第26話 意志

 アリゾナとの連戦が終わり、アナハイムは二連勝。

 そして移動も伴わない休養日がやってくる。

 アナハイムは今年、六月までに84試合を消化予定。

 七月にはホームランダービーやオールスターがあるため、どうしても六月までに試合の消化数は多くなる。


 そんなお休みの日でも、直史はある程度、調整のために投げる。

 今度もホームで、トロントとの四連戦、第三試合での登板だ。

 ややアナハイムも勝ち星が先行して来た。

 このままならどうにかポストシーズンには進出し、そこからは力技でワールドシリーズまで進めるのではないか。

 そう考える直史のマンションに、セイバーが訪れた。

 彼女の訪問は、それなりに珍しいことだ。

 そして話は、なかなかに深刻なものであった。

「もしアナハイムのポストシーズン進出が絶望的になったら、トレードでメトロズに当たりそうなチームに行く気はある?」

 間違いなく重要事項だ。


 直史がアナハイムを移籍先に選んだのは、色々と条件があったからだ。

 そしてその条件を考えた上で、セイバーがアナハイムという選択肢を出してきた。

「俺にはトレード拒否権があったはずだけど」

「ポストシーズンに進出するのと、どっちが優先する?」

 セイバーの問いに、直史は即答できない。


 現在のアナハイムは、かなり調子を取り戻してきている。

 勝てるピッチャーのところで、かなり安定して勝てるようになってきたのだ。

 ポストシーズンは充分に出場は可能だと思う。

 ワールドシリーズに進むのも、むしろポストシーズンにさえ進出すれば、そちらの方が楽だと思うのだ。

 直史が短期的に無理をすれば、勝ち星を積んでいける。

 実力差はかなり縮まったと思えるミネソタを、果たして越えて行けるのか。

 それでも直史なら、無茶をしてどうにかしてしまいそうだと、セイバーは思っているのだ。


 去年のワールドシリーズ、果たして本当にメトロズがアナハイムに勝ったと言えるのか。

 それは言ってもいいだろう。メトロズは全力で、直史を削りきった。

 だが大介の視点からすれば、果たしてどうだろうか。

 メトロズはワールドシリーズで、六戦目までに直史に三敗していた。

 普通ならそこで優勝は決まっていたし、第七戦など連投でしかも延長であった。


 セイバーは、直史を他のチームにトレードする選択をするのか。

「トレードデッドラインまでに、ターナーは戻ってこないんですか?」

 そこが分からないと、直史も判断は出来ない。

 確かになったとしても、どう判断するかは分からないが。

「今のところ、まだ調整中ね。けれど手術なり補正なりで、手を加える必要はあると思うけど」

 セイバーが医師から受けていた説明は、それほど分かりにくいものでもなかった。

 ただ医師たちにとってさえ、ターナーの目の完治というのが、どの基準なのかははっきりとしなかったのだ。

 プロスポーツ選手というのはそういうものだ。

 ピッチャーの球速が5km/h落ち、スピン量も減ったら、それだけで圧倒的に脅威度は減ってしまう。

 直史であれば、まだそこからでもどうにかしてしまうだろうが。


 セイバーは直史を高く評価している。

 だが直史としては、その評価は高すぎるのではないかとも思う。

「俺が移籍するとして、キャッチャーはどうするんです?」

 直史はそれが問題だと思う。

 しかしセイバーは、それこそ考えすぎだと思うのだ。

「直史君は高校時代、どのキャッチャー相手でも投げることが出来たし、クラブチームやプロでも、キャッチャーの腕は選ばなかったでしょ」

「そんな弘法筆を選ばずみたいなことを言われても、実際には空海はしっかり筆を選んでいたんですよ」

 もっとも事実残っている数字を見れば、セイバーの主張も分からなくもない。


 高校時代に直史が組んだ主なキャッチャーは、ジンと倉田である。

 一年生の時には上級生キャッチャーと、三年次には孝司とも組んだが、その回数は少ない。

 さすがに大介と組んだのは、回数には入れないでおく。

 大学時代はほぼ樋口であるが、練習では様々なキャッチャーと組んでいた。

 それに国際大会では、日本のキャッチャーにはちゃんと控えがいた。

 樋口が離脱した時も、ノーヒットノーランは達成している。

 確かに直史が言っているのは、彼の認識としては事実なのだろう。

 だが全力を出せなくても、直史は強いピッチャーだ。

 キャッチャーに求めるものが高すぎるとも言う。


 MLBのキャッチャーも、もちろんレベルの高い者はいる。

 だがリードに優れたキャッチャーというのは、NPBに比べると少ない。

 日本ではキャッチャーこそが、グラウンド上のもう一人の監督とまで言われる。

 それに比べるとMLBのキャッチャーは、壁であることと肩のあることが、どうしても求められてしまうのだ。

 能力の差ではなく、そもそもの役割が違う。

 そしてMLBのキャッチャー相手でも、直史はたいがいどうにかする。

 相手が相手でなければ、だが。


 セイバーはもう一つ忘れている。

 果たして直史が移籍して、メトロズとワールドシリーズを戦えた場合。

 大介との対決で、申告敬遠がなされないかどうか。

 もちろんワールドシリーズの舞台で、そんなしらけることはしにくいだろう。

 だが勝利至上主義の監督は、MLBにもNPBにも、そして高校野球にも限らず、どこにでもいるのだ。




 セイバーが去った後も、直史は考える。

 自分がアナハイム以外のチームで、ワールドシリーズまで進出するのか。

 もしもアナハイムが、ターナーが間に合わず今季は無理だと思ったら、今季で契約の切れる自分を、放出したいと思うのは分かる。

 もっとも契約でトレード拒否権があるので、そこは直史の了解が必要になるが。

 それにポストシーズンに進出できないとしても、直史のピッチングは様々な記録を作っている。

 アナハイムの在籍でその記録を作ってもらうことを、フロントは願っているのではないか。

 ただ契約延長の交渉の折に、フロントと確執が出来たかもという印象はある。

 セイバーが調整すれば、放出してプロスペクトを獲得するというのは、計算だけなら成り立つのだろう。


 その時はピアースも放出だろうか。

 クローザーがまだ不安定な、それこそメトロズに放出という選択さえある。

 現在のアナハイムは、ぜいたく税の上限を突破しているので、ピアースを放出する意味はしっかりとある。

 あとはシュタイナーの放出も視野に入るかもしれない。

 もっともポストシーズンが絶望的になれば、ターナーをもうメジャーには上げないだろう。

 九月の時点でロースターに入っている選手の年俸総額で、ぜいたく税の算出が行われる。

 高いベテランを放出し、それと引き換えにプロスペクトを獲得できれば、三年後ぐらいにはまた、ポストシーズンを狙っていけるだろう。


 実際問題、樋口以外のキャッチャーと組んで、大介に勝てるだろうか。

 他のキャッチャーでも、特に問題なく勝利投手にはなれると思う。

 それこそ一年目は、坂本と組んでいたのだ。

 だが大介との決戦で、他のキャッチャーと信頼関係が作れているか。

 難しい問題だ。


 元々直史は、三年間で大介と勝負すべく、MLBにやってきたのだ。

 そしてそれに相応しいチームは、セイバーに頼んで選んでもらった。

 彼女にもメリットはあったのだろうが、実際に二年連続でワールドシリーズには進んでいる。

 そんな彼女が言うからには、ポストシーズン進出が難しいのも確かなのかもしれない。


 これは自分と大介の対決の問題だ。

 だが自分一人だけの問題になるはずもない。

「どう思う?」

 直史が意見を求めるのは、もちろん瑞希に対してである。

 人生のパートナーとして、もしも直史が移籍するとなれば、彼女にも影響はあるのだ。


 瑞希も同席して、セイバーの話は聞いていた。

 彼女はいくら野球に詳しくなっても、一歩引いたところから、状況を見ている。

 観測者の目であり、記録者の目だ。

 その冷静な捉え方は、直史にとっても指針の一つとはなっている。

「そもそも今の時点だと、メトロズもワールドシリーズに進めるか微妙だと思うけど」

 瑞希としては、メトロズもようやく安定してきたアービングだが、去年のレノンに比べればまだまだ若いと見える。

 それに彼が故障でもしてしまったら、果たしてどうなることやら。

 大介がいくら打つといっても、敬遠されてしまえば脅威度は半減するだろう。

 直史が頑張ればどうにかなるアナハイムより、よほど問題だと思うのだ。


 考え込む直史を見て、瑞希はそれ以上の言葉を己の内にしまいこむ。

 直史も、そして大介も勘違いしている。

 いや、意識していないのか。

 二人の対決がワールドシリーズで連続で続いた、この二年のことの方が、むしろ異質であったのだ。

 それをどうにかしようという、セイバーの考え。

 彼女が本当に何を考えているかは、瑞希としても分からない。

 ただ、セイバーもまた瑞希と同じく、一歩下がった視点から、この現実を見ているとは思える。




 アリゾナ戦が終わり、次にはトロントとの四連戦が待っている。

 このカードでも直史は、第三戦を投げる。

 直史自身は迷いがあっても、試合中はそれを判断から切り離すことが出来る。

 もしそれが難しいなら、樋口に任せてしまってもいい。

 ただこの判断を任せるということが、樋口以外では難しい。

 坂本なども上手く裏を書くリードをしていたが、その肝心の坂本は、よりにもよってメトロズにいる。


 アナハイムから移籍することは難しい。

 新たな環境に適応するのは、直史はあまり得意ではないと自分では感じている。

 そんな状態で、しかもキャッチャーの判断を頼れないのなら、大介との対決に全力を出すのは難しい。

 ターナーが戻ってくるかどうかに、ある程度はかかっていると言ってもいい。

 タイムリミットまでには、まだ少し余裕がある。


 トロントとの対決、アナハイムは最初の二戦を落としてしまった。

 ガーネットとレナードの先発の失点に、最後まで打撃で追いつけなかった、といった形だ。

 勝ちパターンのピッチャーで、追加点を防げていれば、少なくとも追いつけていたという点差。

 だがそんな判断は、試合が終わった後だからこそ言えることだ。

 トロントは東地区で、現在四位。

 だがポストシーズンに進出する最低限の基準、勝率五割をこの段階では切っていない。


 アナハイムは第三戦、どうあっても負けられない。

 最低でも二勝二敗で、このカードを終わらせたいのだ。

 そんな状況で、しかも迷う精神状態で投げたトロントとの試合も、直史は無事に完封した。

 やや球数が多くなったが、ヒット二本と完璧な出来。

 第四戦のことも考えて、ある程度トロントの打線には、ダメージが入っているはずである。

 そして翌日は、トロントとの第四戦。

 先発はボーエンで、昨日投げた直史は、絶対に出番はない。


 なんとかここは勝っておきたい。

 ボーエンの調子は悪くないし、リリーフ陣も休養を取ったので、充分な状態で投げられるはずだ。

 そう思って直史は試合の前、他のスタジアムの試合を見る。

 この日のメトロズのカードは、トローリーズとの対戦。

 一勝一敗で迎えた第三戦だ。


 第一戦は、本多を打って勝利している。

 大介の41号ホームランが出て、どういうペースで量産するんだ、と思わせるものであった。

 しかし第二戦は、三度も敬遠されて敗北。

 あれだけ勝負を避けられれば、それは打てなくても仕方がないであろうというものであった。

 この第三戦は、大介のヒットもあるが、それ以外の打線も機能している。

 最終回に入って、一点差でリードしていて、守りきれば勝てるという場面ながら、相手のトローリーズはランナーを出していく。

 ここでピッチャーが自分なら、あっさりと内野ゴロを打たせるな、と思う直史である。

 無理にダブルプレイを取らなくても、ツーアウトにすれば次でしとめればいい。

 そしてトローリーズのバッターは、セカンドゴロを打つ。


 一塁ランナーのスライディングが、極めて悪質だった。

 だが大介は跳躍し、見事にそれを回避する。

 しかし落ちてきたところに、ランナーがスライディングしたままで、大介は受身が取れない。

 地面に転がった大介は、倒れて動かなくなった。

 思わず直史は立ち上がり、ロッカールームで試合を見ていた他の選手も、驚いた顔を隠さない。


 担架が運ばれてくるまで、大介が手を振っているのは見えた。

 だがあの落ち方は、背中を強打したのではないか。

 もしも背骨の方にダメージがあるなら、最悪の事態になってもおかしくない。

 試合自体は決着したので、中継は終わる。

 メトロズのSNSなどを調べても、すぐに情報が出てくることもない。

「大変なことになったな……」

「大介さん、大丈夫かな」

 樋口とアレクが声をかけてくるが、直史はまずツインズにメッセージを送る。

 

 今日が先発でなくてよかった。

 さすがに今の精神状態では、完全な平静では投げられないだろう。

 直史はツインズからの連絡があるまで、この情報を自分の感情と切り離す。

 ただ立ち上がることも出来ず、担架で運ばれたという事実。

 まさかとは思うが、選手生命の危機にまで及んだとしたら。




 ロッカールームがざわめき、今日の試合はスタンドの方からも、いまいち集中出来ない空気を感じる。

 トロントのファンであろうと、アナハイムのファンであろうと、MLBのファンであるならば絶対に、見逃したはいけないニュースだ。

 もしもこの試合が終わるまでになんらかの発表があれば、コメントが求められるのだろうか。

 入院するほどの怪我であった場合、時間を作って会いに行くことは可能だろうか。

 全ては怪我の具合によるが。


 アナハイムは次にボストンへの遠征、その次がボルチモアへの遠征。

 ボストンとボルチモアのほぼ中間地点が、ニューヨークとなる。

 投げるのはボストンとの三連戦の最後の試合で、ボルチモア戦には投げない。

 次はシアトルに移動するので、ボストン戦の後にニューヨークに移動するのは可能であろうか。


 大介が抜けて、メトロズは得点力は絶対に落ちる。

 せっかく好調になってきたのに、強いブレーキがかかってしまうかもしれない。

 アナハイムもポストシーズンと、そしてその先のワールドシリーズに進めるかが難しい。

 だが大介がいないのであれば、そもそも直史はなんのために勝てばいいのか。

 チームのために、などと思っていたのは高校時代までだ。

 今は己自身と、己が大切とする者のために戦っている。

 

 大介の状況次第だが、直史は目的を変える必要があるかもしれない。

 この最後の年、最後まで勝ってしまえば、直史から勝ったのは大介のみとなる。

 実際の力の差はどうであれ、勝敗だけを見ればそうなるのだ。

 その栄誉を大介のために、残すことは可能であろうか。

「それはつまらない終わり方だよな」

 直史としても、そう呟かざるをえない。


 この日、エースのメンタルの影響を受けたのか、アナハイムはいまいち投打に奮わなかった。

 ボーエンは六回三失点とクオリティスタートだったのだが、打線の援護が薄い。

 そしてリリーフもまた、どうにか止めるということが出来ない。

 ずるずると失点を重ねて、3-6にて決着。

 アナハイムは一勝三敗と負け越しで、このカードを終えたのであった。


 深夜までには直史に、大介の状態が伝わっていた。

 肋骨を見事に一本折られて、二週間は絶対安静。

 そこからどう骨がくっつくのかは、ちょっと分からない。

 だが最悪の場合、二ヶ月ほどは復帰にかかるだろう。

 選手生命に関わる怪我でなかっただけ、マシと言えば言えるのであろうが。


 しかし大介であっても、そこまで試合から離れたら、ある程度試合勘も鈍るだろう。

 また他の部分のトレーニングなども、少なくとも骨折からの発熱が収まるまではやりようがない。

 下手をすれば完治までに、余計な時間がかかってしまう。

 大介の人間離れした回復力を考えても、戦線離脱は一ヶ月にはなるだろう。

 その間にメトロズは、どうやって戦っていくのか。


 野球というスポーツは、団体競技だ。

 だから「決勝で待ってるぞ」という約束を軽率には出来ない。

 二人の対決する舞台に至るまでには、それぞれが苦しいリーグ戦を戦い、ポストシーズンのトーナメントを勝ち抜かなければいけない。

 そしてその時、二人が果たしてベストのコンディションでいられるか。

 またチーム力に決定的な差はないのか。

 単純に勝敗を決めるのは、難しいのである。




 直史はチームから、一日離脱の許可を得た。

 トロント戦が終わった次の日に、チームは移動のための休養日がある。

 その日に直史はニューヨークに向かう。

 幸いと言うべきか、次の対戦相手はボストンでアウェイのゲーム。

 つまりニューヨークに寄ってから、ボストンに向かえばいいのだ。


 ボストンで直史が投げるのは、三連戦の最終戦。

 少し離脱したとしても、それまでには調整すればいい。

 そしてチームメイトがボストンに向かうのとは別に、直史はニューヨークへ向かう。

 ロスからニューヨークまでとなれば、普通に飛行機の便が取れるのがありがたかった。

 その飛行機の中でニュースなどを見ていれば、ニューヨークで暴動などが起こっている。

 大介が怪我をした件と、人種差別が関連付けられて大騒ぎになっているらしい。

 放火や強盗が併発しており、なんとも野蛮なことだなと直史は思うが、昔からアメリカは普通に、こういうことで暴動が起こる。


 これに関してはメトロズと、大介自身からの発したメッセージにより、拡大することなく収束を迎えた。

 だがスタープレイヤーの故障で、こんなことになるのか。

 幸いにも死者は出ていないが、負傷者は出ていた。

 ラフプレイをした選手に対しては、罰金と出場停止の処分が下される。

 そしてあちらからも公式に謝罪が出て、大介がそれを認めて、本人同士の間では騒ぎは収まった。

 もっともポストシーズンでまたニューヨークにて対決が行われれば、ヒートアップすることは間違いない。

「ブラジルじゃ試合のたびに死人が出るなんて、けっこう普通のことだったけどね」

 アレクなどはそう言っていて、冗談ではないのだから恐ろしい。

 ブラジルに限らず中南米では、サッカーの試合ごとにスタジアムや、その後のバーなどで死人が出る。

 サッカーのフーリガンは、野球よりも過激というのがアレクの意見だ。

 だからこそ平和主義のアレクは、サッカーではなく野球を選んだのだが。


 ニューヨークに到着した直史を待っていたのは、デラックスなメルセデスであった。

 運転手は雇われの身で、後部座席には椿が座っていた。

「久しぶり、でもないかな?」

「だいたい一ヶ月ぶりぐらいか」

 ラッキーズとの対戦のために、直史がニューヨークに来た折に、ツインズとは会っている。

 大介は遠征であったので、顔見せに寄っただけだが。


 乗り込んで早々に、直史は確認する。

「それで、実際のところはどうなんだ?」

「ワールドカップの時みたいにはいかないみたい」

 あれはさすがに、例外と言っていいだろう。

 高校二年生の時の話で、立ち上がれないほどの痛みもなかった。

 わずかな亀裂骨折で、テーピングだけでギプスも必要なかったのだ。

 それでもスイングが出来なかったので、右打席に入った大介。

 そこからDHでは出場していた。


 秋の大会までには、完治していた大介である。

 でたらめな治癒速度だな、と直史も思っていた。

 たぶんファンタジー世界の住人なら、1ターンごとにHPの30%回復とかでも持っているのではないか。

 現実ではそんなことはありえないが、大介の肉体の異常さは、今更言うまでもない。

「さすがにぽっきり折れてるから、ある程度くっつくまで二三週間はかかるだろうって」

「でも大介だからなあ」

 直史としては、大介は炎の中から甦る、どこかおかしい人間の類のように思えるのだ。

 実際に治癒速度が異常な人間は、別に大介に限らず、普通に時々発見される。




 病院の大介は、さすがに直史の顔を見ても、身を起こすことは出来なかった。

 ギプスで完全に、胴回りを固めてあるのだ。

 固定しておかなければ、無理な動きで治りが遅くなる。

 ただ大介としては、自分の怪我よりもその影響の方が心配であった。

 暴動は起こるは、トローリーズはヘイトを溜めるわ。

 もう一度のカードはロスでの試合であるのが、本当に幸いであったと言うべきか。

 また事態の沈静化にも、すぐに動いたのが良かった。


 さて、重要なことはそれではない。

「実際、どれぐらいで復帰できそうだ?」

「一ヶ月もあれば大丈夫だろうけどな」

 今はさすがに、痛み止めを飲んでじっとしている。

 骨折からの発熱もあって、さすがの大介も元気がない。

 しかも自分の治療に専念するだけでなく、暴動の対処にまで気を使わないといけない。

 セカンドレイプならぬ、セカンドラフプレイか。


 まったく、アメリカという国はと言うべきか、ニューヨークという街はと言うべきか。

 ただ早々に当事者同士が話をつけたのは、賢い選択であった。

 だからといって大介の故障が、なくなるわけではないのだが。

 今季は76試合が終わった時点で、41本のホームラン。

 ホームランの少ない年であれば、これでホームラン王になってもおかしくない。

 まだ六月が終わっていないのである。

 MLBファンが期待していたのは、記録の更新と夢の90本。

 あるいは100本、などというのはさすがに夢を見すぎであろうが。


 なんとか八月中に復帰すれば、そこから10本ぐらいは打てないだろうか。

 そうすれば今年も、ホームラン王を取れる気はする。

 そして今年はもう一つ、規定打席到達も問題となっている。

 もしも規定打席に到達すれば、大介のシーズン打率はMLBのレコードを更新する可能性が高い。

 ただ復帰してすぐは、さすがに元通りのバッティングにはならないだろうが。


 大介のパフォーマンスは、夢を与えるものであったのだ。

 打って走って守って、その全てで最高の数字を残す。

 盗塁の数であっても、今年は100を超えるペースではあった。

 その全てを消してしまったことは、ファンからしても許されることではない。


 しばらくニューヨークには来ないほうがいいのではなかろうか。

 下手に街を出歩いたら、狂信的なファンから殺される可能性すらある。

 いくらなんでもと思うが、そう思っていたら殺されたのがイリヤなのだ。

 アメリカでは有名人を殺したいと考える人間が、一定数以上いる。

 実のところは日本でも、そういう人間はそれなりに多いのだろう。

 ただアメリカでは普通に銃が流通している。

 銃は危険だ。日本で元首相が暗殺されてから、よりその危険性は分かったと言っていい。

 しかもあれは手製の銃であったが、アメリカではオートマチックの銃が普通に売っている。

 ただニューヨークでは少し手に入りにくいのは確かだが。


 直史と大介の間の会話は、あまり多いものではなかった。

 二人ともこれで、ワールドシリーズでの対決が遠のいたのだと分かっている。

 またオールスターにしても、さすがに大介は出場不可能だ。

 そちらの方は直史としても、既に辞退すると言ってあるのだが。

 中四日で投げているのだから、その間ぐらいは休みたい。


 そして直史は、現実的な話をする。

「アナハイムはターナーの復帰が未定で、今年はポストシーズンに進出するのが難しい」

 現在では43勝35敗と、ポストシーズンにまではどうにか出場可能か、というラインだ。

 ア・リーグは東地区が蠱毒の壷となっているので、二位のチームでも勝率はあまり高くならないと思われる。

 アナハイムは勝率五割を少し超えれば、おそらく進出自体は出来る。

 だがワールドシリーズ進出のためには、かなり直史に負担がかかってしまう。

 そうやって勝っていって、ワールドシリーズで対決できたとして、果たして万全の状態でいられるのか。

 はなはだ疑問ではあるのだ。


 ここで一ヶ月ほども練習から離れて、大介がコンディションを戻せるか、という問題もある。

 お互いに万全の状態で対戦できないなら、形だけの対戦に意味はあるのか。

 根本的なお互いの戦力補強と、大介の早急な復帰。

 それがなければ今年の対決は、実現したとしても不満の残るものになってしまいそうだ。


 直史はさすがに、自分がトレードされる可能性については言及しなかった。

 しかし純粋に大介との対決を増やすことを考えるなら、それこそアトランタにでも来れば、レギュラーシーズンで戦うことは出来る。

 もちろんその場合、直史のピッチングが万全かどうか、それは保証できないものになるのだが。


 直史のラストシーズン、それは一つの伝説の終わり。

 二人の対決の前に、暗い雲が立ち込めてくるのを、二人は共に理解していたのだった。

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