第一章 (4)


 どよめきが押し寄せるたび、何が起きているのか気になって仕方がなかった。

 列車が到着すると、改札口から人の波があふれだし、スタジアムへと流れていく。これで三本目。木田あかねは改札を出てすぐ脇、利用客の動線を避けたスペースで人を待っていた。 

 今日から大型連休。快晴の下、スタジアムでは学生野球の試合が行われていた。あかねが通う明応大学の対戦相手は文政大学。伝統の文明戦だ。もっとも明大生にとっては明文戦なのだが、学内でしか通用しない言い方だった。

 百年をゆうに超える歴史のある明応大野球部だったが、近年の成績は低迷していた。あかねが中学受験をして附属の一貫校に入った年は、春秋ともにリーグ戦最下位。それも二年連続でのことだった。その後は少し持ち直したものの優勝争いには絡まず、あかねたち生徒は授業扱いで観戦を強いられはしても、話題にすることはなかった。   

 風向きが変わったのは去年だ。

 附属の高校が何年かぶりに出場を果たした夏の全国大会で優勝し、世間の話題をさらった。本大会すべての試合で先発したエースの力は絶対で、卒業後の進路に注目が集まったが、明応大への進学が決まったことで今年のリーグ戦の勢力図はがらりと変わった。

 ミーハーを自負するあかねは、チアリーディング部に入ろうかと本気で悩んだ。四才から小学四年までクラシックバレエを習っていたので自信はあった。だがそれだけに、三年の春に入って通用するほど甘くないことも知っていた。明応は競技チアとしてのレベルも高かった。

 結局彼女はチア入りを諦め、サークルの男子や同じ附属校出身の女子とワイワイ観戦することを選んだ。


 コンドル球場前駅に、また一本列車が到着した。あたりはにわかに騒がしくなり、真っ先に駆けていった一団の背中が小さくなっていくのを、あかねはぼんやりと眺めていた。

 やがて人がまばらになり、あかねは人が流れてくるほうを見た。それからスマホでメッセージを確認し、小さくひとつ頷いた。

 

   ——「着いたよー改札出て左」

   すーちゃん「2時着。。ごめんね」


 視線を上へ滑らせる。時刻は13:48——あと十二分。待ち合わせは二時の約束で、謝る道理はないのだが、遅れて——ではなく、待たせて——ということか。

 これまで数えきれないほどすーちゃんと待ち合わせをしてきた。そのうち自分が先に着いたのは何回くらいあっただろう。あかねは記憶を辿った。しかし、すぐには思い出せなかった。まさか今日が初めてではないと思うが、どうやら数えるほどしかなさそうだ。

 約束の時間に遅れたこともあった。これは簡単に思い出せたので、一度や二度ではなさそうだ。

 あかねは待ち合わせに遅れたらきちんと謝るようにしている。だが間に合っているのに、待たせてごめんという気にはなれない。今度から彼女を待たせたら、待っててくれてありがとうと伝えよう。あかねはそう心に決めた。

 

 すーちゃんは小学四年の時に転校してきて、あかねと同じクラスになった。だがそれよりも前から、あかねは彼女のことを知っていた。

 あかねが四才の時に入会したバレエ教室に、彼女はいた。三才から五才までの幼児クラスだったが、彼女が特別であることはあかねにもすぐにわかった。姿勢がきれいで、体が柔らかい。みんなで同じ動きをしているはずなのに、ひとりだけまるで違って見えた。そして、彼女は顔もかわいかった。きれいで大きな目は、家で飼っている猫にそっくりだとあかねは思った。彼女の名前を知らないうちは、心の中で『ネコちゃん』と呼んでいた。母親とするバレエの話でも、あかねは彼女を『ネコちゃん』といっていた。

 入会してしばらく経つと、あかねの母親とネコちゃんの母親がよく話をするようになった。ネコちゃんの母親も美人だったが目は切れ長で、母と娘の顔はあまり似ていなかった。

 母親どうしの会話から、あかねはネコちゃんが自分と同じ四才なのだとわかった。同じ年なのに、彼女は自分よりずっとバレエが上手だと思った。五才になった頃、レッスン帰りの自家用車のなかで、どうしてもっと早くバレエを始めさせてくれなかったのかと、両親に向かって泣き喚いたことがあった。そうすれば、彼女のようになれたかもしれないとあかねは思ったのだ。しかし、実際には違った。彼女が入会したのは、自分がバレエを始めるたった一か月前だった。

 だから、すーちゃんがバレエをやめると聞いた時は、とても信じられなかった。

 小学二年で初めて出場した東京のコンクールで一位になり、次は全国、ゆくゆくは海外なんて話が先生方から示されていたというから、まわりの大人たちも信じられなかったようだ。

 やめるわけがない。移籍、不義理、裏切りといった言葉が聞こえてきた。しかし、当の本人は全く気にしていなかったようで、最後のレッスンも普通にこなした後、母親と二人で先生方や周囲の人たちに挨拶して去っていった。

 狭い世界だから、よその教室で続けているなら噂は流れてくるし、コンクールに出場すればすぐに知れ渡る。だが、あかねが小学四年でバレエをやめるまで、すーちゃんに関する話は一切伝わってこなかった。


 それからしばらく経ったある日、あかねのクラスにもうすぐ転校生が来るという話が広まった。それが女子だと知ると、男子たちは一層色めき立った。

 比較的裕福な家庭が多い学区でもあり、クラスメートの大半はそれなりに育ちのいい子ばかりだった。それでも男子は女子に比べ精神的に幼く、あかねを苛立たせることがあった。決まってちょっかいを出してくる男子は何人かいたし、何かあればすぐに騒ぎ出す。そんな彼らにとって、女子の転校生なんて最大級のイベントだから、あかねにしてみればたまったものではない。当然、同じ思いの女子も少なくなかった。

 実に鬱陶しい数日間が過ぎた。男子はこの日を待ちわびていたように、学校に着くなり大きな声でからかい合ったりしている。チャイムが鳴り、クラス全員が着席した。大きな話し声こそ聞こえないが、いつもより少しざわついている。ドアが開き、担任の女性教師に続いて赤いランドセルを背負った女子が入ってきた。

 わあ、と大きな声が一斉にあがった。だが教師が制するより早く、教室は一瞬で静まり返った。あえてそっぽを向いて、転校生のほうを見ないでいたあかねは、何が起きたのかとそちらを向いた。

 男子が黙ってしまった理由はすぐにわかった。転校生をかわいいと思っても、幼気いたいけな彼らは素直になれず、冷やかしの言葉や態度で隠そうとするはずだった。しかしそういった反応が起こらなかったのは、転校生の容貌が男子のお気に召さなかったからではなかった。

 大人の身のこなしだった。教壇の手前で立ち止まり、向き直った時にはもう、みんなが言葉を失っていた。フリルをあしらったブラウスとスカート、編み込みがアクセントの豊かな黒髪。とても同級生には見えないと、あかねは思った。

 教師がチョークを手にした。黒板に転校生の氏名を書きつけていく。『一河……』見覚えのある苗字だ——あかねはわずかに身を乗り出し、転校生の顔と黒板を交互に見た。

 一河全て——。

 教室全体がざわつき始めた。これが名前なのか。だがあかねはこの名前を知っている。不穏な空気にも一切動じる素振りを見せない堂々とした態度に、二年前の記憶が重なる。血統書つきの猫を思わせるややつり上がり気味の大きな目。まったくといっていいほど隙のない美しい姿勢——。

「すーちゃん!?」あかねは思わず立ち上がっていた。

 転校生は穏やかな笑みを唇に残したまま、あかねのほうを見た。目が合って、立ち上がった少女が誰であるかを認識すると、口を開いた。


「あーちゃん」

 声に振り返ると一河全てが立っていた。白のツーピースに、あかねとお揃いのスニーカー履き。改札越しに見える時計は一時五十五分を指していた。

「ごめんね。待たせちゃった」

 あの日の少女がここにいた。遠くぼやけていた焦点が、あかねの胸の奥ですっと定まった。

「全然。いつも待たせてるから、こっちこそありがとうだよ」

「ありがとう……そっか」全ては何かを思い出したように頷いて、柔らかく微笑んだ。「ありがとう、あーちゃん」

 あかねにはこの笑顔がとても眩しく映った。

 全ての笑顔を珍しいと感じなくなったのはいつからだろう。人前ではめったに表情を崩すことのない彼女も、あかねと二人きりの時はとびきりの笑顔を見せてくれる。美しくて学業優秀、そして身体能力は化け物じみている。そんな彼女のレアな表情の宛先が自分であることを、あかねは誇らしく感じていた。

 二人はどちらからともなく手を繋いで、スタジアムへ駆けて行こうとした。指が絡む瞬間、あかねは全ての掌の感触に違和感を覚えた。いつもは柔らかい全ての手が、いやにゴツゴツしている。握った手を顔の近くまで引き寄せた。見ると、手の平と指の第二関節あたりに、平行な二本の皺が深く刻まれていた。うっすらと内出血もしている。

「すーちゃん、これどうしたの?」全ての手首を握ったまま、あかねは訊いた。

「ん……家の手伝いで重いもの持ったから。全然痛くないし、すぐ治るよ」

 手がこんなになるなんて——あかねは驚いた。虐待ではないかとも思った。だがあかねは全ての両親をよく知っていた。母親はとても優しく、父親は母娘の尻に敷かれている。恐れをなしているといってもいいくらいだ。あかねはすぐに思い直した。 

「手、繋いで大丈夫?」

「イヤじゃなければ」猫のような目が笑っている。 

「ヤなわけないよ」あかねは彼女の指を自分の掌でそっと包むようにして、手を繋いだ。

 スタジアムから地鳴りのような歓声が聞こえてきた。太鼓が打ち鳴らされ、トランペットが畳みかける。「急ごう」「急ぐよ」二人の声が重なった。

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