風が気持ちいい。

　でも、それだけだ。体の中にまったく入ってこない。肌に触れるだけで、肌に触れるだけで、……。

　揺れる木の葉の音も喚（わめ）く蝉の声も聞こえない。白い太陽が照り付ける。ただ熱いだけだ。見慣れた高層ビル群の影も、高速道路の曲線も遠い。なにも面白くない。

　これまでは順調にキャリアを積んできた。職場ではそれなりの実績をあげてきたし、同僚からの信頼も築いてきた。経済的にも余裕ができた。だから、このマンションを買った。新築の高層タワーマンション。職場に近い場所なので、それなりの値段はした。最上階を購入することは叶わなかったが、自分としては上出来だと思う。３ＬＤＫに東向きのベランダ付き。この高さのタワーマンションにしては珍しい物件かもしれない。でも、ベランダは欲しかった。趣味の園芸ができる広さのベランダ、それを見た時、立地のことなど頭から飛んでいた。

　広さについては相方と少し揉めた。相方は2ＬＤＫで十分だと言った。数階上に南向きの2ＬＤＫが売れ残っていたからだ。でも、自分としては将来的なことも考えて、もう一部屋は要ると思った。結局、ローンを負担するのは自分だということが決め手となり、3ＬＤＫを買うことにした。

　家具も全て新調した。間取りと広さでこちらが意見を押し通したということもあったので、家具は相方の趣味を優先した。購入する時は全てこちらのカードを使ったが、一応、一緒に選びに行ったわけだし、部屋にあれば使うのは相方だけではないはずなので、それでいいと思った。一番高かったのはソファーだ。クーズーとかいう動物の皮を張ったアンティーク調のソファーで、まったく好みではなかったが、一応、二人掛けということだったし、相方も前から欲しかったと言うので、購入を承諾した。英国の老舗メーカーが卸している珍しい革だとか、二十世紀初頭の雰囲気を醸し出したデザインで一点ものだとか、あの饒舌な店員の口車に相方が乗ったことは分かっていた。レジで精算手続きをした時の、あの店員のほくそ笑んだ顔が憎らしい。革の色は深い茶色で、あえて古く見えるようにキズだらけに加工してあるので、新築のリビングでは浮いている。これだけが異様に暗い。背当ての角度がほぼ垂直で、座っていても体が休まらない。予想した通り、部屋に搬入されて三日ほどで、二人の荷物載せとなり、合わせて買った木目調のローテーブルを挟んで、それぞれラグマットの上に直接座るようになった。ワインボトルとグラスと摘まみの中皿を置いたら他に何も置けないくらいに狭いテーブルだったが、そこでよく二人で飲んだ。

　二人とも、ミラヴァルという銘柄が好きだった。おしどり夫婦を謳うハリウッドのスター夫婦がプロデュースしたという、南フランス産のロゼワインだ。ネットで見つけて、あやかりたいという思いと物珍しさに惹かれて購入したものだが、意外にも相方は味が気に入ったらしく、顔がそのワインと同じ色になるまで飲んだ。外遊びで日焼けして真っ赤に火照った子供のような顔。それを愛おしく見つめたものだ。

　今、私の前には日に焼けた肌に無数の小じわを刻んだ初老の顔がある。その顔は汗を浮かせ、やや紅潮ぎみだ。見開いた目は、ただこちらのみを見つめ、瞬きもしない。乾いた唇がゆっくりと開く。

「大丈夫。大丈夫。落ち着いて」

　顔が近づいてきた。二人の間にテーブルは無い。