第19話 エチュード

 私は、比較的裕福な家庭に生まれたと思います。

 父は連邦捜査局員、母は税理士。

 収入は十分ありましたから、着替える服に困ったことはありませ。

 冬の夜に寝そべる地面はどれくらい冷たいんでしょう。飢えを凌ぐために生ゴミを漁るのはどれくらい惨めなんでしょう。腐ったジャガイモを食べて、お腹を壊すのはどれほど苦しいのでしょう。

 おおよそこの世界にある苦痛や過去さといったものを経験しておらず、そのことに最近まで気づかないでいました。

 当然のようにその環境を享受していた私が、この学園に入ったことで痛感しました。自分は随分と甘やかされて育ってきた、と。

 当然のように努力を欠かさない生徒たち、脱帽するようなレベルの高い授業、頭が痛くなるような参考書。それらを当然のようにやりこなすのですから、異世界に来たのではないかと感じました。

 けれども、周囲の人たちはこれが普通だと言わんばかりで、私は、ここに入学して大慌てで積んでいるような努力を高校生になるまで何一つやったことがありませんでした。

 アリアくんのように体が丈夫じゃなかったわけでもありません。エンマさんのように両親からあれしなさいこれしなさいと言われた記憶もありません。

 両親は自由に私を育ててくれましたから、相当にやんちゃした覚えがあります。子供の頃はそれはもう遊んでばかりでした。アリアくんは自分の体について悩んで、エンマさんが勉強机に向かっていただろう日も。

「……あぁ」

 舞台の上でエンマさんとアリアくんが一緒に演奏しています。その光景を見て、ふと「お似合いだな」と思いました。

 そんなふうに自覚して私はなぜだか無性に悲しくなってきます。二人はきちんと肩を並べることができて、同じ壇上に立てて、それなのに私は何一つ積み上げることができませんでした。ふと思うのです。本当は、今の私の立ち位置にエンマさんがいるべきではなかったのか。

 頭にちらつきます。あの時、何も言わなければ二人はどうなっていただろうか。そんな妄想のような思いがちらつくのです。

 きっと……上手くいっていたでしょう。最初こそアリアくんは戸惑ったでしょうが、きっとお互いのことを知るにつれて分かり合えて、仲良くなれたはずです。アリアくんは優しいし、エンマさんも頼り甲斐があります。きっとお似合いの二人。神様のお導きによって結ばれるはずでした。

 それなのに、私はあの時、声を出してしまった。出さずにはいられなかった。

 何故かは正直わかりません。気づいた時には声が出てて、引っ込みがつかなくなりました。アリアくんも訂正しようとしましたが、賠償責任になるとエンマさんに言われて、私を庇うために私がついた嘘に乗ってくれたのです。結局、どこまでいっても私はアリアくんに迷惑しかかけていません。

 あの時だって、来ちゃいけないと言われてたのに、心配で追いかけてしまって、そのせいでアリアくんは市警の人が来た瞬間に倒れました。

 ずっと無理をして、近くにいた私と、私を庇いにきたフリーダを助けるためにアリアくんは無理をした。結果として、アリアくんは倒れ、病院に運ばれた。

 私が余計なことをしなければ、今までの面倒ごとはなかったはず。レイス事件も、コカトリス事件も、ワイバーン事件だって、私が余計なことをして事あるごとにアリアくんに迷惑をかけて……何かをしてあげられた試しなんて、無いのかもしれません。

 法律もわかりません。魔術の知識もそこまでで、勉強はずっとアリアくんに教えてもらいっぱなしです。彼が倒れた時だって、どうにかできたのはエンマさんで、私はその場にうずくまっているだけでした。

 力なく、無力に、何の才能もなく、努力もしてこなかった。

 だから、二人に置いていかれ、アリアくんの婚約者という肩書きを背負っておきながら、観客席で見ているばかりです。

「……すっ、すっすっ」

 いけない。泣いちゃいけないのに……二人の演奏を聞かなきゃいけないのに……

 なのに、聞きたくない。2人が仲良く演奏しているのを、聞きたくない。

(どうして……)

 どうして……? そう、どうして私は悲しんでるの? 分からない。なんでかわからないけど、涙が止まらない。

 理解できない悲しみが、黒いモヤのようなものが胸の奥で消えてくれない。自分が何に悲しんでいるのか、どうして泣いているのかがわからない。

 それでも、曲が長くて助かりました。涙を拭って、赤くなったであろう頬に手を当てて、冷ましている頃に二人が帰ってきます。

「おかえり、二人とも」

 いつもの調子で、声をかけました。気取られないだけの準備ができましたから。

 きっとこの気持ちは抱えてはいけません。だから、私はこの思いにさっと蓋をします。


 ◇


 壇上に出る。いつまでも弱音を吐いているわけにはいかない。皆様の前に立つんですから、堂々たる姿を見せなくては。

 手を振ってくれる学友に振り返す。ワイバーンが私のクラスに突っ込んできたおかげでリハーサルも有耶無耶になってしまいましたから、一体誰と演奏することになるんだろうと不安でしたが……アリアさんということであれば、何も心配入らなそうですわね。

 先生が前置きをされる。その間に、私は係の人に促され、椅子に座りチェロを受け取った。フルサイズの、随分と年季の入った代物。楽器は学園の方で準備されると言われ、そちらの方も心配でしたが、丁寧に扱われているようで安心しましたわ。

 先生の前説が終わると、演奏の前に音の調子を確かめます。本当はこれも事前にやっておきたかったのですが、仕方ありません。そもそもあんな事件があった後にこんな集会を開けていること自体が奇跡なのですから、何事も臨機応変にいかなくては。

 アリアさんは一音も弾くことなく、私が弦の調子を確認するのを見届けると、お互いに視線を合わせます。本当に、ぶっつけ本番。楽譜の指定はされているけれど、最低でもリハーサル一回はしておきたかった。無い物ねだりというのはわかっているけれど、自分の専門外の楽器と協調して調和を確立するのは、他の人が思っているより難しい。これがコンクールなら三ヶ月前から合わせるし、そうでなくとも二回は合わせておきたいところ。それを、ぶっつけ本番でやれというのだから学園側もどうかしてます。

 いけない。こんなことを考えている場合ではなかった。今は目の前の演奏に集中する。折角アリアさんとのデュエットなんですから、精一杯楽しまなくては。

 観客の息遣いに合わせて、確かな調子でアリアさんがピアノの音色をホールに入れる。この人……魔術の才能もさることながら、音才もあったのですね。知りませんでした。

 アリアさんが演奏を開始して、二小節後にチェロで演奏に参加する。

 綺麗な音色、一緒に弾いていて心地いいぐらいですわ。流石、賞を取るだけのことはある。これなら金賞を取っていてもおかしくはない。

 お互いに、チェロとピアノで掛け合っていく。

 気持ちがいい……以前に一度だけ他の人とデュエットしたことはありましたが、その時はもう散々で。テンポは合わないは変にアレンジ入れるわで大変でした。今回は成功しそう。

 本来なら五分かかるカノン、それを今回は四分で演奏する。中途半端に演奏するぐらいなら別の曲を弾かせればよいものの……まあ、チェロとピアノで弾ける曲の中で、比較的合わせやすいものを選べと言われたら私も困るのですが。学園側も余裕のない中でこの式を敢行したというわけですか。

 互いに音を乗せあっていく。気持ちが昂り、自分の演奏に表れているのがわかる。パッヘルベルのカノンはそこまで難しい曲ではないですが、自分の全てを出し切れるような感覚。表現力を一番正直に求められるからこそ、気持ちを乗せられるのが快い。

 優しげなピアノの音色……なんて繊細なんでしょうか。こんな音色を出せるなんて、惚れ直した気分ですわ。元来、人を能力で見ることはあまりしないのですが、この方だけは例外でしょう。彼の持つ全てがなぜだか輝いて見えます。

 終わりに差し掛かり、段階的に音を減らしていく。私が終わりの雰囲気を演奏に醸し出させると、それをさりげなくアリアさんのピアノが支えてくれる。

 最後の一音を鳴り響かせると、会場から拍手が巻き上がる。どうです、見たでしょう。これがアリアさんの実力です。見直したでしょう、そうでしょう。

 誇らしい気持ちになりながら舞台袖に退場する。最初にステージを踏んだ時の気持ち悪さが嘘のようだ。これならもっと楽しみにしておいても良かったかもしれない。

「次の出番は何番目ですの?」

「四番目、これが終わったらすぐだ」

 四番目……確か、三番目までが音楽関係の表彰だから、その後といえば魔術の表彰……一番目ですの? 流石、アリアさんですわ!

「それじゃあ、行ってくる」

「行ってらっしゃい」

 若干きつそうにしながら、凛々しいお顔で壇上に立たれるアリアさん。なんてかっこいいんでしょう。もう、惚れちゃいそうです。求婚してますが。

 〈大天級〉の学位授与という栄誉。それなのにも関わらず、アリアさんは特に興味なさげにステージを後にすると、座席に帰ろうといいます。

「もう少し見せびらかしても良かったんじゃありませんの?」

「はは、別にいいよ」

 私なら諸手に掲げて自慢しまわるところですのに、まるで演奏の方が重要だったみたいに。謙虚なんでしょうか。

 それから、私たちはレティシアさんと合流し、二人でアリアさんを保健室まで送った後、レティシアさんと一緒に式に戻ることになった。

「エンマさんも……すごいよね」

「当然ですわ! 両親からの結婚条件を満たさないように必死でしたもの!」

 あくまで魔術の能力が優れた男性という条件で、音楽に関しては一切関係はないですが、こうなればあらゆる面で一番になって私に言い寄ってくる男の鼻っ柱を折ってやろうと思っていました。今となっては要らぬ努力でしたが……結果としてアリアさんと演奏できましたし、よしとしましょう。

「私、そういうの全然なくて……」

「無いといけないんですの?」

「え?」

「目に見えるものだけが全てではありません。人間の価値は目に見えるものと同じくらい、目に見えないものによって定められます」

「目に見えないもの……」

「いわゆる内面、人間性というやつですわ。レティシアさんにはそれがあると思っているのですが」

「ほんとかな?」

「少なくとも、私はそう思っていますわ」

「……そうだと、いいな」

 レティシアさんは少し痛々しいような笑顔を浮かべて、そう言いました。

「放課後、迎えに行かなくちゃね」

「そうですわね。式が終わったらすぐに向かいましょうか」

「私はいいよ。今日はエンマさんの番でしょ?」

「ですが……」

「いいの」

 そう言って、彼女は先に行ってしまう。

「ちゃんと、アリアくんの面倒見るんだよー!」

「……分かりましたわ!」

 私が返事すると、一足先にレティシアさんはホールの方へと向かっていった。


 ◇


「はぁ……」

 保健室に帰ってきて、またベッドに横になる。帰るわけにもいかないから、エンマやレティシアたちは式に戻り、俺一人七時限目が終わるまで休むことになった。

 ずっと頭痛がする。いつものことか。

 でも、頭を打ったせいかもしれない。傷が痛む。こんな苦痛、今までずっとなれていたはずなのに、妙に気持ちが悪い。

「よう」

「……どこから入ってきてんですか」

「細けえことはいいだろ」

「……」

 グウェナエルさんが保健室の窓から入ってくる。エステル先生はそのことに気づいていない。

「それで? 話って?」

 あの時、電磁場操作でグウェナエルさんに伝えた。レティシア達にバレないよう秘匿した上で、可視光域を外れた電波でのメッセージ。連邦魔術局の人ならすぐに気づいてくれると思ったが、伝わったようで良かった。

「すいません、実はそんなに重要なことでもないんですが」

「重要じゃないことで俺に時間を取らせたのか?」

「う……」

「……冗談だよ。さっさと言え」

 貴方の冗談は冗談に聞こえないんですよ……主に気迫のせいで。というか、聴取で絞り上げた俺にそんなジョーク言わないでください。

「実際はレティシア達の前で言いたくなかっただけなので、単なる思いつき程度なんですが……」

「いいから、言え」

「……俺が4ーDで屋外授業を受けている時に、コカトリス達に襲われたことは知ってますよね?」

「もちろんだ」

「もし、犯人がそのことを知っていた場合、ワイバーンは意図的に4ーBに誘導された可能性があります」

「……」

 俺の意図を汲もうと考えているグウェナエルさんに言葉を重ねる。

「俺は、少なくともバジリスクとコカトリス二体を単独で撃破できる程度の実力があることは校内のほとんどの人が認知しているはずです。ワイバーンの檻の砲術に細工できるような人間なら、まずその話を聞かないわけがないでしょう。ワイバーンが現れた時、真っ先に俺が現れることも予想できたはずです。それなのに、ワイバーンは俺のいるクラスに近い4ーBに現れた。最悪の場合、ワイバーンが俺によって撃破されることも想定に入れるべきでした」

「それなのに、ワイバーンは4ーBを襲った」

「仮に学園校舎ないしは生徒に被害を与えるのが目的なら、俺の足止めをするなり下校した後を狙うなり、やりようはいくらでもあったはずです。それなのに、わざわざ昼前の、確実に俺がいるであろう時間帯に放って、挙句略奪婚約関係にあるエンマ・ヴェンナコスキのいるクラスにワイバーンは突っ込んだ。仮に4ーBにワイバーンが誘導されていたとしたら、明らかに俺を狙った犯行です」

「……犯人に心当たりはあるか?」

「特には……反感は買っていると思いますから、俺を嫌っている生徒が非行に走った結果の犯行と考えれば辻褄は合いますが……」

「……それにしては、手際が良すぎるな」

「はい。どうにか、俺周辺の人物について探ることはできませんか? おそらく、犯人は内部関係者だと思います」

「理由は?」

「ワイバーンが理由もなく俺の魔力を忘れたとは思えません。確実に何らかしらの手段でワイバーンを興奮状態にしたはずですが、あからさまな装置なら毎日手入れしている生物科の奴らが気づくはずです。だとすれば、その場で何からの手段を施したか……ワイバーンが暴れ出せば当然注目を集めるでしょうから、渦中の魔獣小屋から抜け出しても違和感のない人物……考えたくはありませんが、生徒や先生なんかが適当でしょう」

 グウェナエルさんはしばらく考え込んでいた。

「わかった。ありがとな、坊主」

「いえいえ。魔術局の人に素人の推理紛いを効かせるのは心苦しかったんですが……」

「なんでもいいから言えと言ったのは俺の方だ。こっちで色々調べてみる。お前の近辺にも警護をつけるから安心しろ」

「ありがとうございます。できれば、エンマやレティシアにも」

「わかった。……プライベートの事については口出ししないよう言っておくから、安心して婚約者とイチャイチャしていいぞ」

「あはは……ありがとうございます」

 颯爽とグウェナエルさんは去っていく。

 よくよく考えたら、俺とレティシアが婚約してるってことが連邦魔術取締局の公文書に記載されてるんだよな……

「……既成事実が!」

 痛む頭をさらに抱えることになった。


 ◇


 無難に式が終わり、私は一人で保健室に向かう。扉を開けると、カーテンに見切れて、彼が起きているのが見えた。

「失礼します」

「ああ、ヴェンナコスキさん」

「アリアさんを迎えに参りました」

「そうなの? ありがとう、ちょうど困ってたのよ。帰り道は誰が付き添うかって」

 エステル先生がカーテンを開ける。

「アリアくん、エンマさんが迎えにきてくれたわよ」

「ああ、エンマ。ありがとう」

「いえ、当然のことですわ」

 貴方の力になれるのなら、このエンマ・ヴェンナコスキ、どこに立って参りましょう!

「それじゃあ、一度荷物を取りに教室に──」

「もう持ってきていますわ」

 彼に手に持っていた鞄を見せる。随分と重い。いつもこんなものを持ち歩いているのか。

「お、ありがとう。気がきくな」

 アリアさんが私の手にある鞄を取ろうとして、私の方が手を引っ込める。彼はすぐに私の方を見つめた。

「アリアさんは病人なんですから、荷物ぐらい私が持ちます」

「別に──」

「アリアくん?」

 彼がごねようとして、エステル先生がすぐに声をかける。威圧感のある笑み、ちょっと怖い。

「エンマさんに持ってもらいなさい?」

「はい……」

「よろしい。それじゃあすぐに帰って、ベッドで休みなさい? くれぐれも、勉強とかしちゃいけないからね」

「……読む程度なら」

「貴方、それで毎回集中しちゃうんでしょう?」

「……分かりました」

 すごい。あのアリアさんを完全に嗜めてる。流石は養護教諭、保健室では無敵と言ったところですか。

「小説読むだけとかにしておきなさい。あんまり根を入れて集中するのはダメ」

「はい……」

「それでは、失礼します」

「はい、気をつけて」

「エステル先生、さようなら」

 二人きりで帰路に着く。

「なあ、ちょっとだけ寄り道とか」

「ダメですわ」

「……そうか」

「今日は大人しく家に帰ることですわね」

「分かったよ」

 少しだけ膨れているような……いじけている姿も可愛いですわね。

「ご自宅はどちらに?」

「ヴェルリアの郊外さ。徒歩で少しかかるから、我慢してくれ」

「どんなところなんでしょう」

「緑と川が綺麗な、いいところだよ」

「それは楽しみですわね」

 正門を出て、ティルティア学園に別れを告げると、そのままヴェルリアストリートをしばらく進んで、途中で横道に逸れる。墓地の場所を通り過ぎて、住宅地に入るといつものヴェルリアの風景が一変した。

「……こんなところがあったんですわね」

「都会の中心地にいたら、まず見られない風景だろ?」

「ええ、本当に……」

 閑静な住宅街、左を向けばせせらぎを響かせる小川が、右を向けば虫の音響かせる森林が、目を凝らせばどこに至って多少の自然風景が垣間見える。ヴェルリアは開発都市と聞いていたから、田舎然とした風景が残っていることはそこまで不思議ではないが、まさかここまでとは。おそらくは数十年前まであったのであろう街並みがそのまま残されている。

「ここら辺も近代化で多少改修はされてるけど、ほとんどは開発が始まる前の原風景のまま。むしろ、このぐらいの街並みで中心街と言われるぐらいだったんだ」

「よくご存知ですわね……」

「まあね」

 しばらく道なりに進む。いくらかして、角を曲がり、また少しすると一軒の木造家屋が見えてきた。

「ここだよ」

「素敵なところですわね」

「……上がってく?」

「え」

「どうせ勉強もできないし、暇だから。話し相手ぐらいになってよ」

「……」

 婚約者であるレティシアさんを差し置いてアリアさんの家に上がるのは……いえ、もともと略奪しようというのが私の立場! ハイエナと言われても、目的達成のために動かなくては。

「それじゃあ、お邪魔させていただきますわね」

「ああ、ゆっくりしていってくれ」

 アリアさんが扉を開ける。家に帰っても、誰も返事はしなかった。

「……家の人は?」

「レイラさんっていう人がいるけど、あの人は夜遅くまで仕事してるから」

「静かですわね」

「慣れたよ」

 当然のようにアリアさんは二階につながる階段を上がる。

「そこがトイレ、二階に俺の部屋がある。来て」

「……」

 私は、恥ずかしいことに興味津々で辺りを見回していました。アリアさんがどんな場所に住んでいるのか、興味があったのです。

「わっ」

 連れられるままアリアさんの部屋に入ると、どういうわけか大きな鷹が部屋の窓に止まっていました。

「来てたのか」

「アリアさんが飼ってますの?」

「いや、勝手に来るんだ」

 これまた慣れた様子で、鷹の顔元を指で撫でる。気持ちよさそうに鷹は身震いをしていた。

「……ピアノ、あるんですのね」

「ああ、両親が買ってくれたんだ」

「触ってみても?」

「もちろん」

 使い古された鍵盤の蓋を開ける。

「幼い頃はピアノも習っていたんですけれど、私はどうも苦手で……だから、チェロを習い始めたんですわ」

「いい演奏だったよ」

「ありがとうございます」

 鍵盤に目線を落とし、ふと考えついた。

「……ねえ、アリアさん?」

「ん、なんだ?」

 バサリと鷹が空へと帰っていく。私は、その背中を少し目で追って──

「何か一曲、弾いてくださらない?」

「……集中しちゃいけないんじゃ?」

「少し弾いてくれるだけでいいんですの。貴方がどんな曲が好きなのか、知りたくて」

 私がそういうと、アリアさんは少し困ったような顔をして、それでも私の代わりにピアノの前に座ってくださいました。

「俺の好きな曲だよね」

「はい」

 そのように確認すると二人きりの部屋に沈黙が降りかかります。少しだけ考えて、何を弾くのか決めると、ゆっくりと鍵盤に手を下ろされました。精神統一、私も演奏前にはよくやります。

 静謐な鍵盤から、美しい音色が鳴り響く。特徴的な二つのコードから始まるそれは、リスト作、ラ・カンパネラ。

 不可思議なメロディが奏でられる。どこか楽しげで、子供たちの喧騒を感じさせるような音色。ラ・カンパネラは『鐘』を意味する。私は昼と夜の鐘の音を表しているのだと解釈しています。

 やはり、アリアさんのレベルは高い。コンクールで入賞したとしても何の違和感もないほどに。

 曲が中盤に差し掛かると、少し怪しげな音色が加わる。危険を感じさせるような、切羽詰まったメロディの連なり。俗に螺旋階段なんて呼ばれるような連続したノーツを華麗に捌き切っています。

(あれ……?)

 曲調が変わる。それ自体は何の不思議もない。ラ・カンパネラの標準的な進行だ。けれど……

(少し……いえ、かなり難しくない……?)

 高音域での連音が続く。つまり、右手だけで無限に続くようなノーツを捌ききらないといけないということ。ここに苦心するピアニストは多いはずだけれど、なぜだかアリアさんは当然のようにそれを弾きこなしている。高校生にしては少し不釣り合い……

 さらに左手での特徴的なフレーズが加わる。この曲を代表するようなメロディ。それを、嵐のように続く連音を右手で弾きこなしながら、左手で攫っていく。

 もう一度、怪しげな曲調に戻ると、今度は縦横無尽に鍵盤の上を左右の手が駆け巡る。

 曲が最終盤に入った。

 左右の手を、まるで反復横跳びのように動かしながらメロディを奏でる。それがどれほど難易度が高い行いかぐらい、かじりの私でも分かった。

「……」

「……どうかな」

「いや、凄かったですわ、本当に……」

「ありがと」

 声をかけられるまで、息をするのを忘れていたぐらいには集中していた。聞かせる魔力……とでもいうのだろうか。とにかく、銀賞が伊達ではないと感じさせられた時間だった。

(こんな人と私は共演していたのですね……)

 演奏技術のレベルの高さ。自信がないわけではないけれど、自分も同じくらいの芸当ができるかと聞かれれば、少し答え損ねてしまう。同じ演奏家として対抗心を燃やしてしまいそうになった。

 たとえ、自分が弾いているのがチェロであったとしても、今の音色を聞いて心を折られない同年代の演奏家がどれだけいるのだろうか。

「もう一つ、いいかな」

「まだあるんですの?」

「ごめん……」

「いえいえ、責めているのではなく!」

「……これはそもそもの話、練習曲の一つなんだが、固有の名称が存在しないんだ」

「『無題』というわけですか」

「そういうこと。だから、一部の間ではこう呼ばれてるよ」

 アリアさんがもう一度、鍵盤に手をかける。

「エチュード10−4、と」

「……っ!」

 早すぎる開幕、テンポもリズムも何もかもがハイテンポ。機械の如き正確さで、右手と左手が鍵盤を奏でていく。それを聞いて、聞かされて、私は直感的に感じ取った。知覚した。理解した。

 次元が違う。仮に、アリアさんと同レベルか、少し劣る程度の人がチェロのコンクールに出ていれば、十中八九その人が優勝したに違いない。聞けばわかる。この演奏を聴いて、わからないはずがない。

 ピアノだとかチェロだとか、そういう次元の話ではない。たとえ弾いている楽器が違ったとしても、弁明のしようがない。どれだけその楽器を弾きこなしているか、その練度で言えばこれは格段に……少なくとも、私はこの世界にいて彼よりも楽器を弾きこなしている人物は思い当たらない。

 仮に彼が自分と同じ楽器をしていたとして、君は彼よりもいい演奏ができるのかという問いにYESと答えられる人間はいるのだろうか。いや、きっといる。ただし、それが許されるのはアリアさんを差し置いて金賞を取った人だけだ。

 これが銀賞? 有り得ない。どれだけ金賞の人はすごいというんだ。これが金賞でなくて、一体何を金賞とするんだ?

 駆け降りるようなエチュード。どこまでもどこまでも、あらんばかりの彼方まで駆け巡っていく。その演奏を間近で見せられて、私は自分に問いたださずにはいられなかった。

 ここまでのスピードがあるか? これに対抗しうる表現力があるか? 私がまだピアノをやっていたとして、私はこれに追いつけただろうか?

 ない、あるわけがない。楽器として一音一音の表現力に優れた弦楽器を使ってでさえ、この表現力についてこれるかと言われれば口をつぐむのに、このスピードと合わせて対抗できるかと言われれば、答えは確実にNOだ。その上、同じ土俵に立たされれば答えは明白。私は、あの壇上で同じ場所に立っただけに過ぎない。

 私と同年代の人で、チェロに興味のある人が少なかったからこそ金賞が取れたに過ぎない。そのおかげで同じ場所に立てただけで、本来はもっと相応しい人物が伴奏者として立っていたはずだった。それが、たまたま他に受賞者がいなくて、たまたま私がチェロをやっていて、たまたまが色々と重なった結果、一緒に共演できたに過ぎない。同じ場所で、同じ時間帯に、たまたまそこで演奏していただけだ。

 私は最初から、この人の隣になど来ていなかった。

 駆け降りる。駆け降りる。どこまでも、地に落ちるように。エチュードは終わりを迎えようとする。

「こっちも好きなんだ」

 嵐のようなピアノの音色の中、私に聴こえるように声を張って、今度は別の曲を引き出す。一つと言っていたが、興が乗って次の曲を弾きたくなったのだろう。最後の部分だけを繋げて、メドレーの形で次々と弾いていく。

 黒剣のエチュード、革命のエチュード、英雄ポロネーズ。全てショパンが作曲したものだ。私でも知っている。全てが高難易度の技巧曲。ピアニスト泣かせの登竜門だ。引きこなすことさえ難しい。それを、最後の方だけ繋げて、連続して弾いている。

 私はどこかで、彼と同じ場所に立つことを望んでいたのかもしれない。魔術では勝てない。あの時見せられた魔力量、ワイバーン事件の時に見せた魔術回路、魔術の知識・センス、その他諸々。あらゆるものに於いて私が勝てる部分はない。だから、認めて欲しかったのかもしれない。逃げた先にあったチェロで、せめてこれだけはと。親に言われるがまま、自分で積み上げたものなど何もない私でも、誰かに認められたかった。だから、二人に自慢しようとした結果がこれだ。

 ああ、アリアさん……貴方は何なら持ち得ないというんですか?

「……ふう」

「……素晴らしい、演奏でしたわ」

「途中ちょいちょい間違えちゃったけどな」

 子供のように笑う。結局、最後と言いつつ四曲ほど弾いていた。純粋に演奏するのが好きなんだろう。

 本当に、演奏している時は楽しそうにしていた。きっと好きでここまでやってきたんだろう。それがありありと演奏から伝わってきた。

「先生とかはいらっしゃいますの?」

「ピアノか?」

「はい」

「いないよ……独学だから、好きなやつしかやってこなくて。趣味の延長線上みたいなものだから、本当はコンクールにも出るつもりはなかったんだ。審査員の人にも演奏が独りよがりだって言われちゃったし」

「……」

「だから、好きなやつしか弾いてない。練習のための演奏はしたことがないから、好きな曲をできるまで弾いてたんだ」

「……すごいですわね」

「そんなことないよ」

「いいえ、すごいですわ……」

 もう一度、アリアさんは鍵盤に手をかける。まだ弾き足りないのか。

「……これも、名前がないんだ。本当、自分の好みで選んでるから固有名がないものも多くて大変なんだよ」

「……」

 私はそんな悩み抱えられたこともない。自分で引く曲を選んで、呼び名に困るなんて。

「だから、一部の人ではこう呼ばれてる」

 有名な曲を弾いて、課題曲を弾いて、誰でも知っているような曲を評価されるためだけに弾いていた私には、彼のような好きを突き詰めた先にあるものなど、何一つない。

 豪奢、豪快、荘厳、そんな言葉が似合うような一音から始まる。

「Quatre mains」

 四手、連弾を意味するそれを目の前でたった一人で弾くのを見せつけられる。

 忘れていた。目の前にいるのは憧れることも許されない稀代の大天才、アリア

ドルミエス・アストレアだったということを。

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