと言わんばかりだ。自殺者がするように。今更、どうしろと言うのだ。


「ま、もう少し時間はあるだろう。それじゃあ、少しお話ししようぜ。なあ」


 何を話せと言うのか。高層タワーマンションの屋上の縁で、思いつく話題などあろうはずがない。葛木とは初対面だ。歳も違い過ぎる。共通の話題は無い。


 思えば、相方ともそうだった。彼の方が私より五歳年下だから、微妙に音楽や映画の好み、話題に上がる芸能人、振り返る思い出などにズレがあるのだ。


 それらは男女にとって決して埋められない溝というものではないし、五歳差程度の夫婦など普通の範疇だろうから、特に気にすることも無く穏やかに時を共有できるのであろう。ということは、つまり、私と相方の場合は普通でなかったのかもしれない。彼はあまり私と会話したがらなかった。初めは仕事で疲れているのだろうと思っていたが、次第に、時世ときの流れが速い時代に生まれた我々の世代にとって、五歳の年齢差は会話の自然発生を阻むのだと自分に言い聞かせていたのかもしれない。私自身も彼との会話を避けるようになり、次第に趣味の園芸に割く時間が多くなっていった。そのうち、彼が私に話し掛けてくるのは、専ら夜の営みを求めてくる時だけとなった。そして、彼がこのマンションに来る時は、いつもワインを飲んで、会話をした。ワインが飲みたくて来るのではない。もちろん、会話がしたくて来るのでもない。彼自身の肉体の必要に迫られて、来るのだ。つまり、彼が私のマンションにやって来るのは、それが彼に必要な時だったからに違いない。いつしか、私のマンションのベランダは、花でいっぱいになっていた。


「おい、聞いているのか」


 葛木の声が響いた。彼は嘆息たんそくを漏らして言った。


「おい、大丈夫か。これじゃあ、どっちがどっちだか分りゃしない。ボーとしないでくれよ。あんたにここで転落事故死なんてされたら、警官としての俺の立場はどうなるんだ。その点は、さっきも話したろ。頼むぜ」


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