第一章 (1)

 眠る前にパソコンでメールをチェックすることは、一輝が受験勉強を始めた頃からの習慣だった。メールアプリを開くのは、一日のうちでその一回限り。勉強に集中するためだったが、これが今も続いている。急ぎの連絡にはスマホのチャットアプリを使えばいい。リアルタイムの確認が必要なメールなど、これまで一度もなかった。しかし、今日だけはその習慣を疎ましく思った。

 同じ大学に通う地元の先輩から、いいバイト先があると聞いていた。北花菱にある『なぎ』という老舗の鰻屋だ。一年前に応募した時は書類で落とされたが、今年も求人が出ていたので望み薄と知りつつエントリーしていた。その採用担当から、面接日時のご案内という件名でメールが来ていた。受信日時は昨日の二十二時二十分。昨晩のメールチェック直後だ。そこから丸一日放置していたことになる。まさかと思いながら、一輝はメールを開いた。


   日時 4月23日 10:00~

   なお、ご都合がつかない場合はあらかじめご連絡ください。  

 

 ——モニターの右下隅に目をやった。


        21:56 

   20〇〇/04/22  


 明日の朝だ——確認が遅れたのもあるが、それにしても急だと一輝は思った。授業と重なってもいた。しかし今から日時の変更を求めるのはドタキャンと変わらない。応じるか、諦めるか、事実上の二者択一だった。

 少し考えてから、彼は準備にとりかかった。承諾のメールを返信し、履歴書をプリントアウトした。余った証明写真があるかと思ったが見つからない。これは明日、出がけに撮影することにした。システム手帳と筆記具を鞄に入れる。スーツの状態を確かめてから、ワイシャツとネクタイを選んだ。気になったので、革靴を磨く。そして目的地をスマホのナビに入力し、出発時刻が決まると、少し余裕をもって目覚ましをセットした。時刻は零時を回っていたが、寝不足にはならずに済みそうだ。ベッドに身体を投げ出し、大きく息をついて目を閉じると、一輝はすぐ眠りについた。


 翌朝、指定された時刻の五分前に、一輝は『美なぎ』の前に着いた。優美な和風の外観に足を止めると、引き戸が開いて中から背の高い男が出てきた。同年代に見えるその男は、カジュアルながら清潔感のある服装をしていた。敷居を挟んで、割烹着姿の女性と互いに頭を上げ下げしている。

「お疲れ様、ありがとうね」

「こちらこそ、ありがとうございました」

 面接を終えたところだと一輝は思った。

「美なぎで全てと一緒に働きたいって、ずっといってたもんね」女性がしみじみとした口調でいった。

「いや、それは」男は苦笑いを浮かべ、それから頬を緩めた。「皆さんと一緒に働けるなんて、夢のようです」

「もう、上手ね。期待してるから、よろしくね」

「はい、こちらこそ、よろしくお願いします」

 顔見知り、それも採用が決まっているといった会話だった。

 見送りに出ている女性が女将のようだ。整った日本髪と、隙のない所作が一輝にそう思わせた。年齢は四十くらいか。二重で切れ長の目。手も顔も透き通るように白かった。

 老舗の看板を背負う女性を目の当たりにして、一輝は少し不安になった。バイトの面接はスーツ着用が無難とされる一方で、必要ないという声もある。ここは職場の格式に合わせようと、一輝はスーツを選んだ。ブランドものではあったが、着こなしにさほど自信はなかった。

 果たしてこの選択はどう映るのか。規律や誠実さ——それとも未熟な若者の背伸び。ただ、そこに好感を持ってくれる可能性もある。女将の横顔が表情を変えるたびに揺れる。思いが胸の中で入り混じった。

 次の瞬間、女将が横目でちらりと一輝のほうを見た。一瞬だったのですぐにほっとしたが、こうした気持ちまで全部見透かされているような気がした。

 男がやや深いお辞儀をした。女将は胸のあたりで手を振って応えた。一輝は自分の順番だと悟った。女将が一輝のほうに向き直った。

「藤原君ね。どうぞ」

 いきなり名前を呼ばれてはっとしたが、その穏やかな口調に、彼の不安は和らいだ。入れ違いになる男と会釈を交わし、続けて彼は女将に頭を下げた。

「藤原一輝と申します。本日はよろしくお願いいたします」

「はい、よろしく」そういうと彼女は手ぶりで一輝に敷居を跨ぐよう促した。

「面接はね、二階でするの」そういって歩きだした女将の後ろを彼はついて行った。

 右手にカウンターを見ながら無人の客席を通った。反対側にはテーブル席と座敷があった。テーブルの間隔は広く、これなら余裕をもってすれ違うことができる。一輝は働きやすそうな印象を持った。

 暖簾をくぐった。ここからは従業員専用だが、人が動く様子はなかった。パントリーを抜けてエレベータホールに出た。女将がボタンを押すとすぐに扉が開き、ふたりはエレベータに乗り込んだ。

「二階に参ります。ふふふ」女将は掌で上階を示す仕草ををした。意図はわからなかったが、可愛らしい人だなと一輝は思った。

「普段からそういう恰好はするの?」

 女将の台詞にぎくりとした。大人の女性には、若い男の心を読むくらい造作もないのかもしれない。答えに詰まったが、雑談も面接の一部だ。彼は懸命に考えを巡らせた。

「あ、はい。たまに」

 大した考えは浮かばなかった。

「そう……若いのに、よく似合ってるわよ」

「はい。ありがとうございます」

 少し顔が近いと感じた。一輝は変に意識しないよう目をそらさず応えた。

 エレベータが停まった。扉が開く。女将が降り、一輝は後に続いた。

 よく似合ってるわよ——ありふれた言葉だったが、そのまま受け取る自信はなかった。お世辞ならまだいい。皮肉かもしれないのだ。考えすぎなのもわかっていた。和装といけずは相性がいいんだな——和服の後ろ姿を見ながら一輝は思った。

 ふいに女将が足を止めた。ワンテンポ遅れて一輝も止まった。もう一瞬遅かったらぶつかっていただろう。

「ここで待っててね」振り返って女将がいった。事務所のドアが開いていた。「うちの人、外してるみたいだから」

「はい、わかりました」

 また顔が近かった。今度は一輝の反応が鈍かったせいだ。それでも真っ直ぐ女将の目を見て返事をしたのは、緊張を悟られないためだった。

 失礼します、と断って、一輝は事務所に足を踏み入れた。二十畳ほどの部屋の中央にはテーブルが置かれ、囲むように椅子が並んでいた。どこでもいいといわれ、彼は適当な椅子に腰かけた。

「すぐ来させるから。じゃあしっかりね」 

 女将は笑顔をひとつ見せて、廊下を歩いて行った。一輝は鞄から履歴書と手帳を取り出し、入口のほうを見ながら『うちの人』を待つことにした。

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