第一章(3.1)

 老舗の鰻屋『美なぎ』の一日は、朝のミーティングで始まる。仕事に関して大まかな指示が出されたり、予約や在庫の状況を共有したりするのだ。そして、新しく採用となった従業員の紹介にも、この場が用いられる。  

 受け取った制服を更衣室のロッカーに入れ、一輝は私服のまま事務所に行くようにいわれた。入ると十人ほどの従業員がテーブルを囲うように座っていた。空いている椅子に腰を下ろす。この日が初めての勤務となるのは自分を含めて二人だという。ミーティングが始まるのを待つ間、彼はなるべく目立たぬ動きで周囲の様子を観察した。

 白衣を着ているのはキッチンスタッフのようだ。見たところ、五人いる。他は私服姿で、ホールスタッフの制服を着ている人はいない。もう一人の新人はこの中にいるのだろうか。しかし、どれだけ観察してもそう思える人物は見当たらない。そうしているうちにマネージャーが入ってきた。

 おはようございます、と挨拶して、彼女は席についた。従業員は皆、座ったままおはようございます、と返した。一輝は一瞬遅れてしまい、口の中で同じように呟いた。

 マネージャーはよく通る声でゆっくりと話し始めた。話は五分ほど続いた。その間、何度かキッチンスタッフと互いに質問と回答を交わした。業界用語らしきものが多く、一輝に理解できる内容はわずかだった。

 連休中は予約で一杯だが、飛込みの客は次々とやって来る。食事ができないことを知ると、彼らは蒲焼きの持ち帰りを注文する。これがかなりの賑わいとなるから、落ち着いて対応してほしい。

 結局、一輝の記憶に残ったのはこれだけだった。

「——今日からアルバイトで来てくれている学生さんがいます。じゃあ、みんな知ってると思うけど、和泉いずみ君から挨拶してください」

 マネージャーの視線の先にいた男がおもむろに立ち上がった。背が高く、顎のラインが鋭い。一見チャラついているようだが、賢そうにも見える。男が話し始めようとすると、何人かの従業員から声が上がった。

「大五郎君!」「待ってたよ!」拍手をする者もいる。

「今日からアルバイトとしてお世話になります和泉です」照れ臭そうに男はいった。 

「若旦那!」威勢のいい声が響いた。

「それは勘弁してください」男がそういうと、どっと笑いが起こった。そして男は続けた。「子供の頃から知っている大好きなお店で、こうして皆さんと働けることにワクワクしています。精一杯頑張りますので、宜しくお願いいたします」

「皆さんと——なのかい?」「はっきり言っちゃいなよ」あちこちから笑い声がした。男ははにかみながら何度か頭を下げ、それから腰を下ろした。

 一輝はこの男に見覚えがあった。面接の日、店の入り口で入れ違いになった男だ。採用の決まった顔見知りという読みは当たっていた。そういう会話だったのだ。「美なぎで全てと一緒に——」という女将の言葉を覚えているが、不自然なので正しく聞き取れていなかったのだろう。

「はい、ありがとうございました。次は……」マネージャーが笑顔のまま視線を向けてきた。「藤原君、どうぞ」

 皆が一斉に首を回し、一輝に注目が集まった。眼差しを正面から受け止め、彼は立ち上がった。すると誰も口を開かなくなり、マネージャーも素の表情に戻った。他意はないにしても、あれだけの歓迎ムードの後ではやりにくい。彼はひとつ息を吸って、それから自己紹介を始めた。

「こんにちは。今日からアルバイトで入りました藤原一輝といいます」

 緊張して目が笑えていないと思い、彼は意識して口角を引き上げた。

「去年もこちらのバイトに応募したんですが、面接にも進めませんでした。今年は採用されてすごく嬉しいです。一生懸命頑張りますので宜しくお願いします」

 パチパチとまばらな拍手が起こった。向かいに座る男が合格おめでとう、と声をかけてきたので、一輝はありがとうございます、と返した。一礼して腰を下ろした。小さく吐息をつくと、斜め向かいに座る和泉と目が合った。お互いを見ながら、二人は同時に頭を下げた。

 一輝は大学名と学年をいうつもりでいた。だが和泉の短い挨拶で迷いが生じた。 

 正徳しょうとく大学理工学部航空宇宙工学科の二年生。そこでの彼は真面目な学生で通っていた。実際彼は専門科目だけでなく、研究対象とは縁のない教養科目の講義にも、受講申請した通りに出席していた。

 彼がそうするのは、決して純粋な向学心によるものではなかった。学部での研究室選びが、大学院への進学や就職に直結する現実に、いいようのない不安を感じていたのだ。

 法学の講義は彼にとって興味深いものだった。試験勉強も苦にならず、自分に向いているとさえ感じた。『世界の言語と文化』という科目の講義は、知らない土地とそこに暮らす人々に思いを馳せる意味を教えてくれた。

 他人が聞けば、充実した学生生活と思うだろう。だが何のことはない。資格や海外というもっともらしい逃げ口上に魅力を感じているだけだと、彼自身よくわかっていた。 

 正徳大学といえば、通りがいいとされる有名私大群MARSCHマルシュの一つだ。ドイツ語で行軍を意味するこの言葉はどこかものものしい感じもするが、いずれの大学も裕福でお洒落な学生が幅を利かせている。そんな通りの良さを利用しない手はないはずだった。だが結局、一輝は大学名をいわないまま自己紹介を終えた。そしてすぐに、和泉がいわなかったのは店の皆が知っているからだと気づき、いうのだったと頭を抱えた。

 

 『美なぎ』での最初の仕事は駐車場に仮設店舗を設営することだった。一輝は他の従業員に混じり、二階から外階段を通ってパイプ椅子を運んだ。三往復目で長テーブルを運ぶ。その間にイベント用のテントが組まれ、そこに椅子とテーブルを並べた。暖かな陽気のせいもあってか、誰もが額に汗を浮かべていた。

 一輝は手が空いた。サボっているふうに見えてはいけないと早足で歩く。外階段の下に来た。運ぶ物が残っているかと二階のほうを仰ぎ見た。開けっ放しだった扉が閉じられていた。必要な物は運び終えたと考えて良さそうだった。 

 その扉が開き、ポリバケツを持った女性が出てきた。一輝は彼女に手が空いたことを伝え、指示を仰ぐことにした。階段を下りてきた彼女は彼を見て、踊り場で足を止めた。

「重いものは持てる?」女性が訊いてきた。四十歳前後と思われる太り気味の女だった。茶色に染めた髪をポニーテールにしている。

 大丈夫です、と彼は答えた。すると彼女は階段を下りながら言葉を続けた。

「鰻の焼き台なんだけど、とっても重いの。力のある人なら二人で持てるから、和泉くんとで運んでちょうだい」彼女は胸の前でポリバケツを上下に揺すった。

「わかりました。どこにありますか?」 

「物置を探して。土用の丑で使ったっきりだから、底のほうに埋もれてるかも」

 はい、と返事してから、彼は辺りを見回して和泉を探した。

「和泉くんには私がいうから、先に行って探してて」彼女はそういってから、勝手口のところだよと付け加えた。

「探してきます」そういって一輝はその場を離れた。

 いわれた場所は正確にはわからなかったが、彼は店の裏に回った。建物の日陰に入る。ガタガタと耳慣れた音がしたのでそちらを見ると、洗濯機が動いていた。タオルや白衣が干してある向こうに、物置を見つけた。  

 金属製の引き戸を開けると、黒板を爪で掻くような音が足元から聞こえた。覗き込むと、中は十帖ほどの広さがあった。スリット窓から入る太陽光のおかげで、さほど暗くはなかった。

 一輝は中に足を踏み入れた。さっと見渡したが、探し物は見当たらない。彼は少し迷ってから左奥の一角に当たりをつけ、積み上がったペーパータオルをどかし始めた。

 山の高さが半分くらいになったところで、後ろに人の動く気配がした。

「自分、こっち探しますね」

 声をかけてきたのは和泉だった。

 彼は壁際に積まれている段ボール箱の山に近寄り、一番上の箱を掴んで足元に下ろした。かなりの仕事量になりそうだ。一輝は自分のところが済んだら、彼を手伝おうと考えた。

 山の中程に積まれた紙箱をどかし終えると、一番下には膝くらいの高さの収納箱が並んでいた。この中に入っていることはあるだろうか。果たして蓋を開けてみる。中身は鍋やトレーの類いだった。

 隣の箱も開けてみようと手をかけた時だった。

「コンテナには入らないです」和泉がいってきた。その断定的な口調に、一輝は手を止めて彼を見た。「ブルーシートにくるんであると思います」

 おそらく正しいのだろうが、はいわかりました、という気にはなれなかった。

「そういわれたんですか?」

「いえ、知ってるんです」

 こういわれると一輝には返す言葉がない。かといって、指示を仰ぐようなこともいいにくい。とりあえず彼は、いったん崩した荷物の山を元に戻し始めた。

 子供の頃から知っている大好きなお店——、自己紹介での和泉の声が耳に蘇った。新人ではあるが、ある意味で最古参に近いともいえる。彼に対しては、素直に教えてもらうという姿勢でいいかもしれない。適当に話しかけてみようか。そうするには絶好の——むしろ会話がないのは不自然なくらいの状況だ。

「フジワライツキさん……でしたよね」一輝が言葉を探していると、和泉のほうが口を開いた。「もう知ってるかと思いますけど、和泉大五郎といいます。明応大学の一年生です。宜しくお願いします」

 明応大学。一輝が第一志望にしていた大学だ。

「藤原一輝です。正徳大学の二年です。こちらこそ宜しくお願いします」

「二年生ですか、それなら——」和泉は口元にかすかに笑みを浮かべた。「自分は一年浪人してるんで、年一緒かもですね」

 一輝は去年の春、悩んだ末に浪人しない道を選んだ。和泉とは同い年ということになる。「すると、年は一緒ですね」と、ごく薄く微笑み返した。

「近くなんですか?」和泉が訊いてきた。

「区内ですけど、結構遠いです。西河津からバス使いますから」

 一輝が答えると、和泉の口元から笑みが消えたように見えた。だがすぐに彼は頬を緩めた。

「あっちの方だと『GODセンター』ありますよね」

 『GODセンター』は会員制の小売りチェーン店だ。店全体が倉庫のような作りで、なんでも揃うからと大勢の客が押し寄せる。一輝の自宅からは歩いて十分もかからない。

「ええ、ありますね。うちからも近いです。会員なんですか?」

「はい。親が会員になってて、よく行きます」

 会員にならなければ、『GODセンター』で買い物はできない。会費は決して安くないが、妹の三貴が『GODセンター』でバイトをしているおかげで、一輝は無料で会員になっている。家族全員がそうだった。

「会費が高いんで、自分では入ってないんですけどね」和泉はそういって白い歯を覗かせた。

「へえ、そうなんですね」一輝は自分が会員だとはいわないことにした。妹のこともだ。

「和泉さんはこの近くなんですよね?」

「はい。すぐ隣です」

 初対面の相手にぼかすことさえしないのは、ここでは周知の事実だからだろう。

「お客さんとしては長いんですか?」

「お客さん歴イコール年齢です。お座敷で授乳されてたそうですから」

「それは……長いですね」紙箱を積み上げる一輝の手が止まった。

「この物置も昔からあります。前は、うちの庭と『美なぎ』の駐車場が繋がってて、小さい頃はよく入って遊んでました」

 道理で焼き台のことも知っているわけだ——一輝はあっけにとられた。

 和泉は壁際にできた隙間へと入っていった。一輝が目で追う。和泉は奥にある棚の最下段に這いつくばって頭を突っ込み、左側をスマホのライトで照らした。それから匍匐前進の要領で這い進み、一輝からは見えなくなった。

 さすがは遊び場にしていただけのことはある。一輝が感心していると、和泉が這い出てきた。

「ありませんでした」和泉は立ち上がってかぶりを振った。「ここにもないということは、物置の中じゃないと思います」

 顔は煤け、白いトレーナーが床を拭った雑巾にようになっていたが、その表情はどこか楽しそうだった。

 二人は物置を出た。勝手口から厨房に入ろうとしたが、どちらからともなく埃まみれではまずいだろうという話になり、そこで一旦別れた。 

 和泉は事務所に行くといって外階段のほうに向かった。首尾を報告するついでに着替えるという。一輝は厨房を通ってパントリーに入った。    

 ポニーテールの女がいれば話は早いと期待したが、彼女どころか誰もいない。さらに進んで、彼は客席を覗いた。がらんとしている。どのテーブルにも、椅子が逆さになって乗っていた。座敷にも人の気配がない。仕方なく踵を返そうとした時、カウンターの奥から声がした。

「おい兄ちゃん、どうした?」

 聞き覚えのある声だ。見ると、自己紹介の時、向かいから声をかけてくれた男だった。痩せていて、白髪混じりの頭は短く刈られている。  

 一輝はこれまでのことをかいつまんで話した。それを聞いて男は首を捻った。

「でかいし重いし、置いとける場所なんてあったか……」

 男が考えていると、がらりと戸の開く音がした。入り口からポニーテールの女が入ってくるところだった。

「焼き台は? 見つかった?」女は一輝を見つけると尋ねてきた。

「物置にないって。ダイゴが見つけらんなかったってさ」一輝がいうより早く、男が答えた。

「去年使って、台車で物置に運んだわよね」

「間違いない。俺ぁ物置の段差で腰をやったからな……あれから使ってないよな」

 二人はうーんと唸り、それからはっと何かに気づいたように顔を見合わせた。

「ぜんさんだ!」ほぼ同時に二人はいった。               


 ゼンサン——善さん? に訊けばわかるはずだという。

 いわれるがままに、一輝はエレベータで四階に向かった。降りてすぐ目の前に玄関ドアがあった。一河と書かれた木の表札が掲げられている。廊下の突き当りにある部屋というからここではない。横に半歩踏み出して上体を傾ぐと、奥へと向かう真っ直ぐな廊下が現れた。

 やけに静かで、仄暗い——。突然開けた視界に、彼は息を吞んだ。冷たい壁で隔てられたような空間に、網入りガラスの窓からうっすらと光が射し込んでいた。手前から奥へと、斜めに滑り降りる矩形の束が相似形をなし、教会のステンドグラスが演出する光景にも似て、つい見とれてしまうものがあった。

 そして実際に、彼は見とれていたのだろう。立ち止まっていた数秒間で目が慣れ、廊下の突き当りにあるドアを彼は目視できた。

 ——あのドアの向こうに善さんがいて、焼き台の在処を知っている。

 わかりきったことを反芻したのは、『善さん』という名前の頑固そうなイメージに気圧されていたからだった。ゆっくりひとつ息を吐き、歩き出そうとした。その時だった。

「なにか御用ですか」

 突然後ろから声をかけられ、一輝はうわっと小さな悲鳴をあげた。振り返ると、彼と同い年くらいの女が立っていた。

「アルバイトの人? この先はあたしの部屋しかないけど……」

 女の大きな瞳が一輝を見据えた。領域テリトリーを侵す若い男への警戒が滲んだ。

「え? あっ……いや、鰻の焼き台を捜していて、善さんのところに……」一輝は戸惑いながら答えた。

 違うところにきてしまったのか。それとも——善さんはこの子の部屋に入り浸っている!? 余計な考えまで頭を巡った。

「エレベーターの前に置いておくから、とりにきて」女はいった。警戒は解いたようだが、表情はなかった。磁器のように透き通った白い頰をしていた。 

「わかりました。じゃあ、お願いします」

 一輝は小走りで廊下を引き返した。小さくお辞儀をしながら女の横を通り抜けると、水蜜桃のような甘い匂いがした。


――目的は達したが、彼には疑問が残った。

 善さんに訊けばわかるからと、あの部屋を訪ねるようにいわれ、その通りにした。だがそこは、あの女の子の部屋だった。

 一緒に棲んでいるのだろうか――結婚しているようには見えないが、言い切れるものではない。『あたしの部屋』というニュアンスからは一人暮らしとも思えるが、これだって確証はない。

 エレベータで一階に着くと、一輝は二人の従業員と鉢合わせた。善さんから内線で連絡があり、焼き台を四階エレベータ前までとりにいくのだという。

 やはりあの部屋にいたのか——疑問が一部解消されたというのに、彼は少しもすっきりした気持ちにはなれなかった。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る