第一章 (3)
軽快な音楽に合わせてノースリーブの女が踊っていた。目を引くのは腰の動きだ。リズムよく左右に揺れている。女は喘ぐように仰け反り、片方の手を口に当てた。そして口唇を拭う仕草をしながら、妖しい笑みを浮かべた。
テンポが速くなると彼女は半身になり、腰をくねらせながら回した。首から胸に這わせた手を、身体のラインを強調するように太腿まで滑らせた。
今流行りのダンスだった。曲も最近よく耳にする。振付けは公式MVのもので、多くの人が真似をしてSNSに上げていた。
女の動きが激しくなってきた。汗を飛び散らせながら、両腕を上げて腰を前後に振っている。白く細い二の腕が眩しい。ふとどこかで見たことのある女だと思い、一輝は記憶を辿った。
だがすぐには思い出せなかった。女は一輝を見つめながら近づいてきた。思わず引き込まれそうな目をしていた。気がつくと女は彼の身体に跨っていた。彼は全く身動きがとれなくなった。「どう? 思い出せた?」女はそういうと、彼に覆い被さってきた。
曲の正体は『カウガール』だった。ヒットメーカーSE久の新曲を、一輝は目覚ましのアラーム音に設定していた。SEとはサウンド・エフェクターの頭文字、久とはいっても一人ではなく男女のユニットということまで彼は知っていた。
一輝はベッドから這い出て机の上のスマホに触れた。音が止む。見るとアラームが鳴っていたのは十四秒間と表示されていた。夢の中で女が踊っていた時間もこれくらいだとすると、彼の感覚よりだいぶ短かった。
どういうわけか、彼はこの夢を忘れたくなかった。経験上、夢の内容はどう頑張っても記憶から消えていってしまう。なんとかして覚えていようと言語化しても、それは夢の中での体験とは異なる記憶でしかない。ちょうど映画とレビューのような関係だ。一輝はカーテンを開けて外を見た。普段と変わらない景色が広がっていた。
一輝は支度してジャケットを羽織り部屋を出た。ダイニングには九司と三貴が残って、それぞれ酒と茶を手に寛いでいた。その横を通って一輝はキッチンに入り、コーヒーを淹れようとヤカンを火にかけた。
突然、高らかな女の笑い声が聞こえてきた。テレビからだった。子ども向けのヒーローものだ。中年男と女子高生が並んで子ども番組を観ているのは不思議な感じがした。
コンロの前に立ち、豆の用意をして湯が沸くのを待つ。テレビでは、美形の男が妖艶な女の悪役と戦っていた。二人がチャンネルを変えないでいる理由がなんとなく分かった。一輝はテレビの画面から警報の表示が消えていることに気づいた。スマホで確認すると、寝ている間に解除のメッセージが来ていた。
今でこそ警報による暮らしの不便はなくなったが、年明け頃まではそうではなかった。最初の発令は昨年九月だった。平日の昼間だったが、全国の小中高がただちに休校となり、児童、生徒を校内にとどめるのか、帰宅させるかで大混乱が起きた。政府はテレビやインターネットを通じ、外出を控え、丈夫な建物の中で過ごすよう呼びかけた。公共交通機関は全線で運休。スポーツ、コンサート、その他あらゆるイベントが中止に追い込まれた。
解除まで、この状態が七日間続いた。その間、被害が一切なかったことで、警報の信頼性を疑う声が上がった。このことについて政府は、非常にまれな出来事であったと釈明した。
ところがその三日後に再び警報が出された。政府は批判に対し、システム上仕方ないと説明した。テレビでは専門家が危機にあることを繰り返し強調しながら、世界各国が警報を出していると訴えた。
一方で、あるテレビ番組は普段と変わらない海外の様子を伝えた。現地の外国人にインタビューを行い、「落ちてきたら運命と諦める」「確率が低すぎる」「拾って売るんだ」といった回答を紹介していた。
国際社会は警報の解除に消極的だった。危険があるなら警報は出たままでいい、特に不便はない、という考えだ。そこで国内の経済界は、独自の解除基準を設けることを政府に要望した。
政府はいくつかの民間企業に巨額の資金を投入した。こうした政府肝いりの事業には批判もあったが、成果は上々とされた。新しいシステムにより解除までの時間が大幅に短縮され、発令同日の解除も珍しくないものとなった。
警報に伴う規制を緩和すると発表があったのは、十二月に入ってすぐだった。学校は平常通りで、通学時はヘルメット着用。交通機関は飛行機のみ運休。スポーツなどの興行は屋内での実施を条件とした。これで警報が出ても、普段と同じように生活できる。施行は一月一日からだった。
防災ヘルメットの新規格が義務化されたのもこの頃で、認証マークの入ったものしか流通しなくなり、慢性的な品不足に陥った。店舗には行列ができ、ネットショップでは買占め、転売が横行した。このことを受けて、政府は各家庭に防災ヘルメットを無料配布した。各世帯に一つではあったが、子を持つ親を中心に概ね好評だった。
藤原家にも白いヘルメットが届いた。小学生用なのか、サイズが小さい。着用義務があるのは二月と三貴だが、被るはずもなかった。三貴にいわれて九司が被ると、頭の上にちょこんと乗った。それを見て、二月と三貴は「河童みたい」「カワイイ」と大笑いした。娘たちが楽しそうにしていて、九司は終始ご機嫌だった。
オオカミ少年のようにいわれた緊急落下物警報だったが、三月半ば頃から衛星落下の目撃報告が急増した。連日、火球によく似た映像がSNSや動画サイトに上げられた。四月に入ると、人家や工場の屋根が破られたというニュースが海外から伝わるようになり、国内でも衛星の部品と見られる金属の破片が都内で見つかったという噂が流れた。
危険が高まっているのは確かだ。しかし、あの不便で退屈な生活はこりごりだ。いい知れぬ不安と正常性バイアスの間で、社会全体が揺れていた。
不意に、甲高い音が室内に響いた。見ると、ヤカンから湯気が吹き出ている。一輝は火を止めてコーヒーを淹れた。
「お兄ちゃん、こっちにもお湯ちょうだい」テレビを見たまま、三貴が催促してきた。
テーブルの端に置かれた急須に湯を注ごうとすると、彼女は「ごめん、お茶っ葉替えて」といってきた。そこへ九司が「これ、チンしてくれ三十秒」と酒の入ったグラスを寄越してくる。ダイニングでは、立っている人に次々と用事がいいつけられることがある。一輝は酒をレンジで温め、茶葉を新しくして急須を湯で満たした。
二人に飲み物を出してから、一輝はコーヒーを一口飲んだ。その時、テレビから派手な爆発音が聞こえてきた。正義と悪の戦いに決着がついたようだ。勝ちどきを上げている青年は、気鋭の役者が演じている。長身でシャープな輪郭、軽薄そうだが実力は折り紙付き。なるほど三貴が好きそうだと一輝は思った。
スタイル、顔、ファッションセンス、頭の良さ、全部揃ってなきゃヤダと憚ることなく口にする三貴だったが、いうだけのことはあってかなりモテているらしい。最近になって、家柄も譲れないといいだすようになり、どこまで理想が高くなるのかと、一輝は兄として心配だった。
夕食時、意図せず姉妹のガールズトークが耳に入ってくる。夕食の平均所要時間は二時間ほど。妹たちから相談を受けることはなかったが、自然と様々な打ち明け話をされているようなものだった。
「おい、一輝」九司が話しかけてきた。「鰻屋でバイトなんだろ。何時頃帰ってくる?」
「五時までだから、何もなければ六時には」
「じゃあさ、蒲焼きを五つ買ってきてくれよ、ひつまぶしにするから」
「食べたーい」三貴が声を上げた。テレビからは目を離さなかった。
九司は一万円札を二枚、一輝に差し出した。
「いや……」一輝は迷った。「ちょっと約束できない。まだ何もわからないから」
新入りが初日から贅沢な土産を買って帰れば、それを良く思わない人だっているかもしれない。気にしすぎかもしれないが、せっかく採用された好条件の職場だけに、慎重に振る舞おうと一輝は考えた。
「そうか……」と呟いて、九司は残念そうな顔をした。紙幣に描かれた肖像画も、どこか残念がっている表情に見えた。
「買いに行こーよ」三貴はそういってから、「あ……」とだけ口にして、それ以上は何もいわなかった。
「じゃあ、お前んとこで買おう」九司は振り返って三貴にいった。
「いいけど、ちゃんとキレイな格好してよね」
三貴が答えると、九司はにやにやしながらお辞儀をして、両手で髪を整える仕草をした。どうやら三貴のバイト先『
一輝はコーヒーを啜りながら、賄いはうな重という社長の話を思い出していた。それが本当なら、今日は昼も夜も鰻ということになる。『美なぎ』の鰻は一流の旨さと評判だった。すると、後に食べる家庭の鰻はどうなのか。おいしく感じなかったらいやだな、と彼は思ったが、ここは九司の腕前に期待するしかない。
バスの時間が近づいてきた。一輝はコーヒーを飲み干し、玄関に向かった。
「行ってきます」
玉暖簾がジャラジャラと音を立てた。
「おう、しっかりやれよ」「行ってらー」
二人の声を背に、一輝はドアを開けた。
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