第24話 六月二十七日②
良いこととは何だろうか。こう思ってしまうということとはつまり何かはあった訳で。状況を鑑みるならば悪いことに分類されても不思議ではない出来事だ。何食わぬフリをして、まともな人間のフリをして校門をくぐり下駄箱のちょうど真ん中あたりの自分に割り当てられた区画の扉を開ける。するとそこには一枚の手紙があった。青地の手紙は明らかな青春の風を感じるものの、昨日の(一昨日と言ったほうが正確なのかもしれない)夢を見たならば、仮定ではなくほぼ確実に差別なく誰もが見たようなのだが、無神経のようにも思える。まだ誰かもわからない相手の空気の読めなさに驚きを隠せない。いや待て、落ち着くべきだ。この世界には天然だとか、宇宙系だとか形容されるなんとなくふんわりとした発声が遅いイメージのある系統の女の子がいると風の噂で聞いたことがある。もしそうならこのタイミングで余計に心を急かしてくるような刺激物を届けてきても不思議ではない。
そうは言っても今は始業前であり、まだまだ後ろから他の生徒が登校してくる中でデリケートでプライベートな言葉を封じ込めているスタンプを剥がすことは今の僕にはできなかった。今後もきっとできないであろうし、もっと前なら反対にすぐさま実行に移していただろう。今の僕には学期末の成績表だったとしても家に帰るまで開けることができないだろうが。そのためどうせにせよ帰るときにここを必然的に通る訳なのでそのまま下駄箱に置いたままにした。誰がとるわけでもないし、手元で持っておくよりはここに置いていた方が一時的とはいえ自分のためになるだろう。
自分のホームルームのある三階に上がろうと階段に一歩足をかけた時に今日自分が日直であることに気づいた。
昇級を果たし、二年生という身分になってから未だに一度も納得できていないままで居ることなのだが、何故かうちのクラスの担任はどんな理由であれ、欠席または早退をした生徒には次に登校した日の日直を義務づける分国法がある。担任曰く「罰として日直を課すことで少しでも学校にくるようになってくれればいい」という考えかららしいが、これは現実問題、本当に体調のすぐれなかった生徒が六割いるという点で、次の日元気を振り絞り、懸命に賢明な判断をして登校した生徒に余計な仕事を任命することは悪化の危険性を底上げしているし、その他の問題として本来は出席番号でローテーションしていくのに、有名な落語の一説のように途中で全く違うところから全く違う数字がやってくるため、四十八番の渡邊さんが日直をやっている姿を未だに捕捉したことがない。
そんな言い分をぶつけたとて空しく説得は失敗した過去があるのだから、僕は踵を返し上りたかった階段からちょうど対角線上で一番遠い職員室まで足を運ぶしかなかった。途中にノアさんを見かけたが、わざわざ声をかける理由が僕にはなかったし、元気もタイミングもなかった。目的地に着きノックしてドアを開ける。
「すみません、日直日誌を取りに来ました」
今時、中学生でも言わないような定められたフレーズで職員室中の目と言う目の全てがこちらを覗いた。それには以前と異なる目線を多く感じたが、昨日の今日で気にしないことにした。
入ったすぐ左の壁にストラックアウトのような棚に各クラスの日誌と配布プリントの入ったスーパーの籠が並んでいるのだから、別に何も言わずに取って行ったとしても問題がないように思うのだが、日本人らしく旧態依然で効率化への腰が重い教師陣らしい。言外で思うだけで毛ほどにも直接伝えようとはしない。正直どっちでもいい。この微妙な羞恥心を味わうのは僕だけではないのだから。
自分のHRの籠をいくら捜索しても目当ての物が見当たらないので担任の机に向かう。そこには担任がいた。
「どう考えてもおかしいです。これは徹底的に抗議します。踏絵と絵踏を書き間違えたんじゃないです。これはどちらでもいいから片方覚えておこうというフレキシブルな考えからです。これで楽をしようとしたと糾弾するのは、けち臭いというかもはや狭量と言うものです。教科書には『もともと分けられて使われていたが次第に混用するようになった』 とありました。ここです、ここ、見えますよね?先生が着用してらっしゃる物が私の知っている眼鏡という道具と一緒なら。そういう訳で私はそれを文面通りに理解した訳です。納得した訳です。受け取った訳です。つまり、この答えにバツをつけられているのは道理がいかないわけです。
「え、『今回のテストでは正解を絵踏にしたから、踏絵は不正解』って仰いました?言いましたね、言っちゃいましたね、その言葉。ここまで真剣でここまでの剣幕で抗議する私がマンガ博士を自称しておきながら、好きな漫画を聞かれてワンピースって答えるのと同等くらい薄い論理が通用するとお思いですか?論理も浅ければ生徒の理解も浅いんですね。尊敬します。そういう機転の利かない部分が日本人の悪癖です。典型的な日本人ですね。褒めてないですよ、思い上がらないでください、みっともない。そんなんだから彼女には振られ、女子生徒の良く思われたいと思ったか知りませんけれど、元々の女性との距離の詰め方の下手さが露呈して逆に嫌われていたり、毎日毎日効率の悪い労働をしては、『教師は仕事の割には薄給だ』と愚痴を一丁前にこぼし、同じような文句をお酒で流し込み、空っぽになった頭で仕事を楽しいと思い込む自己暗示をかけるんですよ。
「なんですか、言いたいことがありそうに震えて
「大人を舐めるなって言いましたか?
「子供だから見下していいってどこで習ったんですか?昭和ですか?年功序列ですか?今令和ですよ。現状を変えられない自分の責任を他人に押し付けないでくださいよ。あ、あと、そんな風に黙ってないでとりあえず、丸もらっていいですか?」
これが俗にいう嵐のような女と形容される人間かと感心している合間にその女性とは僕が入ってきたのとは反対のドアから出ていった。
僕はいたたまれなくなったというか、見ていられなかったというか、会話の始まりより何倍も小さくなった担任を気遣って彼の机の上に見えた日直日誌を諦めて教室に向かった。恋文を貰うならば誰でも嬉しいとつい先刻まで考えていたけれど、さっき見た嵐のあの子はごめん被りたいと感じた。僕はもっと落ち着いた謎のある女の子が好きなのである。見覚えのない女生徒と言う一点では確かにあの子は謎ではあるが雰囲気的には大っぴらと言うか、教師を目の前にしてあれほどまでのまくしたてをできる度胸とミステリアスさは到底同居できるものではあるまい。
ちなみに今日のHRに担任は現れなかった。明日は担任が日直らしい。
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