百合の音色

―これは、音の隙間に生まれた、ふたりの物語―


 


初めて彼女を見たのは、教授に紹介されたときだった。


「彼女がピアノを担当する。お前はバイオリンだな」


ピアノの前に座る彼女は、肩までの栗色の髪をそっと耳にかけ、少しだけ緊張した笑みを見せた。


「……合わせるのは、初めて?」


僕が尋ねると、彼女は小さくうなずき、

「はい。でも、アンサンブルは……好きです」

と答えた。


名前は、ゆり。音大のピアノ専攻。僕と同じ学年だが、専攻が違えば普段は接点がない。


僕は、バイオリン専攻。

最近、独奏でどうしても壁にぶつかっていた。

教授に「誰かと音を合わせてみろ」と勧められ、課題のデュオに挑戦することになったのだ。


 


最初の練習の日、僕は正直、少し構えていた。

知らない相手と音を重ねるなんて、うまくいくのか。

だけど、彼女がピアノに触れた瞬間、その不安は消えた。


最初の一音。

柔らかく、でも芯があった。

単なるきれいな音じゃない。

少し物語を抱えたような音色だった。


気づけば、僕は弓を構え、音を探しに行っていた。


 


合わせるたび、彼女の音は僕を導いた。

「こう弾いてほしい」とは何も言わないのに、自然と呼吸が重なっていく。


「……ごめん、ここの入り、もう一回いい?」


「はい。私、少しテンポ抑えますね」


練習を繰り返すうちに、彼女の小さな指が生む音に、僕は耳を澄ませるようになった。


 


数日後、ふとした休憩中。

彼女はペットボトルの水を手に、譜面をじっと見つめていた。


「どうしたの?」


僕が声をかけると、少し恥ずかしそうに笑った。


「……この曲、最後のフレーズ、好きなんです」


「最後?」


彼女は鍵盤を軽く叩いてみせる。


「ここ。……幸福の音がするんです」


幸福の音。

僕はそっと弓を構え、彼女の音に重ねた。


不思議だった。

ただの和音なのに、彼女と合わせると、胸の奥にそっと灯がともるような感覚になる。


 


「……ゆりって、花の百合、だよね?」


ふと、僕が言うと、彼女は少し驚いた顔をして笑った。


「はい。でも、強い花なんですよ」


「強い?」


「白くて柔らかそうに見えるけど、自分の芯を持ってる。……私、そうなりたくて」


 

練習を重ねるごとに、僕の中に変化が生まれていた。

今まで独奏ばかりで、他人と呼吸を合わせるなんて考えもしなかった。

でも、彼女となら――。


「……もう一度、合わせていい?」


「はい。何度でも」


彼女の小さな声が、僕の背中を押す。


 


音を重ねるたび、僕の心は少しずつ自由になっていった。


一緒に音を作り、ぶつかり、笑い合い、時に真剣に向き合う。

彼女の前だと、素直に「ここ、わからない」と言えた。


僕の中の「演奏」は、独りで作るものから、ふたりで作るものに変わっていった。


 


演奏会が近づくと、自然と練習も増えた。


夜の音楽室。

窓の外は暗く、静けさの中にピアノの音が響く。


「……大丈夫?」


彼女がそっと尋ねる。


「……緊張してる」


正直に言うと、彼女は笑った。


「私も。でも……大丈夫。ちゃんと、一緒に弾きますから」


その言葉は、どんな励ましよりも効いた。


 


 


そして、迎えた本番。


僕の手は震えていた。

舞台袖で深呼吸を繰り返す。


「……大丈夫」


彼女がそっと僕の袖を引く。


「幸福の音、届けましょう」


 


舞台に出ると、照明の下に彼女の横顔が見えた。


最初の一音。

彼女のピアノが、僕を導く。


呼吸を合わせ、音が重なる。

客席の気配も、緊張も、すべてが遠のいていく。


最後のフレーズ。

幸福の和音が舞台を包み込む。


終わった瞬間、彼女が小さなガッツポーズを見せ、笑った。


僕はその笑顔を見て、胸の奥が熱くなるのを感じた。


――ああ、僕はこの人と、もっと音を作っていきたい。



演奏会が終わり、拍手の余韻がまだ胸の奥に響いていた。

荷物をまとめると、僕は自然と音楽室へ足を向けていた。

ふと振り返ると、ゆりも同じようにこちらへ歩いてきていて、目が合う。


「……ちょっとだけ、寄っていこうかなって思って」


小さな声で笑う彼女に、僕も笑い返した。


音楽室の扉をそっと開けると、昼間の喧騒が嘘みたいに静かだった。

月明かりが窓から差し込んで、譜面台の影を長く伸ばしている。

ゆりは迷わずピアノの前に座り、白い指を鍵盤の上に置いた。


「弾いてもいい?」


「もちろん」


僕は答え、ケースからバイオリンを取り出した。

そっと調弦し、彼女の音を待つ。

やがて、ピアノの優しい旋律が音楽室に広がった。

どこか切ない、それでいて温かいメロディ。

僕は自然に弓を走らせ、彼女の音に寄り添うようにバイオリンを重ねていく。


――たぶん、この瞬間がいちばん幸せなんだろう。


ゆりの横顔を見やると、真剣なまなざしが月明かりに浮かんでいた。

演奏会では見せなかった表情。

音を交わしながら、心が触れ合っているような気がした。


 


最後の音が消えると、二人の間に静寂が降りた。


「……ありがとう」


ぽつりとゆりが言った。

「私、今日すごく楽しかった。緊張したけど……君と一緒だったから、最後まで弾けたと思う」


「僕こそ、だよ」


僕は少し照れくさく笑った。


「来年も、また一緒に組めたらいいな」


その言葉に、彼女は驚いたように目を丸くして、それから微笑んだ。


「……うん」


月の光が、そっと彼女の髪を照らしていた。

この気持ちはまだ、名前をつけるには早い。

でも、音楽室に響いたふたりだけの音は、きっと心の奥に残り続けるだろう――。




季節は巡り、春。

僕はふと、胸の奥の気持ちに気づく。


――これって、ただの友達? ただのデュオ?


次の演奏会。彼女と舞台に立つとき、僕は……伝えられるだろうか。


 


幸福の音を重ねながら、そっと未来を願う。


 


 


―これは、音の隙間に生まれた、ふたりの物語。

終わらない旋律が、そっとふたりを繋いでいく。


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君に咲いた名前 香依 @kae1219h

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