第60話 七月二日➄
太陽が次の日を迎えに行って、紛い物である月というただの衛星がやってきた時、僕は病院の屋上にいた。あからさまなフェンスがここの場所を死に一番近い場だということを意識させ、周囲に比べて明るすぎる電灯がそれを相殺しようと躍起に見えた。そうとはいえ、大分余裕をもって設置された境界は踏み越えたとしても、もう一段階、心に覚悟を問うような若干のストロークがある。そうしてやっと死の舞台に立つことができる。
僕は屋上の入り口の外壁を拡声器担ぎ登って高い位置に行き着いてそのフェンスを越えた。舞台の五歩前で止まる。
人が大勢この病院を取り囲むように集まってきていることが分かる。
やはり、人の口に戸は立てられぬということなのだろう。
でも、これは、今更だ。本当に。
時計は七時四十七分を指しているが、高台から見ることによってゴミではないにしてもかなり小さく人々を視認できた。なんというか、集まるだけ集まって何もしない、何かを待っているように見える。
たとえ僕らがここにいることを知っていても知らなくても相違なく、彼らの行動を僕らが規制する手段はないのだ。
昇吾さんの警備会社の人たちはもちろんいてくれてはいるが、そんな屈強な完全防備の人種が突然病院の前に立っていても、あからさまで居場所を伝えているようなものだし、何しろ一警備会社は危害を加えていない人物の行動を咎める権利を所有していない。
出来ることは行動を見守ることだけ。
だからその代わり、僕が今ここでこうして一声で一斉に一切合切、委細に関係なく、終止符を打つ。
病院の非常用に導入されていた学校と同じような放送機能にも接続した拡声器でもって叫ぶ。
『俺はあの夢の男だ。この病院の周囲にいるあなたたちに伝えたいことがあって、ここにいる』
若干ハウリングしたまま続ける。
『あの子供、俺の甥っ子は、す……』
映画でしか聞いたことのない音が腹部の未経験な痛みに遅れてやってきて、僕はその場に倒れる。一緒に落ちた拡声器が騒がしい。それと同時に下のほうからもざわざわとした声がほんの少し聞こえる。
明らかに赤く濡れた腹部がリアルに感じられ過ぎて、飛びかけた意識が戻り、逆に痛みは感じなくなってきた。
同じように横たわっている拡声器を寝ころんだまま、手繰り寄せる。
『生まれた。
『生まれたんだよ、もう。
『君たちがさ、明日だと思って今日のうちに何か行動しようと、何か未来を変える行動をしようと集まった時にはもう、赤子はこの世に生を受けていたんだよ』
時折感じる痛みを紛らわすために、仰向けで大の字になり、顔の右側に拡声器を置いてみる。
『だって、所詮は夢なんだぜ。現実じゃない、虚構なんだ。
『俺も驚いよ。だって、今朝まで子供について憂いてた姉貴がさ、昼過ぎに急につわりが来て七時三十一分に無事出産。めっちゃ早いし、なんだったら子供も三十九週目の未熟児だし。生き急ぎ過ぎかよってもんだから。
『でも、生まれるときはそりゃあドキドキしたよ。姉貴心配だし。取り上げられた甥っ子は、輝いて見えたなー。未来への眩い希望の象徴だった。
『なんだよ、喜べよ。君たちの願いは、叶ったんだから。行動を起こそうとした目標は成就されたんだから。
『あ、でもあれだな。夢とはいえ、全世界の人間が見たとはいえ、嘘を楽しめなくなったのは君たちの失敗点なのかもな。
『真に受けて、怖がって、でも結局は自分のあずかり知らないところで物事は進んでいく。恋愛だって、女の子の思わせぶりな仕草真に受けて、でも告白で関係が壊れるのを怖がって、告白する前に他の男に取られる。
『あ、でもそれだと 【さっさと行動しろ】っていう結論になるのか。例え、ミスったな。あー、血ぃ抜けて来たからかな。ま、いいや。
『ほかにもさ、言いたいことあるんだよ。さっき、甥っ子生まれてから見たんだけど、明なんたらっていうのがさ言ってた話って、つまり【やらないで後悔するなら、やって後悔したほうがいい】ってことだと思うけど、やる、やらないの選択はやるやらないを聞いているんじゃなくて、何をやるかなんだよ。【今日ここに来る】をやって、【今日家に居る】をやらなかっただけ。大事なのは何をやるかで、それを考えることなんだよ。
『【そんなこと考えたことなかった、斬新な考えだなぁ】って顔してるな。見えねぇけど。結局足りてなかったのは、考えること。真実と嘘、夢と現実、自分と他人。その線引きが、判断が大事なんだよ。
『段々疲れて来たよ。話過ぎだって?なーに、映画版の夜神月に比べたらこんなもんよ。
『だから最後に、一つだけ、俺の頼みを聞いほしいんだ。
『いいじゃねえか、一つくらい
『だってさ
『馬鹿みたいに空が奇麗だぜ?』
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