第2話
手が震える。緊張なのか、恐怖なのか、本能なのか。まったく分からない。
何かが聞こえた。下半身に力が入らない。呼吸が小刻みになり、耳の中に心臓が移動したかのように、鼓動が鼓膜に響く。心拍音の合間に、低く、少しこもった声が割り込んできた。息を吸い、長く吐く。もう一度くり返すと、声が少しだけ明瞭になった。
「――大丈夫か。こっちを見ろ」
相手を見た。やはり初老の男だ。日焼けした顔は年季が入っている。私が見てきた顔の中では鋭い顔の部類に入るだろう。尊敬し、見習ってきた先輩たちと同じ顔つきだ。酸いも甘いも嚙み分けているだろうし、臨機応変に事を運ぶことにも長けているだろう。そんな人と……私で務まるのだろうか。
「初めてか」
「いえ、そういう訳では……」
「近くで見ると、いい女だな。歳は」
「三十四になりました」
「そうか。こういう事には、ちょうどいい年頃だな」
「どういう意味ですか」
「若い方がいいって事だよ。体力が要る」
「別に無理をするつもりは……」
「つもりは無くても、そうなるものさ。お互い人間だ。そんな事より、早く脱げ」
「まだ飲むのですか」
「んん? ああ、入れとかねえとな」
この男が握ったまま口に近付けているのはビールの缶だと思う。その缶の中にあとどれほどビールが残っているのか不明だ。つまり、彼がどれほど飲んだのか。
「そう怖い顔をするな。大丈夫だ。もう飲まねえよ」
男は缶を背後に放った。息が止まる。背筋に気持ち悪いものが走った。鈍い溜まった音がする。音は響かない。落ちて転がった缶の口からビールが零れて広がった。安物の発泡酒だ。炭酸をはじかせながら床に
男に顔を向けると、彼は逆にこちらの顔を覗いたまま、片笑んでいた。
「縮こまっちゃいねえな。上等だ」
「
男は一瞬険しい顔になったが、またニヤリと笑んだ。
「今更ビビッて、どうする。俺もあんたも、つまり、俺たちは一線どころか、越えちゃいかんものを越えちまったんだ。あとは、やるべきことをやる。それだけだろ」
「私は、そんな風には……」
「考えていませんか。じゃあ、どうしてその長い髪をまとめ上げて、しっかりと留めているんだ。やる気満々じゃないか」
「これは、邪魔になるからです」
少しむきになって答えた自分が嫌になる。相手にすることはなかったのに。こういう事は淡々と進めればいいのだ。淡々と。
「そうだろうよ。だから俺は言っているんだ。あんたには、その気がある。だが、心と体は別だ。体は正直だ。もう、今、自分ではどうすることもできない。そうだろ」
口を縛ってしまう。悔しい。確かにその通りだから。棒を握ったままの右手は、硬直して動かない。つま先と膝を意識して、必死になって下半身に力を入れる。また呼吸が早くなってきた。背中から汗が噴き出てくるのが分かる。
葛木が私の足下を指した。
「だから、早く靴を脱げと言っているだろう。そんな
言っている事はもっともだ。自分でも分かっている。初めから脱いでおけばよかったのに、いらぬ配慮をして靴を脱がなかったことが悔やまれる。
私は慎重に片足立ちになり、上げた脚の膝をゆっくりと折って、左手だけを使って靴を脱いだ。急いで、その靴を握ったままの左手で右手の上から棒を掴むと、その向こうに靴を放り投げる。ゆっくりと素足を床に着いてから、震えている反対の足からも同じようにして靴を脱ぎ、同じようにして右手の向こうに靴を放り投げた。素の両足で床を踏みしめてみると、不思議と足の震えが止まった。気分も少し楽になったようだ。鉄柵の棒を握っている右手は依然として硬直しているが、さっきよりは落ち着いている。息も楽だ。
葛木は背後の鉄柵に両肘を乗せて凭れたまま、正面の眼下に広がる市街地を顎で指した。
「少し遠くの方に視線を向けて見ろ。気が楽になるぞ。でも、絶対に真下は覗くなよ。その調子だと、あんた、本当に落ちちまうぞ」
はるか下方に、高速道路の上を流れる車が、まるで米粒のように見えている。真下など覗けるはずがない。そうするためには、このタワーマンションの屋上の輪郭の内側に巡らされた腰高の鉄柵の棒を握りしめている右手を放し、一歩外側に寄って、頭部を屋上の縁よりも外に出さなければならない。そんなこと、今の私にできるはずがない。この鉄柵を越えて、外側に降り立つだけでも意識が飛びそうだったのに。
吹き付ける風にバランスを崩さないように注意しながら、右手で鉄柵を握りしめ、顔を葛木に向ける。髪をまとめておいて正解だった。普段通りに下ろしていたら、風に流された自分の髪で視界を塞がれていたことだろう。それでは失敗する。目的は遂げねばならない。
「そう
確かに、言われてみれば、そのとおりだ。
「
鼻で笑った言い方。
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