流れ星の隣にいて

尾崎中夜

流れ星の隣にいて

 高校二年生の夏。

 その日は一学期の終業式で、クラスメイトはみな、朝のホームルーム前から夏休みをどう過ごすか、そんな話題で賑やかだった。

 ところが、この賑わいも佐藤さんが教室に入ってきたことで、しん――と静まり返った。

「みんな久しぶり!」

 元気よく入ってきた彼女は、不登校中のクラスメイトだった。

 進級後の二週間は学校に来ていたが、なぜか急に来なくなった女の子。新しいクラスに馴染めずに寂しい思いをしていたとか、進級早々いじめにあったとか、そういう話はなかった、と思う。「ぼっちくん」「ぼっちさん」は悪い意味で目立つ存在だし、いじめがあったとしたら――それがたとえ裏でこっそり行われているものであったとしても――雰囲気でなんとなく分かる。

 はじめの頃は「風邪かな?」と心配する子達もいた。「ちょっと早めのGWじゃね?」とネタにする男子もいたが。

 佐藤さんは、GWが明けてからも学校に来なかった。

 ――佐藤はしばらく学校を休むことになった。

 担任からの説明もこれだけだった。

 クラスメイトのリアクションも「ふぅん」だけで終わった。僕もだ。

 そんな子がまさかいきなり学校に来るなんて誰が思うだろうか。

「ユカちゃん、元気してた?」

 たとえば、ずっと不登校だった子が勇気を振り絞って学校へ来ました、でもどこか暗い顔で俯いている。無理に明るく振る舞おうとしてかえって痛々しい姿を晒している。――そういった分かりやすい状況に陥っていたのなら、僕も同情しただろう。話しかけようとは思わないけど。

「おはよう! ねぇねぇ、昨日のドラマ観た? あ、見逃しちゃったか。でも大丈夫。あのドラマ、明後日ぐらい動画サイトで配信されるっぽいよ」

 佐藤さんは元気いっぱいだった。学校に来なくなる前、一緒にご飯を食べたりしていた子達のもとへとあちこち回っている。

 ……なんだ、あいつ。……テンションやばっ。……なんかキメてんだろ、絶対。

 そりゃ変な空気にもなる。

 関わりたくないなと、僕はなるべく佐藤さんのほうを見ないようにした。

 それがどうしてあんなことになったのか。

「青井くんもおはよう!」

 いつの間にか彼女が目の前に立っていた。

 それだけでもびっくりしたのに、彼女はこう続けたのだ。

「青井くん、今夜二人で流れ星を見ようよ」

「……僕?」

 何かの冗談、あるいは久しぶりの学校でハイになり過ぎて誘う相手を間違っているんじゃないかと思った。

 しかし、彼女は「ううん」と首を振り、ニコッと笑って言った。

「私は、青井くんを天体観測に誘っているの」


 家に帰ったあと、僕はギリギリまで《行くか》《行かないか》の二者択一に悩み続けた。

 ――よかったな。ご指名だぜ!

 みんなは気楽に親指を立てたり、肩を叩いていればいいさ。

 だけど、僕はそうもいかない。そもそも一度も話したことないのに、どうして? こんなのプチホラーじゃないか。

 佐藤さんが学校に来なくなる前、何かそれらしいエピソードがあったか、彼女に好意を持たれるようなシーンがあったかどうか、どれだけ考えたところで、何一つ思い当たるものはなかった。

 いや、難しく考えることなど何もないのか。

 そう。答えがこれ以上ないぐらいシンプルなものだとしたら、それはそれで頭を抱える事態である。

「でもなぁ」

 僕は結局、開いていただけの数学の参考書を閉じていた。

 スマホで時間を確認する。午後七時四十五分。――待ち合わせ時刻は八時だ。

 自転車なら待ち合わせ場所の公園まで五分で行ける。

「母さん、ちょっと出かけてくるね」

「こんな時間に? どこに?」

「ちょっとだよ。友達が近くに来てるって」

「近くに来てるなら、わざわざあんたが行かなくても――」

「一時間ぐらいで戻るから」

 僕は母さんの言葉をそこそこに、家を出た。

 お人好しで待ち合わせ場所へ向かうわけではない。

 時間になっても来ない僕を一人で待ち続けている佐藤さんの姿を想像したら、胸が痛くなったからだ。仮に僕が約束を破ったとしても、彼女なら九時でも十時でも、いつまででも待ち続けていそうな気がするのだ。

 もっとも、約束と言っても

 ――私は、青井くんを天体観測に誘っているの。

 彼女は人の返事も聞かないうちから指切りげんまんをして、「待ってるからね。バイバイ」と行ってしまったのだが。

 自転車に跨った時、佐藤さんは家の人をどう納得したんだろうかと、ふと思った。

 ずっと学校に行っていなかった娘が、急に友達と会う予定ができただなんて、それもこんな時間に?

 いや、佐藤さんの家の事情までは知ったことじゃない。

 僕は力いっぱいペダルを踏み込み、自転車を発進させた。


「あ、来てくれた!」

 電灯のそばのベンチにちょこんと座っていた佐藤さんは、僕の到着に声を弾ませた。

「やぁ……どうも……」

「わぁ、本当に来てくれた。来てくれちゃったよ」

 小さな公園のベンチで一人。砂場と、遊具はブランコしかない、寂しい箱庭のような場所で、セーラー服の少女は僕のことを待っていた。

 健気だなと思った。ただ、セーラー服のままでいる彼女に軽く驚きもあった。まさかとは思うが、家に帰らずそのまま来たんじゃ……。

 いや、これ以上は考えまい。

「ここ座って。大きめのハンカチ敷いてるから、座ってもジーパン汚れないよ」

「ありがとう」

「もうちょっと端に寄ったほうがいいかな?」

「大丈夫。座れるよ」

「狭いベンチだけど、いけるっぽいね。青井くん小柄だし!」

 悪気はちっともないのだろう。ただ、身長が百六十ちょっとしかない僕に、彼女の言葉は引っかかった。

「――今日は来てくれてありがとう。流れ星見られるといいね」

 佐藤さんは、それをまるで他人事のように口にした。

 今さら驚くことでもない。

「……どうだろう。今夜は雲がびっしりだけど」

「そだね!」

「佐藤さんって天体観測とか好きなの?」

 とりあえず、僕から話しかけてみた。

「ううん、全然。青井くんはさ、かき氷とか好き? 私がよく通っているうどん屋さんね、夏になるとかき氷も出すんだけど、店長さんがすっごく盛りまくるの。見て見て。――あ、もっと寄って。この写真、中学の時に撮ったやつなんだけど、この盛りヤバいでしょ?」

 相手にいい印象を与えたくてずっとニコニコしているとか、女の子慣れしていない同級生にアプローチをかけているとかなら、まだ分かる。そんな手が使える子なら僕は今頃カチコチに緊張しているだろうし、彼女ともう少し真面目に向き合っていただろう。

 コミュニケーションが壊滅的に取れない、というわけではない。

 ただ、彼女とこうして話してみると「どうしてこんなに明るく元気いっぱいな女の子がずっと不登校でいるのか?」その理由が僕にもなんとなく分かってきた。

 話題があっちこっち飛んだりするぐらいならついていけるが、彼女とは会話のテンポが微妙に合わないのだ。よく知らない相手と電話越しに話しているみたいで、お互いの呼吸が分からないから、たびたび声がぶつかってしまう。

 ズレや違和感は本当に微妙なものなのだ。だからこそコミュニケーションが物凄く取り辛い相手だった。

 彼女と過ごす時間は、時の流れがひどく遅く感じられた。


「――流れ星、今夜は見られそうにないね」

 僕は頃合いを見て、佐藤さんの話を遮った。なるべく淡々とした声で言った。

 十分も経たないうちから会話に疲れ始めていたというのに――八時五十五分――我ながら一時間近くよく頑張った。

 最後に一応空も見上げてみた。空は、流れ星どころか月さえ見えないほど隙間なく雲が埋まっている。

 僕が「そろそろ」と切り出す前、佐藤さんは「私ね、クラスで一番平泳ぎが速かったの」と小学生の頃の話をしていた。彼女の話はすべて高校よりも前のもので、話の聞き疲れよりも、僕はそのことがだんだん辛くなってきたのだ。

 僕はベンチから腰を上げ、「送ってくよ」と佐藤さんに言った。

 せめてそのぐらいはしてあげよう。流れ星を口実にして(口実にさえなっていなかったけど)、クラスの男の子をこうして夜のデートに誘った。純粋な子だとは思う。

 だけど僕は、佐藤さんといる間に一度も「どうして僕を誘ったの?」と訊かなかった。

 訊いたところでどうなる? 

 僕が単に自意識過剰だった、それなら何の問題はない。あとで一人、布団の中で悶えればいいだけだ。もしも「実は……」と想いを打ち明けられたら、その時、なんて返せばいい?

 結局のところ、僕は好き嫌い以前に、佐藤さんにそこまで興味を持てなかったのだ。

 彼女とのひと時の中で、心に少しでも触れるものがあったなら、不登校のことや僕を今夜呼んだわけなど訊ねただろう。話の流れ次第でもしかしたら「学校に来ない?」と励ましの言葉さえ口にしたかもしれない。

 佐藤さん自身、肝心の話題に何も触れなかった。だから僕も訊かなかった。変に関心を示したら、あとあと面倒なことになりそうな気がしたから。

 夏休みが明けても、この子は学校に来ないだろうな――。

「帰ろう」

 今さら意識する相手でもないと、僕は照れもなく佐藤さんに手を差し出した。

 その手を満面の笑みで握り返してくると思った。彼女の手のひらの温かさだけはこれからも覚えておこう、僕は密かにそう思った。柄にもなくシリアスな自分にちょっと酔いながら。

 ところが、佐藤さんは僕の手を取らなかった。

 その代わりに僕の目をじっと見つめながら、唐突に「ごめんね」と言った。

 本当に申し訳なさそうな表情で言われたものだから、僕はドキッとした。

「青井くん、私のお願いを聞いてくれる?」

 

 三つの願い事を言い終えた佐藤さんは、僕が呼び止める間もなく、

「今夜はありがとう」と手を振りながら公園を去っていった。

 

 佐藤さんは、夏休みが明けても学校に来なかった。

 ――みんなに残念な知らせがある。佐藤は学校を辞めることになった。

 担任の言いかたは、いつか「佐藤はしばらく学校に来ない」と言った時と同じだった。クラスメイトの反応も前と同じで「ふぅん」

 僕だけが唇を噛みしめていた。

 歯型が残るほど噛みしめていないと、透き通った青色のような何かが、いまにも零れてしまいそうだったから。

 

「何かあったかグループラインで報告しろよ!」と言っていた連中も、僕が《何もなかったよ》と適当に返した際、《嘘つけ》《アレは使った?》《で、告ってきた?》と、しばらくはからかいのメッセージを連投していたものの、翌日にはもう、佐藤さんのことが話題にのぼることはなかった。

 そんなものだ。

 僕だっていずれは佐藤さんのことを忘れていくだろう。

 まともに話したことのない不登校の女の子と一時間ちょっと喋っただけだ。別れ際は胸が締めつけられるほどの感傷を覚えたが――なぁに、二年もすれば忘れるはずさ。

 ……そう思っていたのに、二十七歳――あれから十年経った今でも、僕は佐藤さんのことを覚えている。

 髪型とか、身長とか、胸の大きさとか、セーラー服の着こなしとか、外見に関してはあまり思い出せないのに、彼女が最後に口にした三つの願いだけは、僕の中で今も鮮やかに残り続けている。

 二十七年の中のたった一夜、それも一時間とほんのちょっと。小さな公園の狭いベンチに二人でいた時間なんて、それこそ瞬き一つしているうちに消えてしまった流れ星のようなものなのに。


 ――青井くんが今夜のことをずっと忘れないでいてくれますように。

 でも、あやふやなものばかりだからこそ、思い出は色褪せず、甘く切なく残っているのかもしれない。 


 ――青井くんが私のことをずっと覚えていてくれますように。

 君は元気にしているだろうか。


 ――青井くんが、あと五分だけ、私の隣にいてくれますように。

 僕のことを、今でも覚えているだろうか。

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