プロローグ③ 青年、令嬢と出会う。
「公太、アンタにはスパイになってもらいたいの」
「スパイってあのスパイ? 敵地に潜り込んだりする?」
決して普段から使うことはない単語だが、小説や漫画が大好きな公太にとっては聞くとワクワクする単語である。
千尋は公太の言葉に首を縦に振る。
「そう、そのスパイ。公太にはスパイとして天月コーポレーションに入って欲しいの」
「いや、ちょい待ち。全然話が見えてこない。何? 千尋は天月コーポレーションと敵対する会社の隠し子だったとか?」
「滅茶苦茶失礼なうえに全然違う。これまでも散々複線張り巡らせているのに、公太って鈍感だね。モテないでしょ?」
「そっちのが失礼だろーがッ! モテモテのモテまくりだっつーの!」
目を吊り上げて断固抗議する公太に対して、あー、はいはい、そうねと大して興味なさそうに言う千尋。
「さっきも言ったでしょ、今天月コーポレーションでは一大プロジェクトが進んでいるって」
「あー、あの【千尋ちゃんをパパのもとへ】っていう最高に頭悪そうな」
「そう、それ。それで人手が不足しているってのはさっきも話したけど、私にとってはそのプロジェクトが進むのは美味しくないのよ。このプロジェクトの概要なんだけど、私を天月コーポレーションに入れる、ないしはお父さんの知り合いの会社に入れる、更には私の結婚までを視野に入れているんだ」
ふむ、なるほど。〈頭悪そう〉ではなく、〈頭が悪い〉プロジェクトである。
「でも私は自分でやりたいことやりたいし、結婚だって自分の好きな相手と好きなタイミングでしたい。けど、お父さんはそんな私を他所に色々な方面に話を進めようとしている」
「ほう」
「私としてはその話を進められたくはないけど、私が家出を繰り返したりした所為でお父さんの私への警戒はかなり高まっている。そこで、公太がお父さんのプロジェクトを手伝うフリをして、裏では私に協力して欲しいの」
なるほど、千尋の言いたいことはよく分かった。そのうえで気になることがあるので公太は慎重な口ぶりで問い掛ける。
「千尋の狙いはよく分かった。だけど、そもそも俺がそんな簡単に入ろうと思って入れるのか? 千尋の口添えがあったら却って怪しいだろ」
「おお、公太にしては良い質問だね。うん、公太の言う通り私の推薦ではどう考えても怪しまれる。ここで、私の強い味方である室井の登場です」
千尋のその言葉と共にシュバっと音を立てて、長身の女性が姿を現す。
「初めまして、天月コーポレーション秘書課所属――そして天月コーポレーション一大プロジェクト【千尋ちゃんをパパのもとへ】の最高責任者である
恭しい仕草で一礼したその女性は公太より少し年上かと思われる。高い位置で結ばれたポニーテールが特徴的なパンツスーツに身を包んだ美女は公太に向かって洗練された仕草で名刺を差し出す。最高レベルのビジネスマナーから繰り出されたその名刺には今名乗った所属の課と残念過ぎるプロジェクト名が記載されていた。これを受け取った事情を知らない取引先はふざけているのかと怒りだすに違いない。
「あ、はい。ご丁寧にどうも。花巻公太です……」
公太は勿論名刺など持っていない。いや、正確にはクビになった元職場のものならあるが、そんなものは渡しても意味がないので最低レベルのビジネスマナーに基づくお辞儀のみ。
「さっき千尋がチラッと名前出していた人だよな。もしかして、この人も?」
千尋がそのとーりと得意げな顔で頷くと室井は無表情で頷く。
「花巻様がお察しの通り、私は千尋様の味方です。表の姿は昭人様の愛人にも見えなくもない優秀な秘書。裏の姿は愛する千尋様の犬というわけです」
「……そうですか」
聞き捨てならないワードがサラッと散りばめられていたが、とりあえずは話を円滑に進めるために公太は話を進めようとする。
「なるほどな、この室井さんに口添えしてもらうってことだな」
「うん、そういうこと。今室井が言ったように室井は私の味方。表向きはお父さんのプロジェクトに取り組んで、裏ではひっそりと妨害工作しているんだよ。それを公太にもやってほしいってわけ。どうしたって、室井1人では無理が出てくる場面もあるだろうし、男手も必要になるかもしれないしね。勿論表向きは天月コーポレーションの社員だから給料もばっちり出るよ」
千尋の狙いを聞いた公太は目を瞑り、ひとつ大きく息を吐く。そして目を開き、自分の意思を伝えるべく千尋の目をしっかりと見据える。
「断る」
公太の返答を聞いた千尋は大きく目を剥く。
「はあッ!? なんで!? こーんな可愛いお嬢様とこーんな美人な先輩と一緒に仕事ができるんだよ!? 断る理由がなくない?」
「そんな、千尋様、美人だなんて……」
室井は頬を赤く染め、前髪を弄っている。
そんな室井に一瞬見惚れて判断に迷いが生じたが公太は自身の健康的で文化的な最低限度の生活の為にも自身の固い意思を伝える。
「いや、だって冷静に考えて何で俺がさっきまでただの赤の他人だった千尋のためにそんな危険な役目を買って出なくちゃいけないんだよ」
「え、私の人生のためだけど?」
「いや、駆け引き下手糞かよ!」
公太の珍しく尤もな指摘にも千尋は心を動かすことはない。千尋はただ一言、自身の犬を名乗る年上の女の名を呼ぶ。
「室井」
「はい、アレですね」
「……アレ?」
首を傾げる公太に室井は自身のスマートフォンの画面を突きつける。
「こ、これは――」
その画面に表示されていたのは写真。
写真は決して可愛い犬の写真だったり、インスタ映えしそうなスイーツの写真でもない。そこに映っていたのは千尋に対して何かを訴える公太。恐らくさっきから密かにつけていた室井が撮影したものだろう。そう、それだけならまだ構わない。問題は背景のお城のようなシルエットの宿泊施設。ご丁寧に御休憩〇〇円とやらまで映されている。
公太は自分の背中から急に冷や汗がダラダラと流れ始めたことに気が付いた。
「これは先程の花巻様が千尋様に〈お礼〉を強要しようとしていた場面です」
「…………」
唖然としている公太をよそに千尋は悪びれることもなく、勝利を確信した表情を浮かべる。
「まあ、急だったうえにこっちも強引だったからね。公太がやりたくないならしょーがない。この写真はネットとかにはバラまいたりはしないけど、何かの拍子にお父さんに見られたりすることくらいはあるかもね」
公太はテンパりながらも自分の娘がこのような繁華街にで男に必死な表情で何かを訴えられているそのシーンを捉えた写真を見つけた時、それをどう解釈するか考えてみた。……どう好意的に捉えてみても口説かれているようにしか見えない。
公太の焦りを見透かしている千尋は更に畳みこんでくる。
「多分、この写真をお父さんが見つけたら実際に何もなかったとしても、誤解されちゃうよね。……うん、大丈夫! しっかりちゃっかり保管しておくから」
素敵なウインクと共に素敵な脅迫をするその姿はお嬢様などではなく、悪役令嬢というやつだ。
「参考までに天月コーポレーションは銃器類の開発にも最近力を注いでおります」
室井の物騒極まりない言葉は完全にダメ押しとなった。――マズい、断ったらハチの巣にされてしまう!
「い、いやあ! 実は俺、天月コーポレーションでずっと働きたかったんだった! 忘れていたよ!」
手首が千切れんばかりの掌返しをする公太に千尋はまだ白々しくも申し訳なさそうな表情。
「いや、なんか私達が脅したみたいになってるし、いいよ。無理しないで」
みたい、ではなく完全に脅迫しているだろうという言葉を飲み込み、公太は席を立ち、両膝、両手、頭の順で地面にくっつける。本日2度目の土下座である。
「この私めをどうか貴方の下で働かせて下さ――――いッ!!」
公太の大声と土下座により店内は一瞬の静寂に包まれた後、ざわざわとどよめきが起こる。
「ママ―、あの人どうしてあのお姉ちゃんたちに頭下げてるのぉー?」
「しッ! 見ちゃいけません!」
等という定番のやり取りが聞こえてきた。公太の社会性は現在進行形で失われつつある。
そして、ピロリン♪ という音が。公太が顔を上げるといつのまにやら室井がスマートフォンのカメラをこっちに向けていた。その隣では千尋が勝者の笑みを浮かべていた。
「言質も取れたし、決まりだね。この土下座写真は証拠として取っておくから」
――こ、この外道がッ!
しかし、この怒りをぶつけるわけにはいかない。まずは自分の命が最優先である。
「ようこそ、天月コーポレーションへ」
室井は相変わらず無表情だが、千尋は無邪気な子供の様に笑った。
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