第58話 七月二日③
「なんだ、生きてんじゃん」
そう言って僕は対峙する。目の前にいる人物は始め驚いた表情を浮かべながらも、今はまた鬱々とした面影に戻ってしまった。
「レディの部屋に、それも人妻の部屋に許可もなく入ってくるなんて失礼じゃない」
表情に似合わない強気な発言でこちらに突っかかってくる。これまで使っていた人妻ネタも今回ばかりはキレがなかった。
「今更だろ、人妻の前に姉だしな、あなた。それに歳甲斐もなく木登りして無理やり入った、いや侵入したんだから、もう無駄だから、そういう強がり」
まず窘めてこの場をフラットにする。不安定なままでは、真剣な話し合いからはそれてしまう。
「で、どうして部屋にこもったりしたのさ、それこそ姉貴らしくない。これまでこんなことしたことなかったでしょ」
ストレートに聞いてみた。すると、ぽつぽつと話し始めた。
「昨日の夜、少し気になって初めてSNSを見てみたのよ。ほんの出来心だった。そしてそこにあったのは多くの人の恐怖の声であったり、悪意のある声だった。
「私を責めるコメントも多くあった。そして寄を責めるコメントも多くあった。それで心が縛られた。そしてこの子を責める発言もあった。それで心がしばかれた。
「少し前に、『私のことは嫌いでも○○のことは嫌いにならないで下さい』みたいな言葉あったじゃない?その言葉の意味、よく分かった気でいた。自分のことはどういわれても構わない。でも生まれてくるこの子のことだけはどうかそっとしておいてあげてって、本気で思ってた。
「でも、調べれば調べるほどこの子に対する発言が過半数を超えていた。そりゃあ、そうよね。その人たちにとってはこの子の誕生自体が諸悪の根源で、死活問題で目の上のたん瘤なんだから。
「これまでの人生で、学校や大学単位で人に認知されることはっても、こんな風に世界単位で、人類単位で指をさされることなんて考えたことがなかった。周囲の目に晒されてすべての話題をさらっていくことに耐性があると思っていたんだけど、そんなの比じゃなかった。比較対象にもならなかった。
「だから、急に怖くなったの。考えたくなくて、回避していた。母でありたくて忌避していた、その疑問と向き合うことを。
「私は果たしてこの子を産んでいいんだろうかって、考えちゃったの。
「私がもし、もしも、この子をこの体に宿していなくてただの第三者だったら、この子にどう思うだろうかとか、やっぱり怖いと思うだろうかとか、考えてしまったの。
「その結果は、言うまでもなく、否定的で非人道的な考えばっかり頭に浮かんだ。
「だってそうでしょ。全世界の人が死んでしまうかもしれないのよ。そんな責任、私には負えない。もう何もかも投げ出したくなった。
「ねえ、寄。私、この子を産んでもいいの?」
そう聞く姉の顔は涙でぐちゃぐちゃだった。
僕はベッドで体を起こしている姉を見た。
そして僕の掌が姉の頬を強く揺らした。
姉の顔が僕とは逆方向に向き、そしてすぐさま左頬を押さえながらこちらに向き直した。
僕自身は初めて人を殴った右の手のひらがジンジン痛むのを感じた。
「あんたがさ、自分の子を信じてやれなくてどうするんだよっ。
「怖くなった?責任負えない?ふざけるなよ。あんたはたとえ世界中の人の九十九・九パーセントがあの夢が現実になるって思ったとしても、どんな偉大な科学者がそれは確実に起こると証言しても、どんな高名な予言者の予言と状況が酷似していても、全世界の人がその子が人類を終わらせる夢を見たとしても、我が子を信じてやんなくてどうすんだよっ!
「理屈とか、実験とか、夢とか現実とか関係ないよ。親ってのはそういうもんだろ」
ポケットからスマートホンを取り出す。
「ほら、見てみろよ、このメッセージ。母さんと父さんからのだ。この頃全く話してないのにさ『信じる。孫を連れて無事に帰ってこい』だってさ。
「あの夢を見てから、うちの両親の態度が変わったか?『なにかしたのか?』と責められたか?そんなことは、ないよな。
「自分の子供産んでいいか悪いかなんて、他人に聞くなよ。親にも、兄弟にも、聞くな。
「自分で宿した命、零から百まで自分で決めろよ」
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