エロティック・ホステス

檀密

プロローグ

 

                  

 満員のバスを降りて、駅に向かって歩きだした。朝の七時半だというのに真夏の太陽が眩しい。冷房の効いた車内との温度差で汗が噴き出す。今日も酷暑日の予報が出ていた。梅雨明けから一日も途切れていなかった。

 人を吐き出したバスがエンジンをふかして走り去ると、独特の臭いがする熱い空気に包まれた。藤原一輝ふじわらいつきは息を止めてやり過ごした。

 本来ならば外出の予定はなかった。何もない一日、家でのんびりくつろぐつもりでいた。大学は試験が終わって昨日から夏休み。アルバイトは試験期間を理由にしばらく休んでいる。

 商店街の入り口にさしかかった。一輝は目の前の信号が点滅するのを見て、早足で道を渡った。『すずらん通り』と書かれたアーチをくぐると、道の舗装がレンガ敷に変わった。

 店はあらかた閉まっていて、寂びれたシャッター街のようだった。この時間に買い物客はいない。出勤途中の人たちに混じって歩く。一輝はやや前屈みになって足を送り出した。

 左側に白いビルが見えてきた。西河津駅の駅ビルだ。一輝は路地を覗いた。回収を待つゴミの悪臭が漂っているが、気にならないなら近道になる。彼は路地を通り抜け、駅前のロータリーに出た。

 改札はビル三階にある。そこへはロータリーから階段で上がることができた。ビルができた当時はその利便性が好評だった。だが時が流れ、世の中が次第に便利になると、少しずつ不満の声が聞かれるようになった。

 階段に屋根のないことが、あらゆる不評の原因となっていた。雨の日は滑りやすく、利用者が転倒することもあった。夏場の日射しと照り返しは両面グリルのようだといわれた。そこで階段を避け、エレベータを使う人が増えていった。朝のラッシュ時ともなれば、二往復待つこともざらにあった。

 一輝はこの行列に並ぶ気にはなれなかった。先を急ぎたい気持ちもあった。昨夜交わした急な約束がそうさせていた。もっとも時間には余裕があったし、遅れても約束の相手は嫌な顔ひとつしない。急ぐのは、彼自身がそうしたいからにほかならなかった。

 一輝は階段を上り始めた。直射日光が素肌を刺し、シャツにこもる熱が体力を奪っていく。視界がゆらゆらと歪んだ。目を細めて太陽を見ると、頭のてっぺんから汗が流れ落ちた。年々強くなる日射しに、ただごとじゃないなと彼は思った。

 見渡すと、雲一つなかった晴天に、ざっと十ほどの飛行機雲が軌跡を描いていた。すっかり見慣れた光景だった。青地に白のコントラストはただ美しかった。眺めに気を取られているうちに、彼は階段を上りきっていた。

 改札を抜け、コンコースからホームへの階段を下りていく。大勢の利用客がひしめくのが見えてきた。列車は到着している。ドアが開き、黒山の人だかりが崩れた。次発でもいいが、乗ってしまおう。最後の一段を飛ばして、一輝は後に続いた。

 車内は混雑していたが、中ほどにはまだ余裕があった。どうやらこの列車は、隣が始発駅だったようだ。当たりくじを引いた気分でいると、背後から乗客が塊となってなだれ込んできた。押し込まれるように進んでいき、前後から受ける圧力が均衡したところで発車ベルが鳴った。

 一輝は右手でつり革を確保した。スマホの操作は無理そうだが、危険を感じるレベルの混雑ではなかった。夏休みは通学する高校生がいない。過酷な朝のラッシュが、ほんのわずかに緩和する期間だ。冷房がよく効いて、涼しさにひと息つく。待ち合わせは次の停車駅の北花菱。時間にして約五分だ。

 車窓を流れる景色に通過駅のホームが見えた時、列車は一旦減速した。進行方向は一輝の左側。体重のかかる左足を軽く踏ん張り、つり革を握る右手に力が入る。

 列車はホームを抜けると、減速によるタイムロスを取り戻すかのように加速した。この時ドアの辺りからごく小さな将棋倒しが起きた。女性の短い悲鳴が車内に響く。一輝は周囲の乗客と共に右へ半歩ほど動いた。さほど珍しいことではなかった。

 この半歩で、右手のつり革が身体の左側に来てしまった。左手に持ち替えようにも、鞄を抱えていて難しい。ひとつ右のを掴みたいが、会社員風の男がしぶとく握っていた。右手で頭ごしにつり革を持っている。不自然な姿勢だが、それは一輝も同じだった。

 列車が停車駅のホームに差し掛かったとき、若い男女の揉めるような声がした。右のほうからだった。聞くと、その男女が言い争いをしているのではなく、二人がかりで誰かを責めているようだった。

「次で下りろお前」若い男の凄む声がした。何もしてませんよ、と弱々しく返したのは、すぐ横で一輝と同じようにつり革を持つ会社員風の男だった。

 列車が止まり、ドアが一斉に開く。半数以上が下車するので、人を掻き分ける必要はない。ただ人の流れに身を任せていればよかった。

「来いよオラ」大きな声と共に、一輝の前で髪の薄い頭が大きく揺れた。やめてください、といいながらもう一度揺れる。若い男に掴まれて、乱暴に引っ張られているようだった。

「ずっと触ってただろテメー」若い女の声だ。どうやらこの禿げた男が痴漢を働いたらしい。触った相手がたまたまカップルで、あえなく御用となったのだ。

 一輝は痴漢というものを初めて見た。この路線で通学する妹どうしの会話で、最近いるらしいことを知っていたが、まさかすぐ隣にいたとは——。

 驚いていると、痴漢の男が一輝のほうに振り返っていった。「私じゃないですよね。間違いだってわかりますよね」

 ——はあ? 

 助けを求められて、一輝は困惑した。苛立ったといったほうが正確かもしれない。なんだって自分にわかるというのか。男を挟んで被害者とは反対側にいたというのに。

「うるせえ黙れこの野郎」若い男が一喝した。

 痴漢の男はネクタイを引っ張られていた。つんのめって頭を下げた姿勢になっている。そのとき、一輝は若い男と目が合った。

「オマエ消えろよ」若い男が睨みつけてきた。耳には大ぶりのピアスが光っていた。

 列車は治安がいいとはいえない地域を縦断している。一輝はこうしたチンピラにはうんざりしていたが、見慣れてもいた。男の言葉は聞き捨てならないが、待ち合わせの約束がある。こんなことに関わるわけにいかなかった。

 乗客がぞろぞろとホームに下りていく。前を行く三人に続いて一輝は下車した。そのまま通り過ぎようとした時、誰かが一輝の右腕を掴んだ。  

「待ってください、お願いします」

 振り返ると、掴んできたのは痴漢の男だった。一輝は咄嗟に振り払おうとしたが、強い力で握りこまれてどうすることもできなかった。男は続けていった。「右手はずっとつり革でした。見てたでしょう」   

 はっとした。男の右手は絶えず視界に入っていた。一つ目の通過駅を過ぎたあたりからだ。ただ、それより前のことはわからない。しかし、ずっと触ってた、という女の言葉と矛盾する。

「なんだオメーはコラ——」

 今度は背後から別の声がかかり、一輝はそちらを向いた。

 ピアス男の顔がすぐ目の前にあった。あっと思う間もなかった。膝から崩れ落ちそうになるのを何とか持ちこたえたのは、衝撃を受けた後だった。

「オラア」男は気勢を上げた。顔を左右に揺らしながら近づけてくる。「殺されてえのかコラ」

 顔面に残った衝撃で、一輝は殴られたのだと気づいた。だが立ち去ろうにも痴漢の手を振りほどけない。

 次の瞬間、ピアス男の二発目の気配を感じた。右手は痴漢に掴まれたままだ。左手で防ごうにも、鞄を抱えて自由が利かない。上体を素早くひねる。どうにか躱したが、その直後、一輝の顎に何かがぶつかった。口の中に血の味が広がる。続けてこめかみに電気が走るような刺激を覚えた。

 これじゃまるでサンドバッグだ。誰か、早く駅員か警察を呼んでくれ——必死に直撃を避けながら、彼は心の中で叫んだ。

「消えろっつってんだゴラ」ピアス男が吠えた。

「だったらこの手を何とかしろ」一輝が吠え返した。

「んだとゴラ……あん?」

 ピアス男は殴るのをやめて、一輝が顔の高さで示した腕を見た。痴漢の男が両手でしがみついている。

「放せオイ」ピアス男が、一輝の腕から痴漢の手を引き剥がそうとした。一輝も腕をねじって協力する。しかし、なかなかうまくいかない。

「待ってください。やめてください」痴漢がそういうと、ピアス男は、うるせえ、といってその頭を叩いた。一輝もそうしたい気分だった。

 その直後だった。女のまくしたてる声がして、一輝はそちらを見た。ピンクの混じった金髪の女が、相手を見上げながら何か話している。カップルの女のほうだった。

 話の相手は制服を着た警官だった。一輝たち三人のところにも、警官たちが駆け寄ってきた。見たところ全部で五人。背広姿の刑事が一人、制服の警官が四人、そのうち一人は女性だ。彼らによって、三人はすぐに引き離された。

「その顔どうしたの?」若い警官が訊いてきた。軽い口調だが目つきは鋭い。

「その人に殴られました」一輝はピアス男の背中を指さした。男は刑事と話していた。

「どうして殴られたかわかる?」 

 いやな言い方だった。殴られた原因が自分にあるようにも聞こえた。

「あの人が腕にしがみついてきて」一輝は手振りで示した。「身動きがとれなくなりました……その前にこっちの人と目があった時、お前消えろといわれて――」

「うん、わかった。で……」 話を遮るようにして、警官が訊いてきた。「あそこにいる人とは仲間なんだね?」

 一輝は驚いた。違います、といって首を横に振った。

「じゃあなんであなたにしがみついたの」

「痴漢に間違われたので、証言して欲しかったんだと思います」顎が軋んでしゃべりにくい。

「その時、何かいってた?」

「やってないのを見てたでしょ、といったことを――」

「やってないのを見る?」警官は怪訝そうに眉を寄せた。「それはどういうこと?」

「右手はずっとつり革で、それが見えてたはずだと」

「ずっと見えてたの?」

 はい、と答えてから一輝は記憶を確かめ、そして続けた。

「一つ目の通過駅からです。それより前は見ていません」

 警官は黙って首を傾げた。数秒の沈黙の後、そのままの姿勢で口を開いた。

「左手は空いてるね」

「はい。でも女の人は右にいましたから……」

 どうして男のアリバイを証言しているのかと、一輝は思った。巻き込まれて怪我までしたというのに、とんだお人好しだ。 

「あなたはどこにいたの?」警官が訊いてきた。

「左です。すぐ隣でした」と一輝は答えた。

「つり革はどのあたりに見えてたのかな」

「だいたい……」一輝は小さく手を上げた。「このあたりです」といって顔の斜め前で円を描いた。

「ふうん」警官はじっと一輝の顔を見つめてきた。そして視線を外すことなく手帳を開き、ボールペンを構えた。「名前と生年月日を教えて」

 質問に答えながら、一輝は全く別のことを考え始めていた。約束の相手のことだ。

どのくらい時間が経ったのか。遅れるならメッセージを送りたい。殴られた痕はどうか。時計、連絡、手鏡――スマホで事足りる。彼は鞄に手を入れ、中を探った。

 その様子を見た警官が「何してるの?」と大きな声で二回訊いてきた。

「スマホを探してます」手を動かしながら答えた。鞄の中に見当たらず、一輝はズボンのポケットを叩いた。だがここにもスマホはなかった。

 さっきので鞄から飛び出したか——周囲をさっと見回した。すると黄色い点字ブロックの上にそれらしきものが落ちていた。ホームドアはなく、線路に転げ落ちてもおかしくはなかった。

 一輝は急ぎ足で近づいた。スマホは背面を上にして転がっていた。お気に入りのゲームキャラのシールが貼ってある。彼は安心し、拾おうと腰を屈めた。

 その時だ。横から誰かがぶつかってきた。一輝はバランスを崩してよろめいた。ホームの端が近く、転落する危険さえ感じた。見上げると、ぶつかってきたのは話をしていた警官だった。彼は一輝を押しのけ、攫うようにスマホを拾い上げた。

 一輝は驚いて、警官の顔を見た。すぐに怒りがこみあげてきたが、それを抑えて「すみません、それ自分のなんですけど」といって右手を出した。

 だが警官は聞いていないようだった。黙ってホームの端から中ほどに戻ると、スマホを持った手を後ろに組んでしまった。

「あの……」そっぽを向いている警官の横顔に一輝は声をかけた。「それ自分のなんで、返してください」

 すると警官は一輝のほうに向き直って睨みつけてきた。

「他の人のかもしれないだろ」

 一輝は唾を飲み込んだ。予期しなかった凄みが警官の目に宿っていたのだ。

 警官は拾ったスマホが一輝のものだと考えているはずだった。だからこそ睨みを利かせる必要があったのだ。

 一輝は改めて警官の顔を見た。このまま取り上げるつもりだろうか——だが引き下がるわけにはいかなかった。

「絶対に自分のです。生体認証できるんでやらせてください」

「できない」

「どうしてできないんですか。すぐわかりますよ」 

「……」

 警官は何かをいおうとして開けた口をゆっくりと閉じた。一輝の目をじっと見たまま数秒間黙り、そして口を開いた。「暗証番号をいってください」

「えっ……」

「あなたのならいえるはずです」

 この要求に一輝は戸惑った。詭弁だとも思った。いえるとしても、なぜいわなければならないのか——そう返したかったが、スマホを質に取られては強気に出られない。いいようのない不安が広がった。警官が相手だとしても、簡単に教えられるものではなかった。

 その時、絶妙のタイミングで警官はいった。「大丈夫ですよ。解除したらすぐに返します。心配なら暗証番号を変えてください」 

 それはまるで、一輝の心を見透かしたような台詞だった。一刻も早くスマホを取り戻したい彼にとって、この言葉は十分に効き目のあるものだった。

 もちろん納得はできなかった。それでも従うほかはなかった。一輝は声を落として六桁の数字を警官に伝えた。

 警官はそれを手帳にメモしてから、指先で画面を叩いた。そして一瞬動きを止めた後、ごくわずかに頷いた。一輝からは見えなかったが、どうやら解除できたようだった。

「できましたよね」一輝は警官の様子を覗き込みながら訊いた。だが警官は口を結んだまま、さあ、とでもいうように首を捻った。

「こっちによこせ」

 どこからか男の声がした。見ると、警官の背後にもう一人、同じ制服姿の男が立っていた。体格がよく、屈強といっていい。年齢は三十前後に見えた。

 すると若い警官はいわれるまま、スマホを屈強な警官に手渡した。

「返してください」一輝はあわてて叫んだ。「暗証番号をいえば返すっていいましたよね」

「これは事件現場の遺留物だからリョウチする」屈強な警官がいった。野太い声だった。

 リョウチ——確かにそう聞こえた。一輝は法学部生ではなかったが、一年生の時に法学の講義を選択していた。刑法や刑事訴訟法も試験範囲に含まれていて、ややこしい専門用語も苦労して覚えたがこれは記憶にない。つまりは取り上げられたということか。

「あなたのだとわかったから、あわてなくていい」若い警官が一輝を手で制した。

「どういうことですか。ロック解除したらすぐ返すっていいましたよね。どう考えてもおかしいですよ」一輝は警官を睨みつけながらいった。

 若い警官はその視線を避けて、身体の正面を反対側ホームに向けた。

「それなんだけどね……」警官は両手を腰に当てた。 それから首を回して一輝を睨み返した。「私は返すつもりだった。それで暗証番号を訊いたんだ。でも押収されたんじゃどうにもできない」

 その白々しさに、一輝は口元を歪めた。そして騙されていたことに気づいた。

 たった今警官が口にした押収という言葉で、記憶が蘇った。法学の試験の過去問に、〈捜査機関が物品を押収するには、裁判所の発付した令状が要る――正誤どちらか答えよ。〉という問題があった。正解は誤。押収ではあっても領置によれば令状は要らないというものだった。警官が強引にスマホを拾い上げたのは、事件現場の遺留物として扱うためだったのだ。

 スマホを手に、屈強な警官は離れていった。押収されたのであれば、すぐに取り戻すことはできない。一輝はいったん諦めて、待ち合わせの相手に連絡をとることを考えた。

 鞄から手帳を取り出し、住所録のページを開いた。重要な連絡先は書き込んである。アナログな習慣だが、こんな形で役に立つとは思ってもみなかった。

 しかし、名前の下に書かれているのはメールアドレスばかりだった。スマホが手元にないので、これではどうすることもできない。だが彼はある確信をもってページをめくっていった。

 何度かめくると、期待していたものが一輝の目に入った。そこにはハイフンで結ばれた十桁の番号が書かれていた。

   美なぎ 03-○○○○-××××

 全ての携帯番号はわからないが、これでなんとかなるはずだ。ほっとすると同時に、彼の胸には軽い焦りが生じていた。

 現在時刻を正確に知ることができない。たったこれだけのことをこんなにも不便に感じたことはなかった。日焼けの跡ができるのを気にして腕時計はしてこなかった。発車案内板の時計もここからは見えない。急いで公衆電話を探そう——彼はホームを見渡した。

 一輝はこれまで、街中にある公衆電話の存在を気にかけたことはなかった。必要としたことがなかったからだ。首都高の路肩にある非常電話と同じように、見かけたとしてもその地点が印象に残ることはない。それでもホームよりは、階下のコンコースのほうにありそうだと彼は思った。

「電話をかけてきます」一輝は若い警官にことわってから歩き出した。

 すると警官は、だめだだめだ、といって彼の前に立ちはだかった。

「人を待たせているんです。電話で事情を説明するだけでもだめですか」

「だめだといってるだろ」警官が声を荒げた。それから一呼吸おいて、改めて声を張り上げた。「おとなしくしろこの野郎っ」

 下手な見得を切る三文役者のようだった。だがすぐにその意図は明らかになった。警官たちが一斉に集まってきたのだ。最初は見なかった顔もいる。その数は倍近くに増えていた。  

「何逃げとんじゃコラ」

「いう通りにしろお前」 

 警官たちは口々に怒鳴り声を上げた。

「ふざけんな」女性警官の甲高い声が響いた。

 ふざけてなどいるものか。むしろこっちの台詞だ——一輝は叫びたくなっていた。思わず後ずさりすると、後ろから肩をぐいと掴まれた。

 ぎくりとして振り向いた。そこに立っていたのは、一輝のスマホを領置した屈強な警官だった。

「逃げれるもんなら逃げてみなよ」屈強な警官はそういいながら、一輝の腋に太い腕を通した。 

「逃げようなんてしてませんよ」 

 一輝がいうと、警官はさらに腕に力を込めた。

「口答えすんじゃねーよバカ」

「痛いですよやめてください」

「じゃあ、今ここで手錠をかけてやろうか?」

「えっ」一輝は目を剝いた。「自分、被害者ですよ」

「お前が決めるんじゃねえんだよ」

「いや、殴り返したりしてないですよ」一輝は驚いて、首と一緒に掌を振った。

 記憶を辿るまでもない。自分は確かに防御に徹していた。しかし相手がカップルで嘘の説明をしたなら、不利な状況になることは考えられた。だとすれば、どこまで汚い奴らだ――こみあげてくる怒りを何とか抑えようと、一輝は深く息を吸った。

「いいからおとなしくしろ」集まってきた警官の一人が、正面から一輝の肩を掴んだ。「原因を作ったのはお前じゃないのか」 

 一輝はいい返そうとしたが、うまく言葉にならなかった。原因とは一体何だ。自分が何をしたというのだ——。

 その時、一人の警官と目が合った。女性警官だった。その目には、見るからに非難と軽蔑の色が混じっていた。そんな目で見られるような真似をした覚えはない――そう思った時、一輝の頭にある疑念が湧いた。そして、その疑念は瞬く間に確信に近いといえる水準にまで解像度を上げた。

「違う、そうじゃない」一輝は首を振り、少し離れたところで背中を向けている男を指した。「痴漢で捕まったのは、あの人です」 

「おや、おかしいな」警官は一輝の肩を掴んだままいった。口元に嫌味な笑みが滲んでいる。

「何がおかしいんですか」

「お前が原因を作ったとはいったが、痴漢とはいってないぞ」

「ひっかかったなバーカ」屈強な警官が一輝を完全に羽交い絞めにした。

「ちょっと待って——」警官たちの無茶な言い分に、一輝は困惑しながらも続けた。「先にあの人が痴漢だって騒ぎになって、そこに後から自分が巻き込まれたんですよ。女の人はあの男に触られたといってました」

「はあ?」女性警官が声を上げた。その目は蔑みから苛立ちへと色を変えた。「誰かわからないって、女の子はいってる。嘘ばっかりつくな」

——誰かわからないだって?

 そんなはずはなかった。「ずっと触ってただろテメー」という女の声が耳にこびりついている。それはあの頭髪の薄い中年男に向けられていた。

「何嘘ついとんじゃオラ」

「嘘つくなこの野郎」

 嘘なものか、ひどいとばっちりだ——一輝は唇を噛んだ。あれだけの大声と大立ち回り。目撃者などいくらでもいるはずだった。だがそれをどうやって潔白の証明に結び付けたらいいのか、すぐには思いつかなかった。

「とにかく、あの男をよく調べてください」

 一輝は痴漢であるはずの男を指し、懸命に理解を求めた。その視線の先で、男は背広を着た刑事と向かい合って話をしていた。

 刑事のすぐ横には警官が立っていた。だが一輝に詰め寄ってくる警官たちと違い、半歩下がって棒立ちでいる。

 男が刑事に何かを手渡した。刑事はそれを受け取って耳に当てた。スマホのようだった。刑事がすぐに話し始めると、警官たちは途端に静かになった。

 刑事はボールペンを持った手を顔の前で振った。横にいた警官が両手でバインダーを差し出し、胸の高さで支えた。刑事がバインダーに何か書きつけている。それからこくりこくりと何度か頷き、最後にいかにも納得したふうに大きく顎を上下させてからスマホを男に返した。

 男はスマホを受け取ると、薄笑いを浮かべて一輝のほうを見た。それから刑事に小さくお辞儀をし、何事もなかったように背中を向けて歩き出した。

「ちょっと待ってください。なんであの人を行かせるんですか?」一輝は驚いて声を上げた。

「お前には関係ない」正面に立つ警官が怒鳴った。

「じゃあ、自分も行きます。人と約束しているんです」 一輝は背後から絡みつく太い腕を振りほどこうとした。

 突然、ぐるり、と視界が回転した。次の瞬間にはもう、一輝はうつ伏せにさせられていた。背中に体重を乗せられ、頭を押さえつけられると、プラットフォームの冷たさを頬で感じた。 腕をねじり上げられて身動きがとれない。 警官たちが駆け寄ってくる足音が響いた。

 自由が利くほうの腕を伸ばした。その先で、痴漢だったはずの男の背中が小さくなっていく。

 あいつを行かせるな、行かせないでくれ——しかし、声にならなかった。胸郭が圧迫され、肺に空気が入らない。息を全く吸うことができなかった。やがて男は人ごみに紛れ、見えなくなった。

「——現行犯逮捕」

 野太い声がホーム全体にこだました。手柄を誇示するようだった。頭の上でカチャカチャと、手錠らしき軽い金属音がした。

 その瞬間、全身の警報機が鳴りだした。

 痴漢で逮捕となれば、すべての信用を失う。無罪であっても汚名は消えない。それは自分だけでなく家族にも及ぶ。この社会で居場所をなくすことになるのだ。

 こんなものを掛けられてたまるか——だが抵抗しようにも、全く身動きがとれない。 抜け出そうともがいても、足はただコンクリートの表面を滑るだけだった。 

「おとなしくしろよバカ」

 その声につられて警官たちが笑い声を上げた時だった。突然、轟音が響き始めた。硬いプラットフォームが振動を伝えてくる。

 電車が入ってきたのかと思ったが、そうではなかった。 

 音は次第に大きくなった。低音の唸りが音階を駆け上がっていく。やがて鼓膜が破れそうなほどの高音に達すると、空気を切り裂きながら辺りを通り抜け、近くに雷が落ちたような爆発音に変わった。人の動く気配が消えた。残響が壁や天井を震わせ続けた。

 警官たちに、何事かと動揺する雰囲気があった。 だが一輝には何が起きたのかがわかった。これは空振だ。そして、あることが、この後に起こるかもしれないと彼は知っていた。こんなことを願っていいのか。しかし、それに賭ける以外に方法はなかった。

 すでに隙は生まれていた。背中にかかる荷重も、腕をめる力も弱まっている。しかしここで逃げようとしても、瞬時に反応されて台無しになる。じっと息を潜めて、観念したかのように身体から力を抜いたまま待った。

「ああ、あれか」刑事の声だ。

「……こんな時に驚かせやがって」馬乗りの姿勢で、屈強な警官が舌打ちした。それから気を取り直したように一輝の腕をねじり上げ、手錠をかけようとした。

 その時だった。激しい地鳴りと共にプラットフォームが小刻みに波打ち始めた。

 一輝はこの瞬間を待っていた。下から突き上げるような揺れは、押さえ込まれているほうに味方する。一輝は四肢と体幹の力を瞬時に爆発させ、背中に乗る警官を弾いた。両腕で上半身を跳ね起こし、身体のバネで腰を浮かせ、着地した右足を強く踏みしめた。

 尻もちをついた警官が後ろに転がった。別の警官が左から手を伸ばしてきた。刑事が両手を広げて一輝の正面に立ち塞がる。

 見ると、その向こうに女性警官の姿があった。正面にはもう二人、すると、背後にいるのは一人。ただし、新たな応援が到着していなければ、だ。

 一輝は右足を軸に身体を反転させた。そのまま強く蹴って加速する。この一歩で、伸びてきた警官の手をすり抜けた。視線を瞬時に走らせる。警官はあと一人、騒ぎに反応しているのが五人、しゃしゃり出てきそうなのが、そのうち二人——。彼らの動きがスローモーションのように見える。一輝の感覚はこれまでになく研ぎ澄まされていた。

「止まれっ」

 二メートル先で警官が進路を阻んだ。右手に警棒を持っている。一対一の状況だ。次の一歩で一気に近づくと、緊張に目を見開いた警官の顔が眼前に迫った。

 一輝は低い姿勢から左斜めに動いた。警官の反応は鈍く、横の動きに足がついてきていなかった。

 かわしたと思った次の瞬間、警官はテニスのフォアハンドの要領で、一輝の顔面めがけて警棒を振るってきた。ぶつかる寸前で身をかがめると、ぶんと空気を裂く音がして、警棒が頭をかすめた。一輝は構わず走り抜けた。

「待てこの野郎っ」警官の叫び声がみっともなく裏返った。

 前方には、もう他に警官の姿は見えなかった。包囲網を突破したのだ。あとは追走してくる奴らを振り切るだけだ。とにかく現行犯逮捕を免れることだけを考えるのだ。

 個人情報を教えているので、すぐに警察がくるだろう。だが通常の逮捕には裏付けがいる。取調べに備えて、大学の法律相談室を頼れば弁護士がつく。そうすれば監視カメラの映像や、証言してくれそうな目撃者を先におさえられるかもしれない。だからこういう時は逃げるのも有力な手だと、法学の講義で聞いたことがあった。 

 二十メートルほど走ったところで空間の明るさが増した。壁の一部が相当高いところまでガラス張りになっているのだ。屋外の様子が気になったが、外を眺める暇はない。一輝はまっすぐ前だけを見て走った。

 野次馬の一人がすっと足を出してきた。警察から逃げる男を転ばせようというのだろう。一輝は跳び越そうとした。だが踏み切る瞬間、その先に腰を落として待ち構えている男が見えた。跳べば突っ込むことになる。一輝は咄嗟に向きを変え、足を出した男の背中側を抜けた。ホームの端ぎりぎりだった。

「痴漢です。捕まえてください」後ろから大きな女の声が聞こえた。異変に立ち尽くす人たちが、声のしたほうに一斉に首を回した。それから彼らの好奇の目が一輝を捉えた。スマホのカメラを向けてくる者もいた。

 一輝は思わず顔を伏せた。上目遣いに前を見て、視野の上半分に意識を集中して走った。するとすぐ、何かがそこに入り込んできた。女性の足元だった。

 瞬時に顔を上げたが、その後ろ姿はすぐ近くまできていた。避ける間もなかった。どうにか半身にはなったものの、女性の肩にぶつかってしまった。

 しまった——。

 立ち止まる余裕はなかった。それでも女性は前のめりに倒れていく。線路に転落するかもしれなかった。

 全方位の景色が静止して見えた。ホームに入ってくる列車、追ってくる警察官、青い空、そして——驚くほど近くに浮かぶ飛行機雲。

 一輝は女性の腕を掴んだ。ホームから身を乗り出した状態で、その身体は止まった。背を向けていて、どんな顔をしているかはわからなかった。慎重に腕を引き、傾いた体勢が元通りになるのを確かめて、すぐに彼は駆け出そうとした。

 その時だった。放したはずの手が離れなかった。反動で一輝は後ろに倒れそうになった。女が彼を放さなかったのだ。

「放してくれ、俺は痴漢じゃないんだ」

「知ってる」

 聞き覚えのある声だった。そう思うと同時に、一輝はぞくりとした。これまで感じたことのない冷たい何かが、全身に広がった。

 女が一輝の腕をぐいと引き寄せた。肩が抜けそうなほどの強い力に、一輝は体勢を崩した。肘の曲がらない方向に引き込まれ、前方に投げ出された。気がつくと身体が宙を舞い、天地が逆さまになっていた。

 そこはホーム上ではなかった。重力に従い、ゆっくりと頭から線路に落ちていく感覚があった。列車の警笛が耳をつんざく。ごくわずかな時間が、途轍もなく長く感じられた。

 一輝は自分を死に追いやろうとしている女に目を向けた。どういうわけか胸のあたりが眩く光っていて、顔は見えなかった。それでも彼は、この女が誰であるか確信に近いものを得ていた。

 どうして彼女はこんなことを——。ほぼ確実な死を目前にしながら、不思議と恐怖はなかった。ただ気がかりなのは、自分への疑いが晴れるのかということだった。家族のことも心配だった。だが一輝にできることは、もう何もなかった。

 彼女は「知ってる」といった。その言葉は単に『あなたはそんな人じゃない』という意味に留まるものではないはずだった。では、何をどこまで『知っていた』というのか。少なくとも、犯人は他にいると彼女は知っていた。一体、どうやって——。

 一輝の頭の中で嵐が吹き荒れた。そして、いったん渦を巻いた思考が整然さを取り戻し、記憶の中の情景が一本の絵巻のように再生された。彼女と出会って二か月が経っていた。交わした会話、見せた表情、全てが鮮やかに――ただ、それらをどう解釈しても、彼は自分の身に起きたことの意味を見出すことはできなかった。

 黒光りした鋼製の車輪が、ふと見た時計の秒針のように止まって見えた。それが動き出した時、彼の意識は失われた。

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