Ⅲ 島


港町 昼頃


 レディ・オブ・ザ・ランドの島に最も近い港町。

 町の活気はそこそこ、漁を終えた漁師が帰ってきて店を開けたりしているが、客も店番も皆どこか顔が退屈そうだ。店先に並ぶ魚も品数が少なく、大物はない。

 今働いている町人は若者がほとんど。老人たちは石階段や広場の花壇に腰かけ、無言で身体を前後に揺らしながら日向ぼっこをしている。

 ここを訪れた人間は誰もが同じ感想を抱くだろう。

 希望の光を失い、元気を失くした町だと。

 かつて、コランの両親がトワと出会った場所であるが、その頃の活気は無くなっていた。


 町で一番大きな宿の貴賓室――広いが大層な部屋ではない。調度品もなく、少しだけ花が飾ってあるだけの部屋――に泊まるコランは大きな問題に悩んでいた。

 硬いベッドで仰向けになる彼の腹が大きく鳴る。

 

「うぅ……」


 船旅が始まってから、コランは水しか口にしていない。

 町に着いた時点でかなり気分が悪いし、手が震えていた。

 こうなったのには二つの原因があった。

 一つは、コランの体質。

 トワがコランの為に用意する料理は野菜を中心にして、魚類や肉類は出さない。それは、コランが魚類や肉類を食べると体調を崩してしまうからだった。

 この時代ではまだ学名が名付けられていないのだが、コランはアレルギーを持っていた。アレルギーについての記述で最も古いものは、紀元前27世紀のエジプト、メネス王が蜂に刺されて死亡したという記録だ。

 学術的に認知されていないだけで、アレルギーは太古から存在している。

 だが、認知されていなければ配慮されることもない。

 なので、体質のことを把握しているコラン自身が、予防として勧められる魚料理や肉料理を断るしかなかった。

 これだけならば、保護者となる大人が彼の不調に気付けるだろう。

 だが、保護者となる大人にも問題があった。

 二つ目の原因は、彼のそばにレディしか居なかったこと。

 勿論、レディはコランに料理を勧めていた。人間は食べなければ死ぬことを知っているし、コランに沢山のことを経験させたかったから。

 しかし、呪いの影響によりレディは食べなくても生きられる。感覚的に空腹や飢餓感を理解できない。

 外遊時にレストランに連れまわしたのも、どれだけ食べれば満足するのか理解できないからだった。

 コランが食べるのを拒否しても、『まあそういうものか』と思うだけで、それが異常だと思えない。

 また、レディは体調を崩すことがない。他人の体調変化にも疎い。

 コランが努めて平気を装っているのもあって、レディはコランの不調に気付いていなかった。

 今レディは現地で待機させていた協力者と合流してくると言って、町に出かけていた。

 部屋にはコラン一人だけ。


「ぁ、あぁ……」


 ガクッと身体が重くなるのを感じる。

 コランは寝返りを打つのも億劫で、汚れた天井をぼうっと眺める。

 けれど、喉がカラカラだった。息が荒い。


「み、水」


 部屋に用意されていた瓶入りの水がある。部屋の窓辺に設置されたテーブルの上だ。

 ベッドから立ち上がろうとするが、力が出ないから腕を上げるので精一杯。仕方なく腕を振った勢いで横に寝返りを打つ。


「う、んっ」


 空腹を数日我慢するだけで、身体がこんなに弱るなんて思いもしなかった。

 自分が冒険小説で読んだ主人公は強くて、飲まず食わずでもっと長い日数生きていたと思い出した。コランはそれが現実ではないことを知った。


 ――人間って、こんな風になるんだ……。

 ――結構、弱いんだなぁ……。


 思考は冷静だが、それは自分の状態に理解が追いついていないだけ。

 横を向いた状態でいると多少楽になって、不調について考える余裕も生まれた。


 ――とにかく、お腹が空いた。

 ――何か食べたい。オレンジ、オレンジがいい。喉が渇いたんだ。

 ――しんどい。視界がかすむ。

 ――どうなってしまうんだろう? 


 末端の震えのせいか、急に強い不安に苛まれる。

 コランにとって未知の土地で、経験したことのない身体の不調に襲われている。

 自分がどうなるかもわからずに、ずっと一緒に居たトワが居ない喪失感も加わって。

 今、コランの存在する場に、どこにも安心がない。

 レディは戻って来るだろう。だが、いつ戻るかわからない。

 戻ったとして、この状態を見て助けてくれるだろうか。そもそも、食事を必要としない彼女に助けられるのだろうか。


 ――……助けようとはしてくれる。彼女は僕を死なせたい訳じゃない。

 ――でも、レディは人体のことにだ。


 窓から届く人の声が小さくなり、波の音が大きくなる。

 心臓の音がうるさい。

 この潮臭くて埃っぽい部屋に閉じ込められて、コランはこの世界で孤独なんだと怖さを感じた。

 そんな不安の中で、助けを求めて思い出すのはたった一人。


 ――トワ……


 どれだけ自分がトワに助けられていたのか。

 レディに連れられて外の世界を視て回った今なら、自分がどれだけ狭い世界で、トワに過保護なほど守られていたのか理解できた。

 自分は『黄金の国』と同じだ、とコランは想った。

 確かに存在しているのに、誰かが見付けなければこの世界に存在しているかどうかも怪しい。

 トワと一緒に居た頃は外の世界から見れば自分は存在しないも同然。今も、レディという唯一の繋がりを失くせば、すぐに虚無に消えてしまう泡のように危うい存在だ。


 ――ここで死んだら、一体誰が僕の名前を呼んでくれるんだろう……


 急に、誰かに聞こえるよう自分の名を叫びたくなった。

 部屋の外や窓の外に向けてここに居ると伝えたいのか、トワが来てくれると思っているのか。理由すらもわからない。

 だが、この欲求を止められなかった。

 緩慢な動きで、元の仰向けの体勢に戻った。


「……っ、……ぅ」


 コランは口を開いて言葉を発しようとするが、喉が渇いて声が掠れた。

 もう身体を動かす力も出ない。


 ――トワ……レディ……誰か、助けて……


 コランのまぶたが落ち、意識が遠のく。

 彼の耳に部屋のドアが開く音が届いた。

 誰かがコランの顔を覗き込む。その人物はそばに居る白い人影に指示を出してから、慌てて部屋の外に駆け出す。

 意識のないコランを抱きかかえ、白い手袋を付けた人物がコランの唇に湿らせたハンカチを押し当てる。

 不安で手先が震え、強く押し当てるような感じだった。

 だが、そのおかげか。ハンカチの水分が絞り出され、コランの口に待ち望んだ水が運ばれたのだ。

 コランの子供の喉がコクコクと鳴る。

 少しだけ意識の戻ったコランが、ゆっくりとまぶたを開ける。

 それに気付いた白い服の人物――レディがぎゅっとコランを抱きしめた。


「しっかり、しっかりして。お願い、死なないで。もう一人にしないで……」


 彼女の身体は恐怖に震えている。

 また朦朧としてきた意識の中で、コランはレディについて理解したことがあった。

 

 ――この人は、世界でたった一人になるのが怖いんだ。


 レディの冷たい体温の奥にある温かさを感じながら、コランはまぶたを閉じた。

 レディも自分と同じ。あやふやで不確かな存在。

 だから、コランは彼女の感じる恐怖が心からわかる。

 心地よい感覚に包まれて、まだ子供のコランは外の世界で初めて安心した。

 夢見心地の中、もうトワに助けは求めていなかった。




昼 港町のとある集会所


 管理する人間が居なくなった廃墟同然の集会所に何年ぶりかの訪問者があった。

 一人ではない。かと言って、集団でもない。

 時間をずらして一人、また一人と必ず個人で集会所の敷地に入り、潮で変色した木製ドアをくぐる。

 朽ちかけたドアが繰り返しの開閉に耐えきれず、十五人を越えたあたりでバキッと音を立てて外れた。潮風で金具が錆び付いていたのだ。

 訪問者たちは男女問わず、二十代前から三十代前半までの若者たちばかり。皆緊張で強張った表情をしていた。

 集まった若者が二十三人を越えて、最後の若者が同伴者と集会所にやってきた。

 一番最後に来た女性は同伴者の老婆に手を貸して、老婆がこけないよう気を遣ってゆっくりと歩いた。ドアが壊れて無くなった入り口でも、ちょっとした段差に気を付けるよう老婆に進言した。

 白髪を油で整えている老婆は老いて目も見えずらく、口元もずっと何かをしがんでいるようで、女性に握られていない手がずっと震えていた。それでも、足だけはしっかりと大地を踏んで集会所の奥に進んでいった。

 女性に連れられた老婆が広い部屋に出る。

 その部屋に居た二十三人の若者たちが一斉に老婆を見た。


「待ってた」


 誰かがそう呟いた。

 同伴者の女性に手を引かれて、部屋の中央にある椅子に案内された老婆。

 もう一人補助について、老婆を椅子に深く座らせた。

 同伴者の女性が老婆の肩を叩き、耳元で喋る。


「カテリナ婆ちゃん、着いたよ」

「……ぅぁ」


 老婆――かつて、サンドラの出産時に助産師を務めた女がその声に反応して、若者たちを眺めまわす。

 その場の全員が老婆の言葉を待っていた。

 視線の中心に居る老婆のまぶたは薄く開かれていたが、カッと大きく開かれた。

 その瞳は白く混濁し、憎しみの炎を宿していた。


「……ヤニスは死んだ。皆死んだ。殺された。あたしは……今でも、こんなことは間違ってると思う。……血なんて、流れてほしくない」


 老婆の演説はそう始まった。


「けれど、もう、十年以上前に同胞の血を支払わされた。

 あの、レディ・オブ・ザ・ランドの島から出てきたモノに。

 町の為、お前たちの子の世代の為。年寄りの誰かが引き継いで、伝えていかなくちゃいけない。あの島について。

 島は害だ。呪いだ。

 ここに居るお前たちは、皆それを知っている。十年前のあの時、ここに居た者や死んでいった者の孫だから」


 二十四人の若者たちが歯を噛みしめる。

 彼らの表情は当時の苦しみを思い出して、激情に歪んでいた。

 視界がぼやける老婆が言葉を続ける。


「あたしは、あの島を、島の呪いを、許さない。 

 同胞を。友を。家族を。十年前、島から出てきたモノに奪われた。

 ……本当はもっと前から」


 老婆が首を横に振る。

 彼女は島と港町の本当の関係を知っていた。ヤニスたちが何を危惧していたのか、何と決着をつけたかったのかを知っていた。

 当時、若者たちもその気配を感じていたが、具体的な内容をあえて知ろうとしなかった。老人たちがそれを望まなかったから。

 だが、現在は違う。

 若者たちが立ち上がったのだ。

 老婆は港町と島の関係を明言する。


「ヤニスたちが死ぬ前から、あたしたちはあの島に犠牲を払い続けたんだ。

 島の怪物。その伝承を恐れて、どれだけ食い物が厳しくても、仕事が無くなっても、あの島の海に近付けなかった。

 ……飢餓があった。空が割れるような光で大火災が起きたこともあった。大地が壊れそうな揺れもあった。

 だけど、あの島の海には近付かなかった。恐ろしいから。

 そのせいで、町の人間は今まで沢山の犠牲を払った。

 ヤニスたちはそれを変えたかったんだ。この町で生きるお前たちが、苦労しないように。

 そして、ヤニスたちも犠牲になった」

「……悔しい!」


 誰かがそう叫んだ。

 その声はその場に集まった若者たち全員の真意を表していた。

 遠い筈の耳でその言葉を聞いた老婆の、手の震えが止まった。

 彼女はしっかりと椅子のひじ掛けを掴み、前屈みとなり、脚に力を込める。一連の動作は緩慢だが、よどみなく滑らかだ。

 立ち上がる気だ。そう気付いた同伴者の女性が慌てて手を貸そうと近寄るが、老婆はそれを制するように気を吐く。


「あたしたちの番が来たんだ」


 語気強い老婆の声に、部屋中の空気が冴える。

 過去に決着を付けたいと望む若者たちの前で、老婆はゆっくりと自分一人で立ち上がってみせた。


「あの島のせいで二度と犠牲を生まない為に、次の子らに犠牲を強いない為に。

 あたしたちはあの島と戦うんだ。


 老婆の決意表明に、ダンッダンッと若者たちが足を踏み鳴らして同意を伝える。

 老婆がその震えを身体で感じ取る。

 腰が曲がっていようが、白濁した眼と皺だらけの顔をしていようが。今や彼女は集会所に来るときの老いを感じさせない、精力みなぎる雰囲気があった。

 まさにこの瞬間、老婆は島にまつわる理不尽に憤る若者たちを先導する指導者となったのだ。



 湧く集団の中から、島に関する報告が上がる。


「今日、島に行く為の船が欲しいって聞いてきた男が居ました! 俺らと同じ訛りで、傍に仮面の女も居て!」


 これを皮切りに次々と自分たちの知る情報が思いおもいに発されて、全体に共有されていく。

 元々この集会は、レディたちが町に現れたことで決まったのだ。

 十年前と同じように島へ行こうとしている者が居ると、カテリナの下に報告が届き、かつての悲劇を繰り返すまいと、彼女はヤニスと同じ道を進む覚悟を固めた。

 集まった若者はかつての犠牲者たちの親族や関係者。当時、運よく参加していなかった者たち。

 同胞を失う苦さを知る彼らは以前から、島の災いから町を守る為に戦う意志を宿していた。

 熱意ある彼らは、現状の脅威が何かを確かめる為、勝手に情報共有を始めた。小さな港町だから似た情報がいくつも上がり、次第にその確度を増していった。


「女の方を知ってる! ちょっと前に子供連れで宿に泊まったぞ!」

「子供の方は気分が悪そうだった。親子じゃないみたい」

「男と女の関係は? 男は何者だ?」

「それが、顔に傷があるのか包帯で隠してたんだ」


 彼らは一体となって、港町に現れたレディたちの情報を確かなものにしていく。

 今度こそ島の呪いに打ち克つ為、準備を余念なく整える。


 老婆はしばらく沈黙し、飛び交う情報を聞いていた。

 そして、「皆」と声を上げた。

 騒がしいぐらいに喋っていた若者たちが老婆の一言でしんと静まり返った。


「島に近付かせるな。そいつらは災い、呪いそのもの。

 また町に悲劇を生む。特に

 絶対に島へ行かせるんじゃない。血を流すことになってでも!」


「血を流すことになってでも!」


 若者たちが議論を再開する。

 血気盛んな若者たちに為すべきことを伝え終えた老婆は、力が抜けたみたいに椅子に座った。同伴者の女性がさっと老婆の背に手を当てて、倒れないよう支えた。

 疲れ切った表情の老婆は荒い呼吸をしている。


「はあ……はあ……。いやだねぇ……年食ったら、立ってられないよ……」

「でも、立派だったよ。カテリナ婆ちゃん。きっと、お爺ちゃんも喜んでる。『カテリーナが継いでくれた』って」


 労いの言葉をかけてくれる女性の方を見て、老婆はそっと女性の頭を撫でた。


「ヤニスは……そういうの下手だったよ。ベローナ、後は任せるよ。あたしゃ疲れたよ……」

「うん。皆に武器を渡す。大丈夫、若い私たちだって、このときに備えてたんだから」



 ベローナが立ちあがり、身体が冷えないよう自分の羽織っていた大きいスカーフを老婆に掛けた。

 ベローナは若者たちの方を向き、声を上げた。


「皆、武器はここにある! 裏の庭に埋めてる! 十年前には揃えられなかったけど、今は違う。このときの為に私たちは準備してた。絶対に町を、皆を守ろう!」

「おお!」


 ベローナから武器を埋めてある場所を聞いた何人かが集会所の裏に向かった。掘り出す為の道具を取りに、自主的に家へ戻ったグループもあった。

 レディたちの泊まる宿へ監視に行った者たちも居て、着実に島へ向かわせない包囲網が町の内部に構築されていく。


 カテリナの代理であるベローナが細かく指示を出さずとも、二十四人の若者たちの連携度は高かった。

 その理由は、彼らが古なじみで互いのことを熟知しているだけでなく、同じ意識を共有している仲間だからだ。

 子供の頃からこの港町で育った同胞であるという意識と呪いから故郷を守りたいという決意。

 そして、過去の辛い記憶と呪いへの憎しみ。


 固い絆で結ばれた彼らが、島へ行こうとするレディ一行に牙を剥こうと動き出す。

 誰の血を流してでも構わないと言う、黒い使命感に燃えていた。




 ―――――――


 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

 次回はこの続きを更新します。お待ちください。


 好評価等、よろしくお願いします。

 

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