第一章(4.1)
歓声が歌声に変わった。あかねは気が気ではなかった。繋いだ手をぎゅっと握り直し、二人は駆け出した。その時、何人かの男たちに追い抜かれた。無神経にも、ぎりぎりをかすめていった。
「抜き返そう」全てがあかねの手を引いてスピードを上げた。口元は笑っていたが、本気の目をしていた。
あかねも足の速さには自信があった。体育祭のリレーでアンカーを務めたこともある。だが全ては別格だった。バッグを小脇に抱え、あかねは腹を決めた。
腕にかかる力で、前傾が深くなっていく。自分の限界を超える加速に、必死に地面を蹴った。一人では届かない速さへ、身体ごと連れ去られていくようだった。
前を走る全てを見て、あかねは改めて思った。この華奢な身体のどこに、こんな力が潜んでいるのか。細く伸びた手足。自分よりワンサイズ以上は細いウエスト。透き通った白い肌が熱を帯び、淡いピンク色に輝いて見えた。
全ては脚を緩めた。あかねが一杯なのを察したようだ。いつのまにか、さっきの男たちはずっと後ろにいた。距離にして二百メートルくらいを駆け抜け、あかねたちは入場ゲートに到着した。
二人は笑い転げた。あかねは息も絶え絶えで、肩で息をする合間に笑い声を発した。全ては呼吸を些かも乱さず、けらけらと高い声を響かせていた。
「入場券をお持ちの方はこちらです——」
係員が手を挙げて、行き交う人に呼びかけている。すっかりかすれた声が、盛況ぶりを示していた。
あかねは波打つ胸を静めながら入場の列に加わった。そのまま前へ進む。係員に「瓶や缶は持込めませんが大丈夫ですか」と問われ、彼女は喘ぐように切れ切れの返事をした。どうぞと促され、わけもなくすいません、と口にして前に進んだ。
ゲートを抜けて、スタンドに入ると雰囲気が一変した。遠くからうねりのように聞こえていた喧騒が、床や天井を震わせている。まるでスピーカー内部に足を踏み入れたようだった。
一息ついたあかねは、喉の渇きを覚えた。見ると、コンクリートの壁を背に全てが立っていた。あかねは売店を指さしたが、それより早く、全ては飲料の売り子を呼び止めた。
「二つください」全ては手の甲を相手に向けてピースサインを作った。
「ありがとうございます。お二つですね」
小柄な売り子は愛想よく応えた。ミニスカート姿のユニフォームは全身が蛍光色で、帽子には白い造花があしらわれていた。片手に紙コップを持ち、もう一方の手でノズルを握る。背負った樽から送り出された黄金色の液体が、ホースを通って注がれる仕組みだ。
「すごい試合ですね」売り子は自然な笑顔を全てに向けた。明るい表情のまま、もう二言、三言、言葉を交わす。ビールを提供するわずかな間にも愛嬌を振りまくのが彼女たちの仕事術だった。
あかねは先に水が欲しかったのだが、もうどちらでもよく思えていた。すぐに一つ目のコップが満たされた。全てはそれを受け取ると、くるりと振り向いてあかねに差し出した。
「さあ、お飲みなさい。渇きを癒やすのです」
全ては冗談めかしていたが、その雰囲気と仕草はまるで神聖な泉の水でも施すかのようだった。
全ての台詞を受けるように、あかねは恭しくビールを賜った。寸劇の完成だ。施しの中身がビールであることだけが残念だった。そして財布から千円札を出し、全てに渡した。会計の気配を察した売り子は、二杯目の泡を仕上げながら「二千円になります」といった。全てはビールを受け取ると、代金を支払った。
「ありがとうございました。またお願いしますね」売り子はそういってお辞儀をすると、グラウンドへの通路に消えていった。
あかねと全てはビールを手に座席へ向かった。チケットに記された番号の通路までコンコースを歩く。通路からスタンドに出た。声援や歌声が膨れ上がって耳に届いた。人工芝が眩しい。あかねは真っ先にバックスクリーン上方のスコアボードを仰ぎ見た。二回表、四対四だった。
あかねはこの瞬間が好きだった。だから球場に向かっている間、スマホで途中経過を見てしまわないよう気をつけている。試合展開を確認するのは座席に着いてからだ。
急勾配のスタンドを最上段まで上がる。近年にないほどの客入りだが、内野の上段に観客はまばらだった。足元に見える座席番号の表示を頼りに、二人は進んだ。
あかねたちが陣取ったのは、応援席からだいぶ離れた一角だった。幸い近くには誰もいない。もっとも、最上段を選択するのはそれを見越してのことだった。
あかねは紙コップを顔の高さに持ち、左目で覗くようにして全てを見た。全ても同じようにして、あかねを見ている。甘えきったような笑顔だ。きっと自分もそうなんだろうとあかねは思った。
「お疲れー」二人は声を合わせた。掛け声と目配せだけで、コップは合わせない。バレエ教室の先生方がそうしていた。二人にとって、自然な作法だった。特に理由のない乾杯にも、信号が青に変わるような働きがある。あかねはコップを傾け、ビールを喉に流し込んだ。
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