1話 - Ⅱ
『………………』
まただ。また聞こえる。
どこの国の言葉かも分からない謎の声。
耳の奥ではなく、心の底を直接叩かれているような感覚。
『……!……!……!』
意味は全く分からない。けれど、何かを必死に訴えかけていることだけは、感覚的に理解できた。次第に大きくなっていくその声は、現実なのか幻なのか。境界は滲むように曖昧で、振動を感じる度に、異物が体内を駆け巡っていくような不快感に苛まれた。胸の奥が軋み、呼吸できないほどに息が詰まった直後、その呪縛から解き放たれたかのように、石杖黒斗は跳ね起きた。
「っはあ!……なんだってんだよ、一体」
つい先ほどまで頭蓋を響かせていた声は、もう一切聞こえず、彼はぼんやりとする頭を右手で押さえ、ため息をついた。
「最近、同じような夢ばかり見ている気がする」
怨念の二文字が黒斗の脳裏をよぎった。確かに彼の行っていることを考えれば、どこの誰と知れず恨みを買っていたとしても不思議ではない。だが、どうにも腑に落ちない。本当にあれは、恨み言なのだろうか。しばらく考え込んでみたものの、結局は根拠のない憶測に行きつくのが関の山でしかなく、詮無いことだと割り切り、彼は置時計を見た。
午前7時ちょうど。登校の準備をする時間だった。
◇
制服に着替え、リビングに行くと、テーブルに並べられた朝食と、エプロンを巻いた母親の姿が目に入った。
石杖家は現在、母親と黒斗の二人しか住んでいない。父親は彼が小学生の頃に亡くなり、以来、母方の祖母と一緒に三人で暮らしていたが、その祖母も去年天国へと旅立ってしまい、今は二人で住むには広すぎる戸建てで、慎ましくも穏やかな日々を過ごしていたのだった。
「母さん、おはよう」
「おはよう。ねえ黒斗」
椅子に座りながら、母の表情を見る。声音は普段通りだが、目の奥でかすかに不安が揺らいでいるのを、黒斗は確かに見た。
「なんか今朝、ものすごく唸ってたみたいだけど、どうかしたの? 体の具合が良くないなら、ちゃんと言ってね」
ティーンエイジャーを見守る母性のような眼差し。父親が亡くなってからというもの、少し親バカが過ぎるのではないかと呆れる一方で、しかし父親への愛と、母親として責務を全うしようと頑張っている姿を見ていると、なんだか無碍にすることもできず、黒斗は苦笑いを浮かべながら、ここ最近の出来事について語った。
「奇妙な声が聞こえる?」
「まあ、なんとなくそう感じるってだけなんだけどさ。いい加減、聞き飽きて、流石に覚えちまったよ――」
記憶に焼き付いた、不可解な音の連なりを思い浮かべ、黒斗はなんとなしに呟いてみせた。
ふと、なぜだか急に部屋が静まり返った気がして、彼は正面の母を見据えた。
目を丸々とさせ、驚きのあまり言葉を失っているのか――と訝ったのも束の間、すぐさま彼女は吹き出し、大声で笑い始めた。
「黒斗、きっと受験勉強のしすぎで頭がどうにかなっちゃったのね。心配して損しちゃった。宇宙人でも、もっとマシな言葉使うと思うんだなあ、お母さんは」
さすがの黒斗もたまらず、反抗期の少年らしい態度でやり返した。
「ったく、真面目に話したオレが馬鹿だったぜ。洗い物、シンクに置いとくからな」
「はいはい。いってらっしゃい」
「ああ、行ってきます」
鞄を手に持ち、黒斗はいそいそと玄関に向かった。靴べらでローファーに足を滑らせ、爪先を、とんとん、と地面に打ち付ける。
「黒斗」
「なんだよ?」
「お弁当は持った?」
「鞄に入れたよ」
「そう。ちゃんと帰ってくるのよ」
「はあ? 小学生じゃないんだぜ? 急に変なこと言うなよ。気色悪いな」
母親は自分の親バカぶりを自覚したのだろうか。その表情には、どことなく哀感を思わせるものがあったが、彼女がそっと口元を緩め、柔和な笑みを浮かべると、そういった雰囲気はたちまち消え失せ、後に残ったのは、いつもの母と息子だけだった。
「何言ってるのよ。大学の合格祝い、まだやってないじゃない」
「あ、そういえば」
「すき焼き用意しておくから、早く帰ってくるのよ」
「はいはい。分かったよ。じゃ、行ってくるからな」
「ええ。行ってらっしゃい」
息子の背中を見守る母。
扉の閉まる音が、静かに木霊した。
◇
今年高校三年生になった黒斗だが、今はもう12月。すっかり、卒業目前になっていた。
一般選抜を翌年に控える生徒が机にかじりついて猛勉強している傍ら、すでに総合型選抜で入学をパスしてしまった黒斗にしてみれば、今はもう惰性で高校生活を送っているにすぎなかった。
社会人を間近に控える者。大学デビューを待ちわびている者。専門で自分の興味を磨こうとしている者。そしてそれら外野のノイズを跳ねのけ、必死に知識を頭に詰め込んでいる者。
相も変わらずガヤガヤしている教室の中。黒斗は特に目立つことなく、普段通り自分の席に着席した。
「よ、黒斗!」
「はあ」
「なんでため息つくんだよ!?」
「お前は朝から元気で羨ましい、って思っただけだよ。で、何か話したくて来たんじゃないの?」
彼の名前は伊藤。黒斗とは高校で知り合った仲だが、三年間クラスが同じだったということもあり、たまに遊ぶ程度の仲にはなっていた。というよりも、黒斗が自身の平凡を装うために、一番都合の良さそうな人間を選定していたところ、彼がもっとも適当だったというだけの話でもあるのだが。
そんな腹黒い友人の思惑などつゆ知らず、伊藤は何やら興奮冷めやらぬといった様子で、勢いよく黒斗に詰め寄ってきた。
「お前さ、今朝のニュース見たかよ?」
「あー、見てない。それがどうかしたの?」
「いや、実はこないだ元中のクラスメイトが事故で死んだって聞いて、葬式に行ったんだけどさ。そのクラスメイトが死んだ本当の理由って、いじめが原因だったんだと」
無力化を行う際の事前調査で、その辺りの事情は知っていたが、あくまでも何も知らない体を装い、黒斗は聞き手に回った。
「それだけでもマジ酷いんだけどさ、それ以上に酷いのは校長だよ、校長。いじめの事実も、自殺する際の遺書も、全部証拠を隠蔽したんだから。マジ、死んだあいつが報われねーよ」
「そうだったのか。なんというか、居たたまれない話だな」
初めて知ったかのように驚きを演じ、けれど黒斗は、本心から湧き出る同情を伊藤に贈った。
「いじめグループのリーダー格の女の母親ってのが、これまた厄介でよ。PTAの会長もやってるらしいんだけど、それ以上に問題なのは、そいつの祖父なんだよ。誰だと思うよ?」
いいや、と黒斗は首を横に振り、誰だか教えてくれ、と目で伝えた。
「この街の市長だよ。市長だぜ?ホント、ふざけるのも大概にしろって感じだよな」
「大方、市長が校長に圧力をかけた。ってところか」
「ああ、そういうことらしい」
伊藤は大きく息を吐くと、やるせないような表情をした。事件の全容をすでに知っていた黒斗だったが、今の彼にどんな言葉を使うべきなのか、少し慎重になってしまう。
数通りのパターンの中で逡巡していると、会話の沈黙を嫌ったかのようなタイミングで、不意に伊藤の方から口を開いた。
「でもさ、神様って信じてるわけじゃねーけど、今回ばかりは少し信じたくなったぜ」
「え、どうして」
「いや、事件が発覚した要因って、ネットにアップされた動画なんだってさ。オレも見たんだけど、正直言葉失ったわ」
「どんな内容だったのさ」
我ながら、よくこんな自作自演の質問が出来ると思う。
しかし、もう慣れすぎてしまったことだし、別にそれ自体は、悲しいことでも何でもない。
例え、永遠に仮面を被ることになったとしても、この作業が悪を駆逐するために必要な習慣だというのであれば、喜んで受け入れる。
――それが、無力化に手を染めた少年の覚悟だった。
「そのPTA会長と、そのお友達が、くっちゃべってる動画。ま、有り体に言うなら、ありゃ盗撮だわな」
「おいおい、それって違法行為だろ?」
滑稽すぎる自己否定。そして芝居。
自分が行った行為に対して、反対の意見を述べる日常側の石杖黒斗。
多重人格でも何でもないのに、自分が二人いるような、そんな錯覚を覚えてしまいそうだ。
「まあ、そうだけどさ。結果的に見れば、そこから火が付いて、警察の捜査も始まって、最終的には隠蔽の事実が発覚したんだから、オレはあの動画がアップされて良かったって思ってる。死んだ藍堂の無念も、少しは晴れたんじゃないかな」
藍堂。自殺した女の子の名前だ。
「どこの誰だか知らないけど、あの動画をアップした奴には感謝してるよ」
彼は知らない。その犯人が、さっきからずっと目の前に座っている人物なのだということを。
黒斗は、彼の感謝を素直に受け取り、素直に喜んだ。もちろん、胸の内で密かに。
例え、それが犯罪行為であっても、報われる人がいる限り、無力化の価値は失われない――。
あの日、川に流したセンチメンタルが、少しだけ救われたような気がした。
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