5章―④ 青年とお嬢様、超頑張る。
『大変お待たせ致しました。これから耐久クイズマラソン対決を始めさせていただきたいと思いまーすッ』
愛田のその言葉と、両名が位置に着いたことで会場のボルテージが更に上がる。対決内容そのものはバラエティー番組のうん十番煎じと言えるものだが、千尋の人生が、そして天月親子の関係が懸かっている以上は絶対に負けられない戦いである。
公太は大きく息を吐き、「よしッ」と声をあげて気合を入れ直す。
『それでは、クイズマンの合図と共にマシンが動き始めます。お二人ともよろしいですか?』
公太と綾瀬の両名はこくりと頷く。綾瀬のその表情に柔らかな色は既になく、真剣そのもの。それだけでも千尋に対して本気だという点は伝わってきて、公太はごくりと唾を飲み干す。
「それでは……よーい……はじめ!」
クイズマンが勢いよく叫ぶと、マシンが動き出す。
普段のランニングとは異なる感覚はあるものの、速度が緩いのですぐに立て直す。目の前のモニターを見ると速度は時速7キロ。ウォーキングぐらいの速度といったところか。
「それでは、第一問!」
10秒くらい経過したところでクイズマンが声をあげる。その先の内容を一字も聞き逃さないように公太は歩きながらも耳へと神経を集中させる。
「地球から見て、太陽が昇るのはどの方角からでしょう?」
「え、た、太陽?」
――えーと、北でも南でもないのは分かるんだが、えーと、えーと。
「東ですね」
公太が頭を抱えているとサラリと綾瀬が解答。
「正解です!」
公太はあっけなく先制パンチを食らう。
「A・YA・SE! A・YA・SE!」
綾瀬が正解したことにより、会場中から割れんばかりの声援が響き渡る。
「く……ッ! やるじゃねえか! 流石IQ150……」
「いや、これ小学校中学年の問題なんだけど……」
「……」
先制パンチを食らった動揺を隠すためにも敢えて相手を称えるという強者ムーブをかましたが、それ以上の強烈なカウンターが飛んできた。動揺を隠しきれなかった公太の耳には前列にいる小学生達のひそひそ話が入ってくる。
「たしかこの前授業でやったよね」「うん、先生は常識だから覚えておきなさいって言ってたよね」「あのお兄ちゃんは常識がないってこと?」
流石子供達、コメントにも容赦がない。
『いやー流石綾瀬様と言いたいところですが、今のは私にも分かりましたね……花巻選手寝ているんですかね』
『ま、まあ……花巻君も一応大学は出ているはずなんですが……』
子供達と変わらないくらいに容赦がないのは実況と解説である。
「………へッ! 太陽がどこから昇ってくるか知らなくても生きていけるんだぜ!」
傷つきながらも、公太は開き直るという選択肢を取った。これは負け犬の遠吠えと言われることはもちろん彼は認識していない。
「それでは第一問目は綾瀬選手が正解したので、花巻選手の方のランニングマシンの速度が上がります。それでは千尋様、よろしくお願いします」
「……はい」
千尋は公太の方をジトっと睨んでいる。その視線はふざけてたら承知しないと訴えている。千尋が公太のマシンの速度を変えるボタンを一度押すと少しではあるが、公太のマシンの速度が上昇。早歩きくらいの速度だ。
公太は千尋にも聞こえるように「へッ」と鼻で笑う。
「勝負はこっからだぜッ!」
弱い犬ほどよく吠えるとも言うことはもちろん彼は知らない。
*
競技が開始して10分が経過。
「はあッ、はあッ……はあ」
公太の呼吸は荒い。彼の走るランニングマシンの速度は時速12キロ。1キロを5分で走る速度であることを考えると当然と言えるのかもしれない。
ここまで公太は7問連続で綾瀬に先取されてしまった。それらの問題の難易度はバラバラだが、IQ150の綾瀬と大卒(笑)の公太ではレベルが違う。公太が考えれば何とか分かりそうな問題でも即答してしまうのだ。ぶっちゃけ勝てる気がしない。
『花巻選手、だいぶ苦しそうですね。そろそろ厳しいんじゃないですかね……ふふッ』
実況と共に邪悪な笑みを浮かべる愛田。
さっきから思っているが、この子は何か自分に恨みでもあるのだろうか? しかし、確かに少しずつ苦しくなってきてはいるし、問題も分かりそうにない。正攻法で勝つ方法が全く思いつかない。公太の中で少しずつ弱気の虫が鳴き始めた。
『花巻君もサッカー経験があるし、まだまだイケますよ……ね?』
「! おるあああッ!! まだまだ楽勝だぜぃッ! 次の問題来いやあッ!」
室井の言葉尻から凍てつく様な冷気を感じたのは気のせいではなかったはずだ。公太は自身を奮い立たせ、走るペースを上げる。
「凄い体力だね」
未だウォーキングペースの綾瀬が驚いた表情を向けてくる。
「たりめーよ。中高と部活でどんだけ罰走させられたと思ってんだ」
女子生徒へのナンパ行為、振られた腹いせで暴れ回る等数々の問題行動による罰走の回数は歴代トップと言われた公太の走力は短中長全てズバ抜けているのだ。本当に自慢にならないことを得意げに言う公太。
「本当に必死なんだね。やっぱりそれだけ千尋さんのことが好きなのかな?」
「ま、まあな……」
何だか騙し続けていることに申し訳なくなってきた公太の返事はぎこちない。綾瀬の怪しむ様な目線が痛い。
「それでは、第八問です!」
タイミング良くクイズマンの声が聞こえてきたことで公太は追及を免れる。
「オーッと、これは今までの問題とは少し毛色が異なりますね! では、行きます。千尋様の初恋の人は?」
「!」
これはビッグチャンス! さっき昭仁氏がドヤ顔で語ってたものではないか。
チラリと横を見てみると今まではハイペースで答えていた綾瀬の手が止まっている。ここで流れを変えてやる! 公太は自信を持って答える。
「父の昭仁氏!」
――ブッブー!
無情にも不正解を知らせる音が響き渡る。
「え?」
公太は思わず昭仁氏のいるテントの方を見る。
――ちょっと、アンタあれだけドヤってたじゃないですか! どーしてくれんですか! もしかしてこの問題出ること知ってて、俺にウソついたんすか!? ……って昭仁氏が真っ白な灰になってる!?
どうやら、千尋の初恋云々の昭仁氏のアレは願望混じりの妄言だったようだ。
「さあ、今回については花巻選手の自爆になりました。千尋様、ボタンをお願いします」
千尋がいやにニッコリとした表情でボタンを押す。
「!」
公太のマシンの速度が急激に上がった。
「うお、危ねえ!」
急なことにバランスを崩しかけるが、すぐに立て直す。それにしても急に速度が上がり過ぎてはいないだろうか。公太がモニターを覗き込むと表示されているのは時速20キロの文字。1キロ4分ペースである。
「はあッ、はあ、ちょ、ちょっと急に速くなりすぎじゃないですか?」
公太がクイズマンに抗議をすると彼は申し訳なさそうに頭を掻く。
「やあ、すみません。お伝えし忘れてましたが、千尋様のボタンの押し加減が強ければその分速度の変化も大きなものになります」
つまり、千尋がそれだけ強くボタンを押したということ。公太は恨みを込めた視線を千尋へと送る。
――おい、千尋! お前俺に勝って欲しいんだ……ごめんなさいゴメンナサイ!
千尋は未だにグリグリとボタンを押している。その小さい白魚の様な手には血管がくっきり浮かび上がるくらいには力がこもっている。
『今までは一定のペースで速度が上がっていたと思うのですが、これはどういうことなんでしょうか、解説の室井さん?』
『うーん、恐らくなんですが、花巻君が今の問題を昭仁様と答えたことが余程気に入らなかったんでしょう。初恋の人がお父さんというのはよく見かけますが、アレは多くのお父さんによる希望的観測が入ってますからね』
『あー、なるほど。確かに私も初恋の人が父親だとか言われたらちょっと……いや、結構イラっときますね。千尋様のお怒りも尤もですね』
全世界のお父さんが泣き出しかねないことを語る容赦のない実況解説に会場中のお父さん達の顔色がやや悪くなったのは気のせいではない。昭仁氏に至っては真っ白な灰を通り越して、既に塵となりかけている。
しかし、今それ以上に旗色が悪いのは公太である。
ハイペースでのランは体力をゴリゴリ削るし、汗も滝の様に流れてくる。
未だ最初のウォーキングペースを保つ綾瀬の顔にはまだ一滴の汗も出ていない。
綾瀬自身も体力には相当の自信があることは経歴から明らか。このまま真っ向から戦い続けても公太の体力が尽きるのが先だろう。
――どうする、どうする……?
息を弾ませながらも策を頭の中に巡らせる。
まず綾瀬の自爆を待つという作戦が頭に浮かんだが、これは綾瀬の頭のキレっぷりを考えると現実的でない。
今みたいに千尋の機嫌を損ねる様な失策も綾瀬はしないだろう。
そうなると公太が綾瀬より先に問題に正解し続けることが残された手だが、これが最も確率が低いし、先ほども考えた通り体力が保つ気がしない。
――どうする? 綾瀬の方に飛び移って、奴をKOするぐらいしか思いつかない……!
疲労のあまりラフプレーという邪悪な思考をしていた公太は滴り落ちた自身の汗で足を滑らせて転倒。
「しまった……!」
ずでーん、と顔をモニターのどこかにぶつけた上に膝やら腕やらをコンベアに強かに打ちつけた公太はそのまま鬼の口へ吸い込まれそうになる。
『あーッと花巻選手転倒! これは万事休すか!?』
「おのれ……! ファイトいっぱーつ! ……ふんッ!……りゃああああああッ!!!」
頭の中にケイン・コスギを思い描きながら、公太は気合いの一声。何とか両脚を持ち上げ、バネを活かしてその勢いのままジャンプ。
鬼の鼻っ面の辺りに一度着地してそのまま踏み込み、再度ジャンプ。そのまま、ランニングマシンに復帰した。ランニングマシンの速度が上がっていることもあり、一瞬バランスを崩し掛けたが、持ち前の体幹により大崩れはせずにそのまま走り出した。
「すげッ」
隣で余裕の表情で歩いている綾瀬が目を大きく見開き、思わず素の反応をする。
『な、なんと! 花巻選手すごい身体能力だああッ!』
まるでスパイダーマンかはたまた調査兵団の様なアクロバットな公太の動きに、綾瀬贔屓の愛田も驚きの声をあげる。
『す、凄いですね……。まるで猿みたいですね』
公太を知っている室井も呆れ混じりの声をあげている。それにしても猿はいくら何でも失礼だと思うウキ。
『ルール的には大丈夫なんですかね……?』
愛田の声に室井は『そうですね……』と心配そうな声をあげる。クイズマンも判断に迷っている様子。
説明では鬼の口に飲み込まれた方が負けという説明はあったものの、それはつまりランニングマシンからの落下を意味している。今の公太の一連の動きはランニングマシンからの落下を避ける為のアクションとも取れるが、既に一度マシンから離れてしまっているとも取れる。しかし、
「カッコいいッ!」「がんばれ、イケメンじゃない方の兄ちゃん!」「足の速いお兄ちゃんカッコいいよ!」
公太の派手なサーカスの様な動きは小学生男児の心を鷲掴みにした様だ。小学生男児は派手な動きが好きなのだ。若干失礼な言葉も混じっているものの、それは間違いなく公太を後押しするものだった。
小学生達の声援に圧されたのか、クイズマンは少し考えると、
「今の花巻選手の復帰は認めます。しかし、一度ステージから離れている以上、2度目以降は認めません」
公太にとっては有難いジャッジが下された。
顔を上げると千尋と目が合う。
千尋は申し訳ないとばかりに小さく手を合わせているが、すぐに目を見開く。その顔は少し青ざめているようにも見える。
――なんだよ、流石にあんな間違え方した俺も悪いんだからそんな申し訳なさそうな顔しなくてもいいのに。
しかし、そういうことではないとすぐに気が付いた。
「あれ?」
自分の頬の辺りに生温かい感触がするのを公太は感じ取った。そして、これは汗ではない。出血しているのだ。
さっきこけた時か、と瞬時に思い至る。そういえば、顔をモニターにぶつけたし、転んだ後にコンベアで擦った様な気がする。
そこまで気が付くと、腕と脚の痛みにも気が付かざるを得ない。
走りに集中しながら視界の端でそれぞれの位置を確認すると丈夫な天月コーポレーションの制服が傷んでいるし、その箇所がヒリヒリする。恐らく軽く出血しているだろう。
だがそれ以上に問題なのはやはり顔。頬の辺りなのでほんなに出血は酷くないものの、ぶつけた後に擦っていることから見かけはなかなか酷い状態になっているかもしれない。少なくともヒリヒリ度合いが他の箇所の比じゃない。
「おい、大丈夫か?」
気が付いた綾瀬、そしてその綾瀬の声によってクイズマンも公太の異常に気が付いた。
『あーッと、花巻選手出血してます。大丈夫でしょうか!?』
愛田もその状況をキャッチし、大きな声をあげる。
サッカーとかだと出血しているとその間は試合に出ることが禁じられる。そのルールを踏まえるとこの状況はあまりよろしくない。
「元々俺はこんな感じの顔ですって!」
言ってて悲しくなる様な渾身の自虐と共にサムズアップ。
『解説の室井さん、本人はああ言ってますが、どうなんですか?』
『うーん、確かにそうだったような……。アレ? そもそもどんな顔でしたっけ?』
なんと悲しいことに室井の声はガチトーンである。
一緒に仕事をしたこの数週間は何だったのかと悲しくなるが、公太は元気をアピールする為にも走るペースを自ら上げてみせる。
クイズマンはその公太の様子を凝視し、重々しげに首を縦に振る。
「……わかりました。ただ、明らかに出血が酷くなったりしたらその場で止めます」
「あざます!(ありがとうございます)」
公太は殊更アピールすべく、体育会系っぽいお礼を告げ、そのまま走り続ける。
『どうやら、花巻選手続行のようです』
愛田の実況アナウンスに続いて、会場中から温かな拍手の音が鳴り響く。
『異常なさそうで良かったです』
さっきこそ冷静だったが室井もどことなく安堵したような声でそれに応える。
ふと、戦況を――いや、公太を心配そうに見つめる千尋と目が合った。
気にするな、と口角を上げて頷いて見せる。
しかし、千尋の表情は冴えることはない。
まあ、気にするなというのは無理だろうから今は無事を証明すべく、走り続けるしかないか。お互い様とはいえ、こっちとしても文句を言いたいところではある。これに勝ったら好き勝手言ってやる。
公太は目の前の勝負に集中すべく足を動かすことにした。さっきまでは息も絶え絶えだったが、不思議と今の方が身体はよく動いてくれている。ランナーズハイになっているのかもしれない。
「タフだな」
当然だが余裕の表情の綾瀬が隣から声を掛けてくる。
「ふん、当然だろ。空手黒帯の女子に言い寄ってボコられても全治3日で済んだ男だぞ俺は」
「そ、それはすごいね……」
公太のタフさかそれとも数多い恋愛失敗談によるものかは不明だが、綾瀬は若干引いている。だが、すぐに真顔となる。
「さっきから怪しいとは思ってたけど、花巻君。キミ、千尋さんのこと本当に好きなのかい?」
「そんなわけ!」
「?」
おっと、失言。
「そんな……そんな当然のことわざわざ言うまでもないぜ!」
「いや、もう流石に誤魔化しきれないでしょ」
慌てて言い直した公太にたいして綾瀬がシラッとした視線を向けてくる。
――シマッタ! この男やはり策士……!
自分が駆け引き下手だとは全く思わない公太である。
「千尋さんが好きなわけでない花巻君は何でわざわざ僕に勝負を挑んできたんだ?」
「それは……」
「それでは次の問題です!」
公太が言葉に詰まっていると、クイズマンから次の出題が。
「かの有名な推理小説、シャーロック・ホームズ シリーズの筆者の名前は?」
――これならイケる!
「コナン・ドイル!」
「花巻選手、正解です!」
「っし!」
公太はようやく綾瀬より先に正解することができたことで走りながら小さくガッツポーズ。知的でシニカル男がモテると思って一時期小説を読み漁っていた経験がここに活きた。
公太が正解したことによって、綾瀬のランニングマシンの速度が僅かに上昇したが、精々早歩き程度の速度。当然のように綾瀬の顔にはまだまだ余裕がある。
「やるね」
特段悔しがった様子もない綾瀬の声に公太は違和感を持つ。
「お前、まさかわざとか?」
綾瀬はさあ、と誤魔化そうとするが、今の問題より前のものについては連続で高速解答していた男がかなりポピュラーなホームズの問題で出遅れるとは考えにくい。
公太に疑惑の眼差しを向けられた綾瀬は改めて公太の方に目を向けながら自分の主張を正す。
「まだ話の途中だったしね」
舐めた真似を……! と言いたいところだが、公太にとって損はないので、「ふふん、後悔するぜ?」と悪役っぽい台詞を言うに留めておく。中途半端なプライドだけはあるのだ。
「僕がサービスしたんだから、答えてもらうよ。何で花巻君はわざわざ乱入してきたんだ?」
むっ、そうやって言われると弱い。
綾瀬雄大、案外強かな奴である。
だが、これまでの綾瀬のフェアプレーぶり、そして千尋とどこか共通している点がある彼に公太も好感を持っていた。だから素直に話すことにした。ランナーズハイで今は走れているが、この体力もいずれ尽きる。どうせ負けるなら、この目の前の紳士には思いの丈をぶつけてもいいのかもしれない。何より人の誠意には誠意で返すことが礼儀だ。
「……千尋と昭仁さんの話す機会を与えたいんだ」
「……」
綾瀬は黙って先を促す。
「千尋はずっと父である昭仁さんの敷いたレールの上の人生を歩むことに疑問と不満を持っていた。……でも、それを父親に伝えることはしてこなかった。……昭仁さんも何で自分がこんなにも千尋に過保護なのかということの真意を伝えようとしていなかったんだよ」
荒い呼吸によって途切れ途切れになりながら、公太は懸命に言葉を紡いでいく。
「そんな状態じゃ、どんな選択を取ったところでシコリは残る。……俺は分かるんだよ。告ってはたっっくさん振られてきたからな。でも、振られても俺は言いたいことは言えてたからか、振られて数日経てば復活さ。……これって今回も同じことなんじゃないかって思った。まあ、最初は千尋が言いたいこと言えてないと思っていたんだが、ここに来て親父もそうと来た。だから2人が後悔しないようにせめて、俺が勝つことでどうしようもなくなる前に話す機会を与えたかった。……それだけだよ。ただのお節介で自己満だけどな」
一気に色々話したことで公太はどっと疲れを感じた。マズイ、流石にスタミナ切れだ。急に肺もキツくなり、脚がもう鉛のようだ。最後に綾瀬に託さなければ。
「綾瀬、敵にこんなこと頼むのは大変格好悪いことだと思うがお願いだ。もう、俺は限界だから千尋のこと頼んだよ。親父さんと話すように伝えてくれ……」
掠れ掠れになりながら、公太は思いを託そうとするが、綾瀬はふっと鼻を鳴らす。
「嫌だね、断る」
「……そうか」
元々千尋が本当に好きで結婚できそうなところで、公太というおじゃま虫が現れてわざわざこっちの要求を飲んで、こんな勝負の場まで赴いてくれたのだ。綾瀬はもう十分すぎる程に寛大に対応してくれたのだ。これ以上自らの恋路を茨の道にすることはない。公太は納得できた。
彼だったら千尋を邪険に扱うこともないだろう。
「それは花巻君、キミの口から伝えるんだ」
「えっ」
綾瀬はそう言うと歩く足を緩め、そしてピタリと止まる。
「お、おい」
公太が呼び掛けると綾瀬は満足そうに微笑み、右手を突き出し、親指だけ立てて見せる。
「楽しかったよ、花巻君」
それだけ言うと綾瀬は鬼の口に飲み込まれ、ヌルヌルの液体の中へと放り込まれる。
『こ、これは! 突如綾瀬様が足を止めてそのまま鬼の口の中に放り込まれてしまったーッ!』
突然の綾瀬の奇行に、愛田だけでなく、会場中もざわついている。
「あ、綾瀬選手が落下したので、この耐久クイズマラソン、勝者――花巻公太!」
クイズマンのジャッジが下されると、公太のランニングマシンの速度が緩み、やがて止まる。公太はへたり込みたいところを何とか膝に手をつくまでで堪えた。流石に疲れた。転んだ箇所も結構痛むし、座ってしまいたいが、どうしても確認したいことがある。ヨロヨロと綾瀬の方へと近づいていくと、綾瀬もそれを予期していたのかヒョコっとすぐに姿を現す。
「おめでとう、花巻君。キミが千尋さんの花婿だ」
そう言って右手を差し出してくる綾瀬の姿はヌルヌルであるものの、爽やかである。だが、差し出された右手もヌルヌルしているので公太はどうしようかと逡巡。
だが、中途半端に差し出された公太の右手を綾瀬は掴み引いて、公太も鬼の口へと引きずり込んだ。
「うげえ!」
公太もヌルヌルの仲間入りを果たした。
「な、何しやがるッ!」
「あははははッ」
いきり立つ公太に対して綾瀬は心底楽しそうに大きな声で笑う。
「僕はキミにお礼を言いたいんだよ。キミがこんな無茶しでかしてくれたお陰で僕も不満を溜め込んでいるくせに親父に何も話そうとしていなかったことに気付かされた。僕も一からやり直してみようと思う」
そう言って綾瀬は父のいるテントの方へ目を向ける。綾瀬の父は唖然とした表情を浮かべていたが、綾瀬と目が合い、その表情を見るとどこか眩しそうに目を細めた。
「そうか……」
公太は自分が勝てたのは綾瀬の心変わりのお陰だということへの感謝やら何やら、綾瀬に頑張ってほしいという複雑な心境で何を言えばいいか分からなくなった。だから敢えてそれらを述べるより前に疑問をぶつけてみた。
「ところで何で俺をヌルヌルにした?」
公太がそう言うと綾瀬はニッコリ微笑む。
「だって本来は俺が勝って、千尋さんと結婚できそうなところ今回は勝ちを譲ったんだからこれくらいはいいでしょ?」
「……違いないな」
全くコイツも良い性格している。得心のいった公太は改めて綾瀬に手を差し出す。
「その、ありがとうな。それと応援してる」
「うん、ありがとう。頑張るよ。……それとまたね」
綾瀬は公太の手をぐっと握る。ヌルヌルした感触だったが、確かな力強さを持つそれは綾瀬の気持ちの強さを感じさせた。
2人の握手を見届けた会場からは割れんばかりの拍手が鳴り響いた。
その音によって公太も終わりを改めて認識できた。
辺りを見回すと、中には涙を流している小学生の姿も見受けられる。この勝負のどこに泣ける要素があったかは不明だが、悪い気分ではない。
そして千尋と目が合う。正直自分がここまで追い込まれた理由の半分くらいは千尋によるものであるが、今はそれは言いっこなしだ。
『色々と分からないところはありましたが、改めて花巻選手が勝利致しましたので、天月千尋様の花婿は花巻選手となりましたあッ!』
実況の愛田がそう叫ぶと、室井と共にこちらへと走ってくる。
「では、今からここで挙式を致しますね」
愛田がマイク越しでなく、直に公太にとんでもない事実を告げた。
「え、もうここで結婚するの?」
「ええ、なんなら婚姻届も用意してあります」
何というスピード展開。それだけは阻止せねば。
とりあえず綾瀬との結婚を阻止して、その後のことはその時考えようとろくに作戦を立てていなかったことが裏目に出た。だが、ここまで話が進んでいるのなら考えている場合ではない。幸い先程勢いに任せて、昭仁氏には言ってある。
「ちょっと待ってください。社長! 千尋!」
公太が愛田にタンマを告げてから声を掛けると、昭仁氏はもうそのつもりだったのかすぐそばにいた。千尋はその昭仁氏の様子を見て、口を引き結びながらゆっくりと近づいてきた。
「社長、約束です。俺が勝ったので千尋と話してください」
「まさか、本当にキミが勝つとはね。一体どんな手を使った?」
昭仁氏の顔に怒りはなく、寧ろ感心した様子すらある。だから、公太も肩を竦めてみせる。
「なに、実力ですよ実力。さ、約束を果たしてくださいね」
公太は千尋の方へ視線を向けながらそう言う。
「お父さん……」
千尋は緊張の面持ち。
「……千尋」
千尋はゆっくりと息を吸い、それを吐くと昭仁氏を見据える。
「私、今は結婚なんてしたくないんだ。ううん、それだけじゃない。天月の名前とか関係なく、もっと自分の意思で歩んでいきたい。ずっとそう思ってた」
「それは知っているよ。でも、何も父さんは意地悪でそう言っているわけじゃないんだ。私は――」
「私のこと心配してくれているんでしょう?」
「知っていたのか」千尋の言葉に昭仁氏は目を見開く。
「今時は会社の歴史くらいなら調べられるしね。それにお母さんが教えてくれた」
「そうか、そうだよな……」
「でもね、それでもね。確かにお父さんが思うように怖いことだっていっぱいあるし、嫌なことだっていっぱいあるかもしれないけど、私は私の選んだ道を歩んでいきたいんだ。それは今までもそう思ってたけど、今回少しの期間室井や公太と行動して、より強くそう思ったんだ」
その言葉自体はただ感情を、己の願望を放っているだけだが、千尋の確かな意思が宿っている。
「まあ、私やっぱり何だかんだ天月の名前に甘えていたんだなって気付かされたし、室井や公太に頼りっぱなしなんだけどね」
そう言う千尋は恥ずかしそうに頭を掻く。
「久しぶりだな」
「へ?」
「千尋がそうやって私に素の姿を見せてくれるのは」
「……」
「私もだよ。私は自分が正しいと思いながらも、どこかで迷っていた。いや、最初は自信はあった。でも、千尋のどこか抑えたような表情を見るたびにその自信は薄れていった。だから、段々千尋と話すのが怖くなってしまったんだ。……本当はもっと早くこうやって話すべきだったのかもしれないな」
「お父さん……」
千尋の目にはうっすらと涙が浮かぶ。
「ごめんね……。私はお父さんの考えを知っていたのに、知らないフリをして……。私の方こそ逃げてた。もし、自分の考えを否定されたらどうしようって……」
昭仁氏は溢れてきた涙をぬぐう千尋の肩にそっと手を置く。
「こちらこそ、申し訳なかった。私のやっていたことは千尋を守っているつもりで、ただのエゴに他ならない。だからこれからのことはもっと話し合おう」
「うん…………うん!」
そうやって頷く千尋の顔は今まさしく照り付けている太陽より眩しかった。
*
『……ぐすん、ひくッ! 何だか私まで泣けてきました……おっかさん、おっとさんに会いたくなりました……』
いつの間にか実況席に戻った愛田は郷愁にかられた様子でそう言うとあれ、と首を傾げる。
『結局、今回の対決って千尋様の花婿を決めるためのものだったと思いますが、それはどうなるのでしょうか?』
すると同じくいつの間にか解説のポジションに戻った室井はそうですね、と同様にやや涙声で一呼吸置いてから話し始める。
『そもそも、今回の対決は昭仁様のご意向の元で行われたものです。しかし、たった今お2人の間で今後のことはしっかり話し合うという風に決まった以上は、この場で必ずしも花巻君と結婚しなければいけなくなったわけではございません』
「おお」
上手く話をまとめる室井に公太は感心の声をあげる。これで当初思い描いた持っていきたい方向に行けそうだ。
『しかし、』
「ん?」タメを作る室井に何だか嫌な予感を覚える。
『もし、この場で千尋様が花巻君と結婚したいといったことであればそれも可能となります』
室井の言葉に会場中がおおーッ! と声をあげる。しんみりとしたムードから急に盛り上がってきた。人類は基本的には他人の恋愛沙汰が大好物だというのは本当のようだ。
――ちょっと室井さん、何してんすか! せっかく綺麗にまとまりかけたのに!
『それもそうですね! 会場の皆さんもせっかくこの場に集まったんだからどのような結末になったか知りたいですよね? 千尋様はいかがですかね?――あ、大丈夫そうですね」
2人の呼びかけが聞こえたのか、千尋はスッキリした表情で両手で大きく丸を作っている。
それを唖然と見つめる公太と目が合うと千尋は、ふいと目を逸らした。
「?」その仕草が公太には何となくであるが、不自然に見えた。
『それでは、千尋様、今回の企画の勝者である花巻選手、こちら前方へどうぞ!』
千尋は既にそちらへと向かっているが、公太の足取りは重い。何故見ず知らずの人達の前でこんなことをしなければならないのか。だがこの観衆と出来上がっている空気を前に拒絶は難しい。公太も渋々と向かい、千尋と向き合う。
「!」
そこで公太は気が付く。これは気のせいではない。
何と千尋の頬がほのかに朱に染まっているのだ。公太はここで「夕陽が射しこんでいるせいだろう」とか勝手に訳の分からぬ解釈をするラブコメの鈍感系主人公ではないし、ましてや今は昼間。夕陽が射しこむまでまだ数時間ある。
そうなると考えられる理由は1つ。そこに行き着くと公太の胸も自然と高鳴る。もしかしたら、この戦いに必死な公太を見て、千尋の中で何か心を動かされることがあったのかもしれない。
千尋はじっと公太を見据え、公太も照れ臭くなりながらもしっかりとキメ顔を作りその視線を受け止める。もし、自分が今考えているような状況になったらどうすべきなのか。その考えがまとまらないうちに愛田が話を進める。
『さあ、千尋様。今回の対決に見事勝利した花巻選手は千尋様に求婚をする権利を獲得しました。しかし、千尋様がそれを受けるかどうかは別です。さあ、千尋様、いかがでしょうか!?』
愛田の煽りに乗っかり、小学生達は「キース! キース!」と盛り上がり、大人達もワクワクを隠し切れない様子で中にはスマホで録画している者もいる。
千尋は公太の目を覗き込むように見ると俯く。やはり、気のせいではない。千尋の頬は――いや、顔全体が仄かに赤い。これはもう確定である。
「公太……」
「お、おう……」
「私……、私、」
「うん……」
言いよどむ千尋。それを見てか最高の盛り上がりを見せていた会場もシンと静まり返り、2人の様子を見守る。
公太もそんな千尋を見て思う。
彼女は明朗快活で天真爛漫だが、本来は他人思いの気遣いだ。そんな彼女が今大勢の前で自分の生まれたばかりのキモチを、初めてのキモチをさらけ出そうとしている。きっとそれは怖いはずだ。だから、お節介かもしれないが、口を出すことにした。口に出さねば伝わらないことがあると今日この場で改めて学んだのだから。
「その、千尋アレだ。どんな内容でも俺はしっかりと受け止めるから……」
公太のその言葉に千尋はハッとする。
「うん、分かった。恥ずかしいけど、伝えるね……」
「お、おう……」
澄んだ瞳と声に、自分で促しておきながら照れてしまった。
「私……私は……」
「うん……」
それでもやはり恥ずかしいのか、微かに間が空く。
皆が見守る中、誰かがごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。そして、いよいよ意を決したのか千尋は真剣な眼差しから一転、覚悟を決めたような柔らかな面差しとなる。
「私、公太と…………花巻公太と結婚したくありません!!!」
「………………え」
全く逆の結果を想定していた自意識過剰男こと、花巻公太が大勢の目の前で振られた瞬間だった。
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