第5話



 鋼は部屋に戻った。

 万年床の中央には、新しい女王が鋼に笑顔を向けている。

 その笑顔はまぎれもなく鋼の心を打つ本物だったし、女王として不足はない。

 これから鋼はきっと彼女に満足していくだろう。

 失ったものは大きい、だがそれゆえに残ったものの輝きが増す。

 だから、これでよかったのだ。

 ぺらりぺらりとショートカット少女のコスプレシーンを物色していると、ピンポン、とチャイムが鳴った。新聞屋はここに住んでいるのが誰なのか又聞きで知っているのか一度もやってきたことはないし、新興宗教は長く続く不況のせいで組織の維持すら覚束ないらしかった。

 となるとこんなろくでもない部屋にやってくるのは後輩の誰かか、それとも何かの間違いか。

 鉛のように重い腰を上げ、さほど警戒もせず。鋼はガチャリとドアを開けた。

 外の空気と一緒に流れ込む、何か懐かしいにおい。

 ドアの向こうに、雨のように長い黒髪を散らした少女が立っていた。


「――黒鉄鋼さん、ですね」

「――――……」


 来訪の衝撃から回復していない鋼に、少女はすっと一歩近寄った。


「突然、ですが、『治験』に興味はありませんか?」


 治験。

 その言葉で鋼は急速に現実感を取り戻していく。

 よくよく見れば、少女はあのモデルよりも若かったし色白だった。目元には涙ぼくろが浮いている。しかも3つ。服装だってワンピースではなく無地のカッターシャツに薄緑色のカーディガンを羽織り、下はフレアスカート、荷物は肩から提げたクリーム色のポシェットと、いったいどこの箱入り娘さまですかという感じだ。

 知らないやつ。

 

「治験? それは……バイトってこと?」

「ええ――そうなりますか。バイト、というには少々拘束時間が長いのですけれども」

「なんで俺に? なにかの悪戯?」

「違います」


 少女の瞳は決然として揺らがない。


「厳正なる選定の結果、あなたが被験者候補に選ばれたのです」


 嘘くさいにもほどがある。

 鋼は誰か笑ってやしないかと周囲を見回しながら言った。


「治験って、新薬が人間に効くかどうか実験台になるバイトだよな」

「おおむねそう思って頂いて結構です」

「いくらもらえるの?」

「その答えはいくつかあります」


 少女は指を一本立てた。


「薬が効かなかった場合、百万円ほどお支払いさせて頂きたいと考えておりますが」

「百万……」


 鋼は気のない声で言った。百万円。なるほどたかが新薬の臨床実験にしては高額かもしれない。目の色変えて飛びつくやつもいるだろう。

 だが人生を変えるには、いくらかちょっと、はした金。

 

「中に入ってもいいですか? ここは少し陽が当たるので」

「え? ああ、どうぞ」


 気になることが多すぎてすんなりと少女を部屋へ上げてしまった。

 後悔したのは万年床に堂々と開帳されているサイケデリックなピンナップとそのお仲間をぎっしり詰め込んだ黒ダンボール箱に気づいてからだった。

 しまった。

 百に一つの可能性を信じ、何も言わずに座って、何食わぬ顔でショートカット少女の雑誌を手に取ろうとしたが、その手が空を切った。

 信じられない。マジかと思った。

 少女は、――パラパラと鋼の大事なエロ本を眺め始めた。

 いったいこれはどういうことなのだろうと鋼は思う。

 とうとう暑さと孤独にやられて脳がバグったか。

 何もかも幻覚と幻聴が織り成す万華鏡か。

 ――それならそれでいいか。

 鋼がじっと見ていると、少女はぽいっとエロ本を放り捨てた。

(なんてことしやがる!)と鋼は泣きそうになったが、エロ本はとぐろを巻いたタオルケットに落ちてことなきを得た。

 そして少女は、エロ本を見ていた時と少しも変わらない、氷菓のような冷たい目で鋼を見つめ、言った。

 

「元日本スーパーフェザー級五十二代チャンピオン、黒鉄鋼」


 その言葉は、今の鋼にとって、罵声にも等しい。


「それが今では」


 氷の瞳が今度は黒い箱へ注がれる。


「アダルト雑誌の蒐集家ですか」


 もう、こいつを夢か幻かなんて思わない。

 鋼は自分の左手で、右肩の付け根をぽんと叩いた。顔は杭で打ったように少女の方を向いている。


「知ってるか、ボクシングってのは両手があるやつの格闘技なんだ。両の拳がないやつはリングに立っちゃいけないんだ」

「知っています」

「俺は立ちたくても、もうリングに立つことはできない。俺がどう足掻こうともだ。残った左にグローブはめて吼えて見せても誰も相手になんかしてくれない。ただ哀れそうな顔でリングを下りて、どこか静かな場所で元気に暮らしていってくれとお祈りされるのがせいぜいだ」


 槍のように強く、鋼は睨む。


「――俺にどうしろって言うんだ、ほかに?」


 そんなことは、自分が一番、知りたいのだ。

 唇を噛み千切りそうになるのを、こらえる。


「なあ、あんた。頼むから出て行ってくれないか。俺はお前を敵だと思い始めてる。もし完全にそう思ってしまったら、俺はきっとあんたを殴る」


 ボクサーの拳は、見るよりも速く飛んでくる。視神経が脳へと情報伝達する0,2秒を超えてその拳は空を裂く。その向こうに、知らない誰かの顔面を置くようなマネだけはしたくなかった。

 それでも、自分は。

 相手が敵だと思えば、躊躇わずにやるだろう。

 失うものなど、もう、どこにも無いのだから。

 少女は、鋼から目を逸らさない。

 触れただけで傷がつきそうな桜色の唇が囁いた。


「私はきっと、あなたにチャンスを持ってきたんだと思います」


 呆れる。闇バイトの次は自己啓発か。

 少女はポシェットから何かを取り出した。

 どこにでも売っている板チョコレートの包み。

 少女が銀紙を剥いで、ぱきりと一欠けらを割り取る。

 それを指でつまんで、手品師のように鋼の顔の前に掲げてみせる。


「これが、あなたに試して頂きたい新薬です」


 鋼は思わず鼻で笑ってしまった。次はいったい何を言い出すのか。『このわたちの愛をいっぱい溶かしたお薬が、あなたのお胸の痛みを綺麗綺麗に取っちゃうの!』そこまで言ってみせて片目を瞑りぺろりと舌まで出したら半殺し。そうして仕掛け人を見つけ出し、生まれてきたことを後悔するまでぶん殴る。

 だが、違った。


「この薬を正しい用法・用途を守って服用すれば、あなたは、特殊な能力に目覚めます」

「特殊な能力?」

「簡単に言ってしまえば、超能力です」


 お笑い種だ。

 この期に及んで超能力。

 捻りも何もなくてかえって脱力だ。そうだろうな、その程度がせいぜいで、これ以上のサプライズはちょっとやそっとのセンスと才能じゃおっ着かない。

 誰が描いた絵だか知らないが多少はハラハラした。だが、それもお仕舞いだ。

 劇は終わった。役者には帰ってもらおう。

 鋼は立ち上がった。もはや容赦しなかった。まだ一度も使ったことのないガラスの灰皿を鷲づかみにして、躊躇うことなく少女の背後に向かって投げた。引き戸のガラスが粉々に砕け、灰皿のそれと混じりあって小さな欠片になって畳に降り注いだ。

 ひどいことをしている自覚だけはあった。


「帰れよ。もう遊びは終わっただろ? 彼氏んとこ走っていって、よくできましたって褒めてもらえよ。仕掛け人は誰だ? まあ誰でもいいやとっとと帰れ、俺は忙しいんだ。あんたが投げ捨てたエロ本の整理でな」


 少女は動かなかった。


「仕掛け人なんて、いません」


 鋼は一瞬、二の句が継げなかった。だが、ここで怯んだらこっちの負けだ。

 息をそっと吸う。小さく細かく速く、言葉のショートパンチで一気呵成にまくし立てた。


「ああわかってるよ皆まで言うな、そう、確かにあんたの言う通り仕掛け人なんていなくって、俺はその怪しげなチョコを食べて超能力に目覚めるんだろう。急に力が身体に漲り、だるさは消えて目はパッチリ、それはひょっとすると麻薬をキメた時に似ているかもしれないが、それは神をも信じぬ哀れな愚か者の常套句で、あんた方のは正真正銘の神通力、たとえ本当に空に浮かんでなんていなくたって俺がそうだと信じてられればそれでよし。

 いったい何の問題がある?

 片腕を失ってこんな狭苦しい牢獄同然の六畳間でエロ本片手にかつての栄光に浸るしかないどうしようもなく哀れなこの俺が救われるには信仰を深め壷を買いあんた方の言うところの神の言葉を代弁する教祖さまに誠心誠意尽くすほかにはないんだ。それには一にも二にもまずカネで、あんたたちはそのチョコだかなんだかで俺を骨抜きの狂信者に仕立て上げ、足元もおぼつかない俺の襟首を猫みたいに掴み上げながら俺の親類縁者にこう言うんだ。カネを出せばこいつを救ってやる。

 そうして昔は一家に錦を飾ったこの俺に、みんなはお金を出し合ってくれ、あんたたちはそれを拾うために俺から手を離し、あとには自分ひとりで小便にもいけないズタボロのジャンキーに成り果てた腕一本の生ゴミがその場に取り残されるという筋書きだ。

 ちがうか?」


 きっと聞いていなかったに違いない、と鋼は思った。

 少女はなんの顔色も浮かべていなかった。

 鋼は、本当は自分がまだ何も喋っていないのではないかと疑ってしまう。

 息が切れていなければそう信じて、もう一度まくし立てていたかもしれない。

 少女は、鋼を見上げて言った。

 

「同じだとは思いませんか?」

「あ?」

「いま、ここで私の誘いに乗って、この欠片を飲んで――そう、気づいているかもしれませんが、私は薬の効果が現れなかった時、百万円を差し上げると言いました。では、もし薬が『効いて』しまったら――」


 薬が効いてしまったら。

 少女の目は、どこまで落ちていけそうな深い黒を湛えている。

 

「新しい力に目覚めるか、さもなくば――死」


 死。


「それの」


 上擦る、


「それのどこが同じなんだ。百万もらうのと、超能力者になることと、死ぬこと――どれがどう一緒だって言うんだ」

「同じですよ」


 今度は少女が貫くように目を離さない。


「ここにいる限り、いえ、もう一度あの強さを取り戻さない限り、あなたは死んでいるのと同じです」


 死んでいる。

 俺が?

 いつかも聞いた、あのセリフ。


「あなたは私に色々とまくし立てましたが、そのどれもが本当でも構わないとは思いませんか。仕掛け人がいる? そうされても仕方の無いと思えるほど情けない男が私の目の前に今います。新興宗教が金ヅルのジャンキーを増やそうとしている? お言葉ですがもし仮にそうであったとしても、あなたにお金を払ってくれる親類縁者などいないことはすでに調査済みです。薬が効かない? よかったですね、これからも続くこの下らない耽美な世界を私が差し上げる百万円でほんの少し豪華にしたらいかがです。

 死ぬ?

 だからなんだと言うのです。

 いま、この部屋でくすぶっているあなたのことをいったい誰が生きているなどと言えますか」


 鋼は、一言も返せなかった。

 首を切られて転がり落ちて、自分の身体を見上げている生首の気持ちがした。


「ですが、一つだけ確かなことがあります。もしあなたが死なず、負けず、新しい力を得ることができたら、脳の中にある未知の力が詰まった宝石箱の蓋を開けることが、もしできたなら――約束しましょう。

 あなたをもう一度、リングへ上げてみせると。

 もう一度、リングへ上がりたくはありませんか?」


 もう一度、リングへ。

 どれほどその言葉を待っていたか知れない。

 思えば奇妙な話だ。

 エロ本の中から飛び出してきたような美少女が、俺に生きるか死ぬかをとっとと決めろと迫ってくる。

 もう一度リングへ上がりたいか、だって?

 上がりたいさ。

 いますぐグローブ持ってジムに来いと言われればきっとすぐに飛んでいくし、左手一本だろうと尻込みなんて絶対しない。この左で誰であろうとそいつの鼻っ柱をへし折って、その頭蓋に二度と立ち上がれない激震の拳をくれてやる。


 もし、もう一度、

 俺に居場所をくれるなら、

 今度は絶対、

 離さない――


 鋼は少女の顔を見た。

 そして、差し出された、その手の中にある一欠片のチョコレートを見た。シャーベット状の透明な外殻は、この暑さと少女の体温でかすかに汗をかいていて、その中に、どろりとしたチョコレートそっくりの赤黒い溶液がなみなみと満ちている。

 鋼は言った。


「もう一度聞かせてくれ。――なんで俺なんだ」

「言えません」

「俺を選んだのは誰だ」

「私です」

「じゃあ、俺が死んだらあんたのせいだな」


 初めて、少女の顔色が変わった。


「――そうです。私の責任です」


 鋼は、少しだけ頬に赤みの差した少女の顔をじっと見た。

 そして何も言わず、その指先からチョコレートに似たまったく異質な何かを受け取った。

 掌に乗せる。

 思った通りの、氷そっくりの手触り。

 表面に浮いた氷の粒子が、いつかどこかで食べたアイスを思い出させる。

 その冷たさが急かしてくる。悩むのはいいが、溶ける前にしてくれよ、と。

 鋼はそれを口の中に放り込んだ。

 右の奥歯に舌で押し込む。

 なぜだか少女の目が見れなくなって、畳に残った誰がつけたものとも知れない傷跡を見つめた。次第にそれも焦点がぼけてきて、鋼は無意識の緊張の中に溶けていった。

 思い出す。

 あの時、会長は心から自分を心配してくれていたのだ。

 何もかもが変わってしまったあの日、9Rが終わってニュートラルコーナーに帰ってきた時に聞いた白石会長の助言は最初から最後まで何一つ間違っていなかった。

 自分は精密検査を受けるためにリングを去るべきだったし、もしそうしていたらベルトこそ獲れなかったが自慢の右を失うこともなかった。脳にこそ甚大な障害は発生していなかったものの、結果的には会長に従うことが正しかった。

 だから、今日もそうなのかもしれない。

 この欠片を口にしたら自分はあっけなく死んでしまうのかもしれない。

 いまここに白石会長がいたらそんな怪しげな女の差し出す毒薬まがいのゲテモノなんか口にするなと言ってくれるのかもしれない。

 だが、それでも、鋼の耳には少女の言葉がわんわんと反響して鳴り止んでくれない。

 

 ――もう一度、リングへ上がりたくはありませんか?


 鋼は少女を見た。少女も鋼を見た。

 最後に聞く。

 

「あんた、名前は?」


 少女は一瞬、躊躇った後に名乗った。

 それを聞いて、鋼は笑った。

 とりあえず、冥土の土産はこしらえた。

 笑いながら、躊躇わず、

 奥歯を噛み締める。


 ぱキッ


 氷の外殻が砕け、中の溶液が口内にあふれ出した。

 舌先にそのどろりとした食感を覚えた瞬間、鋼の脳みそが電流に撃たれた。

 目玉が破裂するかと思った。

 思わずその場に倒れ込み、痙攣し始めた身体を抑えることもできず、鋼はただ自分を見下ろしてくる少女の顔を滲んだ視界に捉えていた。その表情は曇った瞳に遮られてよく見えなかった。

 遠のいていく意識を感じながら、鋼は思う。

 

 綺麗な薔薇には、棘がある――きっと恐らく、毒だって。


 どうして、もっとよく考えなかったのだろう。

 いまさら気づいても、もう遅い。

 だが、よく考えてみたところで、何が変わる?

 べつに、いまがいまだから誘いに乗ったわけじゃない。

 俺は、いつだって――……






 答えに辿り着く前に、黒鉄鋼の意識はブラックアウトした。


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