第一章 (1.01)
——突然の異変に、一輝は拭いようのない不安を覚えた。
まわりに誰もいないからいいものの、じっと椅子に腰かけたままぐぅぐぅと空腹のサインが出続けていた。今朝、出かける前に菓子パンをふたつほおばってきた。腹が減るにはまだ早いと彼は思った。
下町の名店、『花菱 美なぎ』。時給が高く、客層もいいと聞く。そのうえ最寄りは通学途中の乗換駅。なんとしても採用されたかった。一輝は軽く伸びをして、深く息を吸った。鰻を焼く香ばしい匂いがして、ぐぅと腹が音をたてた。どうやらこれが原因のようだった。
採用されたとして、仕事中にぐぅぐぅいいっ放しでは困ってしまう。慣れれば平気だろうか。ずっと満腹のままにはできないし……。
俯いて考えていると、目の前にお茶が置かれた。従業員用らしい樹脂製の湯呑から湯気がたっている。
「ありがとうございます」といって一輝は顔を上げた。
お茶を運んでくれたのは私服姿の女だった。てっきり女将だと思った彼は小さく「えっ」と声にだしてしまった。
マスクで顔はわからないが、とにかく目が大きい。それだけでとびきりの美人に見えた。声が聞こえたのか、女は動きを止めてこちらを見ていた。
気まずい空気が流れた。きっとこの子もアルバイトの学生だ。もしこのタイミングで腹が鳴れば、もうここでは働けないと思った方がいい。なんとかしたいが、咄嗟に大した考えなど浮かばないことは、さっきのエレベータで経験したばかりだ。
ならばと彼は、素直に話しかけることを選んだ。
「女将さんかと思ったんです」
「オカミサン? 誰の事?」女は大きな目をさらに丸くした。
「え……あの、和服を着た……あっ」しまった、と一輝は思った。思わず口に手を当てたが、もう遅かった。誰も「私が女将です」なんて自己紹介をしていない。『女将さん』は、彼が心の中で勝手にそう呼んでいただけだった。
「ああ……あの人なら、マネージャー」女は感情の一切こもらない声でいった。
「――女将さんっぽかったので」
そういって、彼はさらに恥ずかしくなった。女将っぽいとは何か。どうであれ、痛恨の極みに違いなかった。
「そう見えるのね」女はそれだけいって踵を返し、部屋を出ていった。
椅子に腰掛けたまま、一輝は女の背中を見送った。採用されるかはわからないが、新入りがマネージャーを女将さん呼ばわりしたなんて、格好の笑いの種でしかない。
「終わった……」彼は力なく椅子に沈み込んだ。
それでも、彼女のクールな態度がわずかな希望を与えてくれた。人を小馬鹿にした噂話とは無縁そうな、気高いオーラのようなものを彼女から感じていたのだ。
お茶を啜り、もう一度、今度は大きく伸びをした。口は閉じたまま、欠伸を噛みころすようにすると、鼻腔から流れ込む空気に、甘い果物のような匂いを見つけた。
陽気な鼻歌と共に、『うちの人』が現れた。
「こんなすごいの初めてよ~ そーれ、ぴょい、ぴょい」
二回目のぴょいのタイミングで彼は廊下から顔を覗かせ、一輝と目が合った。お茶はまだ温かい。禿げ、チョビ髭、笑顔。
「藤原くんだね」
「はい、藤原です」あわてて立ち上がった。「本日はお時間をいただきありがとうございます」
「時間ならいくらでもあるよ~」
先手を取られたと一輝は思った。サッと立って先に挨拶するつもりだったが、気の抜けた鼻歌にやられた。どうぞと促されて、改めて腰を下ろした。
鼻歌の主は「私がここの社長です」と自己紹介をして、胸ポケットから名刺を取り出し、丁寧に両手で差し出した。
面接はトントン拍子に進んだ。さっきまでの緊張は一体なんだったのかと一輝は思った。シフトにどれくらい入れるかを訊かれて、あとは待遇と仕事内容の説明。オーナー店長が採用担当だから話が早い。まるで最初から採用が決まっているかのようだった。
定期があるから交通費はかからないと伝えると、「それなら、賄いのうな重は特上だ。肝吸いもついちゃうよ」と菊夫は笑顔で答えた。どこまで本気にしていいかはわからないが、賄いがあるのはありがたい。実家通いとはいえ、学費が親の肩にのしかかる。ふと奨学金のことが一輝の頭をよぎったが、鰻の焼ける匂いにかき消された。
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