逃亡の果て

第1話

 ピシャピシャと雨を踏む音が背後に迫る。


 駄目だ、逃げ切れない!


 濡れたスカートが足にまとわりついて走りづらい。果実が入った木箱をひっくり返して市場の店主に怒鳴られるのもお構いなしに、私は追手を撒こうと必死に足を回転させていた。


 空腹で消耗仕切った体はフワフワと宙を彷徨っているみたいで足が地に着いた感覚がしなかった。剥がれそうな靴底は濡れた石畳を捉え切れず、私は路地裏の角を曲がったところで足を滑らせて転んでしまった。


「アイリっ! 早く!」


 前を行くノルテが振り向いて叫んだ。


「先に行って!」 


 追っ手がかなり近い。私はすぐに立ち上がり、力を振り絞って足を加速させた。けど、背中まで伸び切った灰色の長い髪を大男に掴まれ、体がつんのめってねじ伏せられた。


「離せっ!」


 大男の腕に噛みつき、無駄な抵抗を試みる私の頬に強い衝撃が走る。


 盗んだパンは空中に舞い、私も多分宙を舞っている。


 直ぐに食べれば良かったな……。


 一瞬の浮遊感が永遠のように感じた。


 頬を殴られ、勢いで水たまりに顔面を突っ込み、耳と鼻に泥水が入って一気に逃げる気持ちが萎えた。


「このガキ! いつまでも逃げ切れると思うなよ!」


 胸ぐらを掴まれて地面から引き起こされ、獣のように鋭い目を向けた大男はもう一度頬を殴りつけて、私の擦り切れた上着のポケットに手を突っ込んだ。


「やっと捕まえたか!」


 もう一人痩せた男が駆けつけ、大男に「金は?」と聞く。


「1ギニーも持ってねぇ! やられ損だぜ」


「さんざんウチの店から盗みやがって! 金がねえなら体で払って貰うか?」


 痩せた男が私を値踏みするかのようにジロジロ眺める。


 ノルテは逃げられたのかな? 良かった……。


 犯されるのは私だけでいい……好きにしろ。どうせ生きていてもしょうがない。


「こんな薄汚えガキ抱けるかよ? 悪い冗談だぜ」


 大男が顔を顰める。


「じゃあ、売りに行くか? コイツ、変わった目の色をしてやがるし高く売れそうじゃねぇか?」


 私の瞳は赤い。家族の誰とも違う珍しい色だけど、価値があるとは思えない……。


「娼家にか? でも、ちょっと若すぎねえか? 顔は整ってるが体がな……こんな痩せっぽっちなまな板の小娘、誰が買うんだよ!」


 今までの損害を回収しようと男たちが思案している。だけど、15になったばかりの私には、まだ女としての価値が無いらしい。


「おい、そのネックレスは?」


 痩せた男が私の首元を指さした。


「あ? こんなもん、価値ねぇだろ?」


 大男が私の首からぶら下がった革紐のネックレスを引っ張り、体が仰け反った。


「ん? コイツ、準魔道士じゃねーか! しかも王立の魔法科だぞ? こりゃ笑えるぜ! どうしたよ? 魔道士様! 魔法使ってみろよ!」


 魔法学校の卒業証明であり、見習いの身分を示す私の唯一の宝物。そのネックレスを無造作に引き千切り、男は私に投げつけた。


 頬を何度も平手打ちされ、口の中が血の味でいっぱいになる。


 クソッ!


「何だその目は? 反省の色が見えねえな? あぁ?」


 強い力でガクガク体を揺さぶられ、男の顔が三つに見える。


「てめえらの為に散々高い税金払ってやってたのに、この役立たず共がっ!」


 大男は吐き捨てると、私を地面に突き飛ばした。


「賛同したのはアンタたちじゃない!」


 いわれのない批判に胸の奥底からふつふつと怒りが込み上げて来る。自制心のタガが外れた私は男に手のひらをかざし、大地から魔力を吸い上げた。


 大きく広げた指の間に青白いスパークか起こり、意識を魔力に乗せる。


「うわあああっ!」


 大男が素っ頓狂な声を上げ、腰を抜かして地面に尻を擦るように後退した瞬間。


 魔力のスパークがあっさりと消えて、濡れた手のひらから湯気が立つ。


「コイツ! 驚かせやがって!」


 更に怒りを買った私は思いっ切り殴られて吹っ飛ばされた。


「お前らは社会のゴミだ! ゴミはゴミらしく地面に這いつくばってな!」


 大男は私に背を向け、物陰に隠れていた痩せた男に「行くぞ!」と言い、地面に唾を吐いて歩き出す。


「待てよ! コイツ、使えねえかな? 王立卒なら金持ちのエリートだろ? 親をみつけたら……」


「冗談よせよ、魔法関係者は全員失職してるだろ。あーあ、ったく、次やったら広場の塔の前で裸にひんむいて逆さ吊りにするからな、覚えとけよクソガキ!」


 二人の足音が遠のき、雨音だけが耳に響く。


 私って、何をやってもダメだな。何で生きてるんだろ……。


 耳元で何かが鳴く声が聴こえた。


 ツチネズミ? お前もお腹が空いてるの? 私は水たまりに浮かぶパンに手を伸ばし、半分に割って綺麗なところをネズミに与えた。


 段々雨脚が強くなって来た。石畳に打ち捨てられた私の意識が朦朧として、ただ天を仰ぐ。


 雨が顔を洗っくれている。このまま溶けて無くなりたい……。


 私は生きるのを諦めて目を閉じた。


 お爺様みたいな大魔導士になりたかったのに……。あんなことさえ起こらなければ私にだって……。


 虚しくて涙が溢れた、だけど雨で自分がどれだけ泣いているのかは分からない。


 こんな世界なら、もう終わってもいいな……。


 私は自分の命を終わらせたくて、雨に打たれ続けた。

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