第一章「勇者覚醒」

第1話「世界は光に頼れない」

1話 - Ⅰ

 人は自らの運命を選んでいるつもりで、いつの間にか、それに選ばれている。

 呼ばれる者は理由を知らず、呼ぶ者は結果を知らない。

 星は黙したまま、人を指し示す。

 答えは与えられない。

 選ばれた後になって、ただ事実として語られるだけだ。

 そうして運命は、従う者を導き、拒むものを引きずっていく。


 ――かくして、勇者は生まれる。

 その歩みが、どこへ至るのかも知らぬままに。



     *



 スマートフォンの画面を見つめる少年の視線は、ひどく冷え切っていた。

 覗き込む者がいれば、無意識に距離を取ってしまうだろう。感情の揺らぎを拒むような、乾いた鋭さがあった。


 画面に映し出されているのは、市内某所に建つ高級マンションの一室だ。

 洒落たテーブルを囲み、四人の女性が笑顔を浮かべて言葉を交わしている。

 テーブルの上には手つかずのグラスが並び、淡い色の液体が、照明を受けて静かに揺れていた。


 一目で分かる。いわゆるママ友と呼ばれる集まりだ。

 だが、室内に漂う空気は、表面の和やかさとは裏腹に歪んでいた。

 互いの言葉尻を探るような間合いと、張り付いた緊張が、笑顔の奥に透けて見える。


 音声は、驚くほど鮮明だった。

 言葉の端に含まれた微かな棘や、笑いの裏に潜む優越感が、不自然なほど明瞭に拾い上げられている。


 まるで――

 最初から、そうしたやり取りを記録することが目的であったかのように。


『でさ、この間の自殺の件なんだけど』

『ああ……まだ言ってるの? 向こうの奥さん』

『そうなのよ。あなたの娘のいじめが原因だ、なんて。いい加減にしてほしいわ』

『でもまあ、仕方ないんじゃない? 実際、あったんでしょ?』


 一瞬、場が静まり返った。

 曖昧に頷いた女は、すぐに肩をすくめ、吐き捨てるように言った。


『私の知ったこっちゃないわよ。あの子が勝手に、自分の意志でやったことなんだから』

『大体、そういう子って、どこかズレてるじゃない? 周りに合わせる気もないっていうか』


 再び、軽い笑い声が広がった。


(――聞くに耐えないな)


 その感覚だけが、少年の胸の奥に沈殿していく。

 人の内に潜む負の側面が、露になっただけなのか。

 それとも、たまたま異常に醜いものが映っているに過ぎないのか。

 少年には、どちらとも断じきれなかった。


『でもまあ、市長のお孫さんがいて助かったわよね』


『うちのおじいちゃん、あの学校の理事だったの。だいぶ前だけどね。校長も話を穏便に済ませたがっていたから、話も表に出なかったし、おかげでウチの子も退学にもならなくて済みそう』


 そう言って、彼女はワイングラスを指先で揺らし、一口で呷った。


『――本っ当、迷惑かけるのだけは上手なのよね、あの子』


 市内を流れる大河に架かる橋の上で、石杖黒斗はスマートフォンから視線を外した。

 映像はまだ続いているが、欲しかった言質はすでに揃った。どのみち録画は継続している。聞き漏らしがあったところで、後で確認すればいい。そう思い、彼は橋の彼方に沈みかける太陽を見つめた。


 【無力化】という名の行為は、人を裁くことでも、救うことでもない。

 ただ、対象となった人間から、いくつかの選択肢を奪う作業にすぎない。


 電源ボタンを押すと、画面は暗転した。

 黒いスクリーンに映るのは、感情を抑え込んだような自分自身の瞳だった。


 ――これが、あいつらの未来だというのなら。


 そう思いかけて、彼は小さく目を伏せた。


 自分のしていることが、正しいとは言えない。

 それくらいの自覚は、最初から持っていた。

 だが、胸の奥に残ったざらつきは、いつも彼の心を取り巻いていた。


 それでも――


(だとしても、意味はあったはずだ……)


 誰もが嫌悪する事実だ。

 あのような会話を平然と交わす人間が、同じ街にいると知って、何事もなかった顔でいられるはずがない。


 そうだ。

 きっと、放っておく方が――


「……いや」


 黒斗は、小さく息を吐いた。考えが、同じところを堂々巡りしている。

 それに彼には、まだやるべきことが残っていた。撮影に使った機材の回収だ。

 それを果たし終えるまで、無力化を完遂したとは言えない。早めに動く必要があった。


 踵を返そうとして、彼はふと立ち止まった。


「……きれいだな」


 特に理由はなく、気付けば彼は、眼下を流れる川に視線を向けていた。

 水面に浮かぶ白粒の光の反射が、ゆらゆらと輝く。

 その中に視線が溶け合うと、内側に引っかかったままの何かが、少しずつ流れていくような――そう思いたくなる景色だった。


(どれだけやっても、変わらない)


 無力化という名の犯罪行為を、いつからか、数えることすらやめていた。


(結局、同じことの繰り返しだ)


 再犯する者もいる。

 何事もなかった顔で、元の場所へ戻る者もいる。

 黒斗は、無意識のうちに拳を握りしめていた。


(どうして、どうして、こんなにも――)


 言葉にならない苛立ちが、胸の内で膨れ上がる。

 力のない者には冷たく、力のある者には頭を垂れる。

 それを秩序や理性と呼び、世界は滞りなく回り続ける。

 その在り方を受け入れる理由を、黒斗はどうしても見つけることができなかった。


 彼は再び、手元のスマートフォンを見下ろした。

 消えたはずの映像が、脳裏に焼き付いて離れなかったからだ。

 ありがたいことに、耳を塞ぎたくなる会話は、まだ続けられていた。

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