桜の木の下で

 桜の木の下で、私は思い出す。


 母とよく行く場所の近くに、一本の大きな桜の木があった。春になると薄紅色の花を咲かせ、夏になると深緑色の葉を繁らせた。

 桜の木は、幼少期の私の遊び場だった。母とは近くの高校にときどき来ていて、帰りにいつも遊ばせてもらった。高校には寮があって、母はそこで寮母をしていた。私はその高校へ進学し、同時に寮生活になった。



 桜の木の下で、私は考える。


 家に男性がいた記憶はない。物心がついた頃には母と二人暮らしで、けれど彼女が実の母親ではないことは既に知っていた。

 そんなことは全く気にならなかったし、母はこれからも一緒に暮らそうと言ってくれた。ただ私は生活リズムが不規則になるので、少しだけ気を遣った。



 桜の木の下で、私は彼に話す。


 高校で出会った男の子とは、境遇がとても似ていた。彼も両親のことを知らず、祖父母と暮らしていた。

 たまたま一緒になった帰り道、家族がほしいと呟くと、絶対にいる、と言ってくれた。私は桜の木に駆け寄って、そっと手を当てた。



 桜の木の下で、私は深呼吸をする。


「この木が私を知ってる。小さいときからずっと。よく登って遊んだなぁ。登ったのは良いけど降りられんようになって……。春になったら花咲いて、夏になったら緑になって、秋になったら紅くなって、冬になったら枯れる。その繰り返し。でも木はずっとここに立ってる。この木が私を知ってるから──それで良い」



 桜の木の下で、彼は悲しそうな顔をする。


「木か……人じゃなくて」

「うん。人はどこにでもいるし、動こうと思えば動ける。忘れようと思えば忘れられる。でも木は……どんなことでも覚えてる。自分では動かれへん。だから木が良い」

「覚えてても教えてくれんやろ」



 桜の木の下で、彼が訴える。


「……いいの。知っててくれれば良い。私、昔の記憶はあんまりないけど、この木は多分知ってる。私がここで遊んだことも、ずっと前から高校に行ってたことも。これから何があるかも、多分この木はずっと覚えてる」



 桜の木の下で、私は振り返る。


 そのまま寮へと足を進め、少し遅れて彼は追ってきた。家の方向は違うのに、一緒に帰るときはいつも送ってくれた。

 彼に好かれていることは周りから聞いていたし、私も彼のことが好きだった。かなり遠回りをしてからようやく彼が告白してくれたのは、高校二年の秋。



 桜の木の下で、私は彼の手を握る。


 私の両親がいないこと、彼も両親がいないこと、それは同じ理由があったことを高校三年になってから知った。

 成人するときにもとの場所へ戻るように言われ、レールが敷かれていたことを知った。私と彼は幼馴染みで、許嫁だった。レールは嫌だったけど、彼と離れることは考えられなかった。



 桜の木の下で、私は彼との過去を思い出す。


 彼のことは好きだったけど、頼りなくて何度もすれ違った。好きな年上男性がいて、いつも頼っていた。

 距離を置いてみて、私は彼への想いを再確認した。私が何を求めていたのか、彼も気付いてくれた。私は年上男性への気持ちを封印し、彼との将来をもっと考えた。



 桜の木の下で、彼は私に微笑む。


「言ったやろ? 家族いるって」

「いたけど……悔しいわ。親の思い通りで」

「良いやん。これからは俺らが二人で家族やしな?」

「……もしかして、その意味で言ってたん?」

「いや、そうなったら良いな、とは思ったけど、ほんまに信じてた。もし捨てられたとかなら、施設に入ってたかもやし」



 桜の木の下で、私は願う。

 桜の木の下で、彼も願う。

 桜の木も、きっと願ってくれている。


 二人の幸せな日々が、ずっと続きますように、と──。



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『夢幻の扉~field of dream~』より。

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