37. 魔性の女(25)

サンプル作りと量産の準備のため上海へ行くことになった。

明日が上海へ出発する日だというのに、

「今回は紗耶香も連れて行こうと思う」

と葛城社長が急にいい出したので、

「それだとじぶんは行けない」

とさんざん迷った末に断った。

それで紗耶香を連れていくのを諦めるのかと思いきや、

「なら、しょうがないね。アジェンダと取説の原稿だけもらおうか」

とあっさり受け入れたのには呆れてしまった。


「ぜひともお会いしてご相談したいことがあります」

葛城社長と紗耶香が上海に出発した三日後、葛城夫人から電話があった。

夫人の葛城麻衣子は、ABC商会創業者の父親が三年前に急逝してから総株式の60%をそのまま遺産相続し代表取締役になった。

しかし、会社に出社したことはなく、会社の運営は急遽ABC商会の社長になった夫にすべてまかせていた。


指定された場所は田園調布の屋敷だった。

駅からタクシーで向かい、多摩川の少し手前の坂道で下りた。

明治時代の建築を移築したような、煉瓦に蔦のからまる古色蒼然とした洋館が目の前に聳えていた。

エントランスの敷石を伝い歩いて、玄関のインターフォンを押すと、ガラスの自動扉が開いた。

敷石風の床と土壁の廊下を進むと、突き当りがホールだった。

そのホールを圧して漆黒のグランドピアノが鎮座していた。

「いらっしゃいませ」

頭の上から涼やかな声が降ってきた。


促されて右手の螺旋階段を登ると、バルコニーの壁に掛けられた大きな肖像画の前でシックな黒いドレス姿の葛城夫人が出迎えた。

厳めしい顔でこちらを見る肖像画の主は、ABC商会創業者の山際蒼次郎だろう。

葛城社長とは広告代理店時代からの長い付き合いだが、お互いに家族の話をすることはほとんどなかった。

ただ、夫人は中堅の輸出入業商社の創業者のひとり娘でコンサートピアニストということだけは知っていた。

・・・麻衣子夫人と会うのは初めてだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る