第32話 六月二十七日⑩

 「なるほどね」

彼女は僕の話をかなり真剣に聞いてくれた。それが嬉しくもあり、しかし自分が語る過去の自分を恥ずかしくも思った。

「私には自分の行いを顧みて後悔することなんて生まれてこの方、なかったけれど貴方にはそれが重くのしかかって、耐えられなくて、夏を過ぎてくセミの抜け殻のように脱ぎ捨てるしかなかった」

「どちらかと言えば、残った僕のほうが抜け殻みたいなものだけどね」

皮肉なことだが。

「私の考えを言わせてもらうとすれば、貴方は考え過ぎてるんだと思う。自分のことも、他人のことも。

「話を聞くに、貴方は元々人間の思考について考えることが下手だった、いやまだなお下手なんだと思うわ。

「でもそれは悲観するようなことではなくて人間のことを人一倍考えていることの証左。精一杯、時間一杯考えても結論がでなくって誰も傷つけたくない一心で作り上げた張りぼての自分像に身を委ねた。そして案の定、時の流れとともに蓄積したひびや綻びがこのタイミングで耐えきれなくなっただけ」

彼女の紡ぐ言葉が慰めのための嘘なのか、客観的事実なのか判断がつかない。いい嘘は今の僕にとって体の毒だ。

「人間、誰も傷つけないで生きていくことなんて無理なのよ。たとえどれだけ世間的に正義と認められていても知らぬ間に人を傷つける行為だって寡聞にしてあるし。私たちに無害な空気でさえ、時には抵抗をしてくる。」

「何が言いたいんだ?」

中々不透明な話だ。

「受け手によって言葉や行動の全ての意味が変わる。ショートショートの神様である星新一の話の一つで宇宙人と戦争をしている中で宇宙人の船が和平交渉に来るのだけれど、宇宙の謎の病原菌があるといけないから宇宙船が開いた時に除菌をすると、そのせいで宇宙人が死んでしまって戦争が激化してしまうの。まるでどこぞのコント師よね。もう一つおまけに例を挙げるなら、そうね。うーんと、妊婦さんとおばあさんが転ぶのでは、同じ転ぶと言う事象に対して結果が変わるってとこから」

「物理的には流石に二人である妊婦さんの方が重いだろうけど、どちらも人一人の命が失われる可能性からすれば、例えが成り立っていないだろ」

「細かいわね。このご時世、人が一人無くなろうが二人無くなろうが、地球人が全員死ぬ事で騒いでいるのだから些末な違いでしょう」

「ブラックジョークにしては辛辣すぎて対面している人物にもう少し気を使ってほしいですけどね」

「アー、ソウダッター、サクラクンノオイッコチャンガアノアカンボウダッタデスモンネ」

白々しさが火を見るよりも明らかだ。それは黒過ぎるぞ?

「でも言ってしまえば冗談は嘘の親戚みたいなものなのだから、嘘をついた時点で悪であることに変わりがないし、そこに大小もない。罪に問われるときは実害が出たうえでそれを加味した罰則が決められるもの」

「まあ、いいさ。僕と言う登場人物のせいで僕の周りの人が言論の自由を奪われるのは忍びないし、気が収まらない」

「話を本筋に戻して例え直すならば、妊婦さんとボディビルダーでは転んだ時のリスクが高い方は一目瞭然よね。天地の差、月とすっぽん、あなたと私くらいに、ね」

「僕と君の差は確かにかなりあるだろうけど、自分を天に例えるとは見上げたものだね」

「月が奇麗ですね」

本当に見上げてどうする。

「急にどうした?日はだんだん落ちてきてはいるけれど、流石に月が見えるほどの時間は経過していない」

「教養がないことはどれだけ恋焦がれている男性だったとしても許し得ないかもしれないわ」

「あ、そういうこと?夏目漱石の逸話の事なら知っているさ、ただ今気づかなかっただけで」

申し訳なさでだんだん声量が下がっていった。「命拾いしたわね」

「流石に死因がそんなんじゃ祖先に顔向けができない」

「奇麗な月よりも貴方が好き。だけど、私はそれよりも私が好きだわ。ここまで綺麗なままで生きてこられたことに毎日私自身に感謝するの」

ここまで自己肯定ができるのならば、きっと彼女の周りにいる女子も妬んだりしないで、いっそ清々しさを感じているような気がした。

多分そうだ。そうに違いない。

「人間は自分を愛せなければ生きていけないのよ。生きているということは自分の命を投げ出さないこと。自分で生きる意志を持つこと。自分を嫌いになっても、まだ嫌いになり切れていない分、自分のことを守っていく気兼ねがあるってことなの。自己愛は何よりも貴い物なのよ」

この言葉で僕は彼女のことを改めて尊敬した。

彼女は自分の思考について確かに言語化をすることができる。それすなわち、日頃からそう思って生活を送ってきているし、生きている。それは今の僕には到底できないことだ。胸を張れない僕は猫のように背中を曲げて目立たないようにしか日々を消費できない。

過去の僕も「己を好きでなければ生きていくことはできない」と考えていた。でもそれを言葉に起こせたかと聞かれればそれは否だろう。だからこそ、彼女は美しい。そう映った。

「第一優先に私。次に貴方、それ以外。それだけで私の世界は回っていく。

「一見反感を買いそうな考えではあるけれど、みんな本当は自分が一番だと思ってる。それを自覚しているかどうかの問題なの。あ、あとそうね、深層的自分本位以外にも顰蹙を避けられない要素はあるわ」

「深層的自分本位っていう名前なのか、その思考」

「今付けたわ」

「優秀なコピーライターになれるよ」

「面白そうね、調べて置くわ。

「それでもう一つの要素は思考の多様性よ、嗜好ともいえるけれど。ここで質問。寄のイメージする好感度の高い芸人さんは誰かしら」

急な呼び捨てに心がついていかないが、ここでは無視する。これもきっと気を引く作戦に違いない。

「えー、急に言われるとでてこないなー。あ、明石家さんまさんとかか」

「あー、あの人、ね。私あの人苦手だわ。笑い方怖く思わない?」

「全く思わないけど。にしても変わってるな、苦手なんて」

「嘘よ、演技演技。大好きよ、さんまさん。

「でも今のように嫌いだとか苦手っていう人だって居たってなんら不思議はない。ここから学ぶべき教訓は明石家さんまでさえ嫌う人がいるのだから、私たち、一般人が生きとし生けるものに好かれようだなんて傲慢なの。大罪よね」

そういってはにかむ。それに僕はあまり反応を示せなかった。

そのままお開きとなり、店を出る。別れ際、彼女はこう言った。


「じゃ、また明日。あ、あと、話の流れ的に機会を逃してしまったし、なにやら伏線めいた物らしき気配を感じたから言わないでおこうかとも考えたのだけど、私が出した手紙は赤地のレターセットに青い封蝋だったのよ。だから貴方が下駄箱で入っているのを見たlove letterは私のじゃなくて、他の誰かのlove letterと言うことよ」

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