第42話 六月二十九日

 目が覚めた。夢は見たようだ。人生で二番目に苦痛な朝が来て、スマホで時間を確認する。いつもより数十分遅い目覚めで、少し急いで準備をすれば一限に間に合うぐらいの時刻。

精神と肉体と言うのは別々に考えられているものなのに、心の状態が悪い時と言うのは、体も何かと不調に思えた。そんな状態で機敏に動けるはずもなく、いつもと比べてもゆっくりで悠長な身支度をした。『言葉の暴力』や『言葉のボディーブロー』というのは聞き覚えがあったものの、あざのようになって風が吹くだけで痛みを感じることができるとは知らなかった。朝食の時間が過ぎたため、誰もいないテーブルで、さめた目玉焼きをさめたトーストに乗せ食べる。その途中、いくつか届いたメッセージを確認する。

最近の若者らしく、一度に何文も送って来たのは彼女で、なんとなく会話のカロリーが高くて既読を点けないままにした。他に来ていたのはあの夢以来、メッセージ上では頻繁に会話する江戸川から「そりゃ、君が聞くのはハードルが高いだろうね。任された。」とあった。そう、昨日の帰り、心を沈ませた僕に彼女が代替案として提案した外部委託を、江戸川にしていたのだった。ありがたいと思いながら、ダンゴムシが『有難う』と言っているスタンプを返しておく。(補足するとすればこの謎のスタンプは彼女が布教とか何とか言ってプレゼントしてきたものだ)

もう一人から連絡が来ていた。これは夜田先生からだ。こちらは毎度毎度あの夢に関連する世界の動きを知らせてくれており、今日は自浄作用が働いて、大半の人があの夢をただの偶然とし、何日か前から落ち着きを取り戻してきているとのことだった。その事実は僕にとって大変喜ばしいことではあったものの、今は新たな展開を見せた別の問題が心を占めていた。

結局、一時間近くかけながら冷めた朝食を飲み込み、学校へ向かった。いつもは通るゲームセンターの前は時間が止まっているように長く感じた。




 何事もなく、(遅刻はしているので事はあるのかもしれないが)学校につき、三限から授業を受けた。現実と言うのは今日の僕にはありがたいことに小説より平凡なもので、何事もなく、相田とすれ違うことも、彼女とすれ違うこともなく、午前で終わりの授業をそこそこ聞いて、放課後を迎えることができた。というか、『事実は小説より奇なり』という言葉は、事実における最大の奇妙なことと、虚構における最大の奇妙なことを比べ、偶然事実が勝った際のことを言っているにすぎず、その一勝の裏には九十九敗があることを肝に銘じておくべきだし、たかが一勝を誇らしく掲げられている虚構側の気持ちも考えるべきだろう。

今日は出来る限り人と会いたくない。

早々と学校を後にした。

 校門を出て今朝見た夢を思い出す。今朝と言うか、昨夜と言うか、どちらが正しいか一瞬疑問に感じたものの、その解答は僕の知識には存在しない。かつて夢を聞いて歩いた経験から分かっていることとして、人はなかなか鮮明に夢を覚え続けていることが困難と言うものがあるが、思うに人間の脳には夢専用の記憶置き場のような部分が存在し僕の場合、それをこの十六年とちょっとの期間、一切使用していなかったため、容量が余っているからか、容易に再生できた。(ちなみに他の人は印象的な夢はドラマの総集編のように特に記憶に刻み込まれている光景だけが少しずつ残っていくという。それはなんだか宝物みたいで美しいことだと思う)

一人きりの散歩で病院まで歩く僕と、偶然すれ違うあの日見た従兄。

理性では夢だと思っていても、今現在絶賛不安定な僕の心は、ちーにいちゃんの影を追いたくなっていて、僕はあの町のホームへ降り立った。

 まず駅構内を出て思ったのは、人がいるということだった。うぬぼれていた、というとあまり正確ではないが、初めて見た夢があのようにすべての人間に共有された事実から、「何か自分は持っているのでは?」と思ったのだが、そうはいってもやはり現実と夢は違う。時間帯も、日の高さを取っても同じ部分はない。

でもまあ、いいだろう。

今の僕はただ、心を落ち着けたいだけなのだ。散歩して帰ることを中断する理由もあるまい。  夕方四時半と言うのはどの町の商店街も同様に繁盛するらしく、生花店から青果店、精肉店に清酒店などマダムが跳梁跋扈していた。(肉体的にのみにおいて)健全な高校生である僕は肉屋さんの揚げ物の引力には勝てず、メンチカツとコロッケを二つずつ購入した。

悩みや不安を抱えている人間は食欲が減衰するというのはよくある話ではあるが、僕の場合、物事に向き合うにはエネルギーが、活力が必要なので逆に空腹を感じやすかった。腹が減っては苦悩もできぬ、と言ったところだろうか。これまでの人生で使っていなかった古びた思考回路を無理やりたたき起こしているためと言う説も有力だった。

 メンチカツを頬張りながら先に進む。揚げたてであることを証明する熱気で手を虐げながらも、ぎっしり詰まった粗挽き肉とそこからあふれる肉汁が舌と口内を火傷の危機に晒しながら黙々と食べ進める。なんとなく視界ぎりぎりで見えた人影を避けて前進していたところ、一つ目の肉塊を平らげた僕が立っていたのはあの美術館の前だった。いつ来ても何を展示しているかは外部からは分からない。夢の中ではちーにいちゃんはここから出てきたが、中にそのような人影はなく、その上そもそも今日は休館日のようだった。

そうだ、これが普通なのだ。人間が見た夢は占いより当たる確率は低い。

このまま進んでも病院しかないことは分かっているので、どこか違うところに接続していそうな横道に悩む。スマートフォンの地図アプリを起動して地図に表示されている自身と現実の自分の向きを合わせようと回転する。

その時。

ガッ、と肩がぶつかった。

謝罪しようと顔を上げて「すみませんでした、前後不注意で」と言いながら相手の顔を見ると。

それは、六年の年を重ねた佐倉千景、本人だった。

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