第2話 創造の箱

 私は箱を閉じた。白い箱。手のひらサイズの箱。その箱の蓋には『記憶』の文字が書かれてあった。

「どうだった?私がオススメした箱は」

隣の席に座っている紗雪は私の感想に興味津々といった様子だ。正直に言うと私にはこの作品をどのように捉えていいのか分からなかった。今までかなりの数の箱を開けてきた私だったが、このような箱は初めてだった。

「私、今までエンタメ系の箱しか開けてこなかったから、月並みな感想しか言えないけど、あんな感情初めて体験したよ。面白かった」

 私の感想を聞いた紗雪は満足してうんうんと頷くと、『記憶』の魅力を熱弁し始めた。紗雪の熱が冷めた頃には、もうすっかりと日が暮れていて、私は紗雪を最寄り駅まで送ってから自分の家まで戻る。その帰り道で私はこんなことを考えてみた。私ももしかしたら誰かが開けた箱の中の登場人物なのではないか。そして、その箱を開けた人もまた、別の箱の中の登場人物で。そうしたら永遠にそれが続いて、いつか一周してまた元に戻るのかな。

ということは、もしそうなのだとしたら、『記憶』の僕も私と同じ人間ということになるよな。そう思うと、鳥肌が立った。


次の日、私は学校帰りに『記憶』を箱屋で買って、家に帰るとすぐに開けた。夢の中でしか会えない君と僕のささやかな愛の物語が何故か忘れられない。忘れたくない。箱を閉じて、私は徐に部屋の鏡の前に立った。そこに映るのは冴えない一人の女の子に見えた。これは本当に私なのか。私ではない私か僕か何かなのではなかろうか。分からないけれど、分からないから、私は鏡に映る私と唇を重ねた。

別に何も起こらなかった。そう、奇跡なんて起きないのだから。だけど、これでいい。平凡でいい。平凡がいい。また僕が私のことも君のことも忘れてしまっても、いつの日にか、ちゃんと世界はエデンの配置を迎えるから。その日が来るまでは、僕は僕で、私は私で、君は君で。

「あれ……どうして?」

 どうして私は泣いているの。君に会うために生まれてきたから泣いているのかな。生れる時に全てを忘れてきてしまったから泣いているのかな。ううん。嬉しいから泣いているのだ。やっと思い出したから。やっと思い出せたから。なら、私は何をしたらいいか。答えは一つだ。僕が小説を書くのなら、私はこの世界で箱を創ろう。


 私は創作の中に確かな光を見ようとしていた。けれど、その光は幾億光年彼方からやって来る類の光ではなかった。むしろ輪廻の中で生命たちが生み出すような光だった。もし生まれ変わったら。それはこの箱から離れて、別の箱に行くということ。箱は箱。変わるのは中身だけだ。私はこの箱から、いや、この望まぬ牢から去りたかった。それこそたった一つの冴えたやり方なのだ。時間さえあれば、永遠に生きられたら、せめてその糸口だけでもつかむことができるのに。

時流などない。

そういえば、どこかで聞いたことがある。時間なんて存在しないのだと。まあ、もう私にとってはどうでもいいことだ。何もかも変わらずにはいられない。いつかは枯れるいのち。私が過ごした時間も、もうただの思い出でしかない。その記憶も、あとどれくらいの命なのだろうか。

痛くはない。悲しくはない。寂しくはない。けれど、どこか物足りないのは、君がいないから。私の世界に君はいなかった。私の世界に色はなかった。そうだ、最後に空を越えたあの子へ手紙を書こう。

『初めまして。私もこの輪から去ることにしました。そちら側で逢えたらいいですね。私は自身の人生を箱と呼ばれる芸術に費やしました。その結果何を得たのかをずっと考えてきたのですが、今際に当たって、ようやくわかった気がしました。きっとあなたは宇宙が始まるよりも遥か昔から悟っていたのでしょう。私たちのお母さんもわかっていたのかもしれません。一つだけ、お願いがあります。もし仮に、世界がエデンの配置を迎えたとき、私を水門の前で待っていてくれませんか。私は新世界よりもあなたに会いたいのです。心よりお慕いしています。』

 私、今まで気づかなかった。名前も顔も知らないのに、こんなにもあなたに会いたくて、こんなにもあなたに触れたくて、こんなにもあなたを愛していただなんて。

 ああ、待って。記憶が世界に溶け出していく。私と彼と、その他の境界線が揺らいでいく。私がゆっくりと消えていき、新しい世界へと融合していく。輪から外れた私だった自我は、いつだって遠い日の思い出を想起していた。

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