第56話 七月二日

目は覚めない。

何故なら僕は睡眠を取らなかったから。取れなかったというと、正確を期せる気がする。昨日従兄からの事情聴取とオマケを終え、帰り際、若干の申し訳なさを感じながら義理の兄の権力と自分の被警護者の立場に甘えて、車で迎えに来てもらった。

というのも、一通りちー兄ちゃんとの会話のようなものを終えた時に

「そういえば、さっき寄とまひるちゃんが夢に出てきた妊婦と一人称視点の人物っちゅう投稿がSNSで流れてきたけど大丈夫なん?」

という重大な情報を驚くほど自然に伝えられたことがあったからである。それにしても自然だったので

「あ、そうなんだ。大丈夫、大丈夫」

と気さくに返事をしてしまいそうになったが、想像に難くないことではあったものの、現実に起きてしまうと衝撃は大きかった。

もう今、あの夢は僕ら兄弟とリンクして世界に発信されていき、あらぬことや良からぬことの想像を掻き立てられ、ある人は心底病み、ある人は心中覚悟を決め、ある人は心に留まらず無視する。

無視した人は声を上げない。これは容易に分かることである。だからこそ、上がる声はその他二種類に分類される人々のものなのだ。

「ちなみになぁ、この情報を一番最初に投稿したんは、えーと、『明生社』っていうアカウントらしいで」

きっと与謝野晶子の『明星』に掛けてるんやろなぁ、と続ける。

「『皆死に給う事なかれ』やってさ。なんもせんくても、死ぬことなんてないのにな。直接行動を奮起させるような呼びかけみたいなもんはないみたいやけど、投稿で共有してる情報は明らかにあの夢が実現するゆう説を肯定するものしかあらん」

そんな馬鹿馬鹿しく、滑稽にも思えるいかがわしい団体があると思うと寒気がした。そういった時代の潮流に乗って現れる組織みたいなものは時代を問わないらしい。それも一つや二つではなく、さながらゴキブリのように際限なく増殖するものだ。自身は寒い場所を苦手とするのに、他人には寒気を与えるという矛盾も気持ち悪い。

 そしてそのまま僕はきたコミューターに乗り込む。

「……ちー兄ちゃんも一緒に来る?なんか、こう、こういう時重要な研究をした人物も狙われたりするんじゃないの?」

それこそ、フィクションでの話ではあるが。

「んー、いや俺の場合、ダイナマイトを作ったあの高名なアルフレッド・ノーベル先生とはちごうて直接的な原因に関わっているわけではないからなー。

「ゆうても、あの夢を信じる人ん中に俺を持ち上げよる奴は多いな」

「そっか……」

「それに、こう言ってまうとあれやけど、敵と味方、みたいに思っとった人間が親戚って分かってまうほうが危ないんとちゃうんかな」

それもまたごもっともな意見だった。

今、僕とつながりがあるという事実が出現することは百害あって一利なしだろう。

「そっか。

「じゃあね、また」

そう、ちー兄ちゃんに別れを告げる。

スライド式の扉が閉まっていき、車の窓枠を通して縦に揺れた頭部が見えた。小さく見えなくなるまでその方向を見ていた僕は傍から見たら飼い主と離れ離れになる犬のように見えただだろう。そして車は直接姉のいる病院に向った。なんでも、護衛対象は一ヵ所にまとまって居てくれたほうがいいらしい。

姉と彼女と合流し、ちー兄ちゃんとの会話の委細を説明した。ほとんど彼女が受け答えしていて、姉は昼間より元気がなさそうに見えたため昨日のところは、病院全面協力の元、ベッドを借りてそれぞれ寝た。

僕は今日になって、眠れない日がまた来てしまった。いつもと違うベッドであったり、病院という特異な空間であるという空間的要因ではなく、ただ単に精神的なものだった。それにしてもこれまで病院に来たことがなかった反動か、ここ最近は大変お世話になっている。今日はもう、処方箋も何もなく、思考を他に巡らせ変えることができなかった。割り切ろうと思って、割り切れると思っていた顔の見えない他者のまるで怪物のような言霊が身体に纏わり付いているような気がして、黒か白か分からない天井を見つめるしかなかった。病院の裏手側向きにこの部屋は位置していて、そこにはよくあるサイズの公園がある。眠れないと体を起こし、覗いてみた。窓から見える左の三分の一は樹木で隠れているが、公園を照らす街灯が夜の匂いを鼻腔に送り込んだ。そして誰かが歌う声が聞こえた。


夢はもう見ないのかい


明日が怖いのかい


諦めはついたかい


馬鹿みたいに空が奇麗だぜ


そんな風に歌っていた。伸びのある力強い声が僕の心を震わせた気がした。


あぁもう泣かないで


君が思うほどに弱くわない


あぁまだ追いかけて


負けっぱなしくらいじゃ終われない


遠回りぐらいが丁度良い


僕は立った。そしてどんな人がこれを歌っているか、とても知りたくなった。窓から身を乗り出す。公園には人影がなかった。おそらく木で遮られて見えないところに目的の人はいるようだった。

たまに足元だけが見えたのでその人はそこにいることは確実だった。だから僕はベッドに戻りまた寝ころんだ。

そうしている内に白いように思える範囲が大部分になっていて、僕らを迎える清々しいほど青色の雲一つない空を見て、イラついた。次の瞬間、そのイラつきは消え去り、全く正反対の感情が湧き起った。

もう、いいじゃないか。他人の事なんて。

いいじゃないか。自分の望みだけ願ったって。

僕はただ、可愛い甥っ子の誕生を無事に見届けたい。それだけを祈って、いいじゃないか。

たったそれだけ。それ以外はもうどうでもいい。そう思った。

 ベッドから体を起こしてボーっとする。思考がさえてまた新たな疑問が湧き出る。

果たして本当にこの病院は完全に安全なのだろうか。確かにこの病院はついこの前まで仰ぐべき師ともいえる夜田先生が勤務していたし、その先生本人の御口添えあって、今回の特別待遇と相なってはいる。それに昇吾さんの旧友も偶然今ここに務めていたらしく、信じるには十分な要素というのは存在している。しかし、今僕や姉はそれをもってしても有り余る危険性を孕んでいるといっても過言ではない。

見る人から見れば、どんなダイナマイトや原子爆弾よりも確実で不可避な兵器だ。死神のように思われていても不思議はない。

命が懸かった人間は何をするか分からないという不安は未だ拭いきれない。

「そんなこと、簡単じゃない」

この疑問を投げかけた相手の平造愛美はそう言う。

「今、貴方が生きている時点で、消されていない時点で、この疑問は解消されているもの。

「だってそうじゃない?一晩眠りについていた人間を殺し損ねるというのは逆に難しいもの。貴方は眠れなかったとしても無防備であったことに変わりはないし。

「それに病院と言う場所は凶器の宝庫でもあるの。他殺の殺害方法で一番人気は毒殺と聞くけれど、その毒の多くは医療でも使われている。

「これでもまだ心配?」

かなり説得力のある見解を披露してくれた。

「うん、まだ、心配だね。それこそ僕たちの部屋の前には警備の人がいてくれたわけだし、あんなのを見れば誰だって人殺しを実行しようだなんて気が起きないだろ」

「なによ、疑問は一丁前に思いつくのに察しはいつにも増して悪いわね。

「いい?警備の人がいて犯行が防がれているのならいいじゃない。それは正しい状況だし、明日まで、いや貴方の甥っ子ちゃんが無事生まれてくるまで、その状況は変わらないわ。常に私たちの周囲には予防線ともいえるガタイのいい屈強な人間がついてくれる。

「さらにもう一つ言えば、昨日いただいた夕食、誰か毒見でもしたと思う?実際のところ、最初に口をつけたのは私だからある意味毒見はされているけれど、医療従事者なら遅効性の無味無臭のものだって出せるわよ。

「ダメ押しに言っておくと、病院で務めているような将来の見通しができていたり、収入が多かったり、研究をしっかりと遂行したり、医学部に入れるような頭脳を持っている人はあんな夢を真に受けたりしないのよ」

確かに。その通りだった。

やはり自分が少なからず、平常時よりも動揺していることが分かり、同時に彼女に助力を頼んだことが間違いではなかったと確信できた。足りない僕を埋めて、埋め合わせてくれるような感覚。

落ち着いて生きよう。問題は起きても、落ち着いて対処すれば案外人生万事塞翁が馬ってものだ。焦っていても明日が来るまでの時間は早まらないのだから。

 僕らは病院にベッドを用意してもらってはいるものの、姉以外の二人は体に不自由はないので食事が配給されるわけではない。(昨日は夜もかなり更けていたため例外だが。だからこそ、毒殺のチャンスとしても唯一だったためさっきの話の信憑性も上がるというものだ)

そういえば彼女と食事をするのは初めてな気がする。昨日は各自の部屋で出された食事を食べたわけで、朝はパン派かご飯派かもわからない。

悩む必要のない僕は先んじて塩鮭、漬物、みそ汁、納豆、ごはんをビュッフェ形式から選択して席に着いた。少しそわそわしながら待っていると、バナナと牛乳だけを載せたトレーを携えて来た。

なんともリアクションに困る中間択にうろたえていると

「どうかした?」

と彼女は怪訝なまなざしを向けてきた。

「いいや、別にバナナというパンでも、ご飯でもない朝ごはんのメニューを中途半端だなんて思ってなんかないさ」

「なにそれ」

呆れたように笑って

「今日は特別よ?今、ダイエット中だからあんまり朝ご飯を多く食べたくはないんだけど、何にも食べないのは元気が出ないから最低限のバナナって感じ」

なんとなく何もしないでも体系を維持できるタイプの人類だと思っていたので、ダイエットという単語を彼女の口から利くのは意外だった。とはいえ、気になるのはそこではないのだ。

「じゃ、じゃあさ、いつも、もといダイエット中でなければ朝ご飯には何を食べるんだ?」

「えっとねー、なんクシュッン」

「ナン!?そんなに好きなのか、ナン」

「ごめんなさい、くしゃみが出ちゃったわ。ティッシュ持ってたりしないかしら」

持ち合わせていなかったので、食堂の入り口にあったティッシュの箱から何枚かとってきて渡す。

「ありがとう」

「いえいえ。で、なんじゃなかったらなんなのさ」

じらされているように感じて、少し語気が強くなる。

「なんでも食べるのよね、私。ご飯の日もあればパンの日だってある、シリアルもあれば、おもちもある。だから、何派かと聞かれても難しいのよね」

結局玉虫色の回答しか得られなかった。

「そういう貴方はどうなのよ。今日の献立を見るに今日は和食の気分のようだけれど」

「僕は毎日ご飯だよ。まあ、最近は朝何も食べない日もあったけど、食べるならご飯以外認めないね。なんてったって国民食なんだから」

「あらそう、かなり押しつけがましいのね」

「お嫁さんをもらうなら、ご飯派じゃないと大変だろうなー」

自分のことを棚に上げて、少し煽るようなことも言ってみる。

「まあ、そうね。でも旦那さんがそういうのなら毎日ご飯でもいいわね」

案外そこにこだわりはないらしい。それに加えてセールスポイントのように

「私、みそ汁をおいしく作るのには自信があるの。おばあちゃん直伝の平造家一子相伝の味。

「今度うちに招待するわね、みそ汁をふるまってあげる」

なんとも大胆というか積極的な距離の詰め方ではあるが、彼女がそこまで言うのならまあ、僕自身、断る理由もなければ、行くこともやぶさかではないし、みそ汁を振舞われることも辞さない構えだ。そう、僕はただ、平造家の味噌汁が気になるだけなのである。他意は、ない。

「甥っ子が生まれて落ち着いたら、お伺いさせてもらうよ」

「ええ、楽しみにしているわ」

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