第23話 六月二十七日

 新しい朝が来た。希望の朝だ。喜びに胸を開け、大空あおげ。

今感じている朝のイメージに一片も抵触しない歌詞にイラつきを覚えた。以前までは浮かんでこなかった捉え方も己の余白が可能にさせた。

父の日課であるラジオ体操によってセットでついてくるという点が増して自分の心を乱し、混ぜこぜにしているのかもしれない。まだ父とは僕の変質以降話せていない事を前世の残滓が内側から責めているのかもしれない。誰もが最低限理解している自分のことさえままならない未熟な僕には、分からないことが多すぎる。分かるのは曲に当たってしまう原因の一つが寝不足であることぐらい。

それで全部である。

 父に遭遇しないように母からサンドイッチだけを受け取り足早に家を出た。問題を先送りにしたのではない、目先の問題を一つずつ解決することにしただけだ、と自分を言い聞かせる。マルチタスクは出来ない性分なのだ。

前までと同じなら。




人類は日々進化する。進歩する。日進月歩とは言いえて妙な言葉だ。進歩の結果生まれたデバイスに今日も僕らは溺れていく。考えなければ、冷静にならなければ楽になれるのに、もがいて水を思い切り飲み込んで、新しいものに変わっていくことに抵抗する人も中にはいる。僕もその一人だった。

ちょうど今僕の血潮を躍らせる振動を耳孔から提供するこの遠隔音声再生機。これに適応するのにも多くの時間を要した。小学生の頃、足の遅かった僕は姉の御下がりの「歩く男性」をサムと名付けて愛用して朝ランニングをしていた。まあ、今の僕にだってわかる。分かるとも。日曜日の夕方にやっているような大喜利番組で「こんな小学生は嫌だ」と言うお題で回答したとしてもなんら違和感のない嫌さ。完全にませていたし、そんな自分に酔っていた。当時は無意識なのだからなおさら酷い。

そんな増長小学生佐倉寄君はコード付きイヤホンを使用していた。コード付きと頭に着けてやらなければ正しく説明できない時代になってしまっているのだ。何というか時の流れを実感する。現レッサーパンダが現パンダに名前を奪われた現象に類似性があると思う。本来、現レッサーパンダが元々はパンダとされていて、現パンダはジャイアントパンダが正式名称であるにもかかわらず、人気に押されパンダの称号を強引に奪取したように、現在進行形でワイヤレスイヤホンはシェアを拡大し、元祖イヤホンの肩身を狭くしている。

かく言う僕も最大限の抵抗をした。ある日突然ワイヤレスを使用しだした友人を見かけては「かぶれてる」だの「見栄っ張り」と言っては人の勝手である部分にもやもやのタネを植えては水をまき散らして回った。「こんな小学生は嫌だ」パート2である。とはいえ、現在自身がワイヤレスを使っている時点で僕にも転機があったのだ。性悪ガキは中学生になって、徒党を組んでいたモヤモヤ発生委員会のメンバーが次々に掌を返していく光景を目の当たりにした。敵は「流行」だった。「メジャーさ」だった。「マジョリティ」だった。高校生の時分ならその敵を逆手にとってマイノリティさを以て己の要素の一つにして見せただろうが、つい一年前までマセガキだった者には精神の強靭さがまだ足りなかった。すぐさまモヤモヤ作戦を取り下げ、七月を待ちやっとこさ誕生日プレゼントとして秘密裏に「流行」を手に入れた。それまでの間コード付きのそれを一切使用しない徹底的な下準備によって、鞍替えをした自分を責める人間は居なかった。

僕は言っても入手が遅いほうだったため、最早最後だったかもしれない。「ラストコード」だったかもしれない。付いていくために入手した「流行」は使用した瞬間、それがなぜ「流行」たりえるかを実感した。コードが無いことによる絡むことの開放。bluetooth接続における紛失時の発見機能。スマートフォンとの直接接続を必要としないが故に充電と同時並行で使用できる効率性。次世代を生きる我々が求めるすべてが詰まっているように当時の僕は思った。これが未来か、と。単純な中学生の心を動かすにはそれではあまりに十分だった。

便利になることの利点ばかりに目を向けた。甘い蜜を吸うことに何のためらいもなく、ドロドロで体を覆った。一度慣れたら戻れない。そんなこと、思考する隙間も美辞麗句で埋めきった。

 時は現代。僕には未曾有の変化があった。退化と言っても差し支えはないと思う。変化に慣れたかと思われた現代っ子は実際問題、今のところ全く変化に適応しているような素振りを見せない。素振りもしない。空振り三振と言ったような感じである。他人目線で、他者目線で、極めて客観的にこの理由を分析するとすれば、場数をただ踏んだという経験がどんな変化にでも対応できると言う幻想を抱かせ、プラスの変化にしか触れてこなかった弊害がマイナスの変化を受けることで姿を現したことが挙げられるだろう。

 人は生活水準が上がるたびに自分の中の最低を更新してしまう生き物だ。一度高みを知ったが最後、またその高みを手に入れたくなる。一見とても素晴らしいことのように思えてもギャンブルにだってこの論理は該当するし、換言すればそれすなわち我儘になることに他ならない。洋式トイレに慣れた人間がわざわざ和式を好き好んで使わないことは好例である。我儘を一生叶え続けることは往々にして不可能で、人間いつかは反動を受ける。それはゴムよろしく、引っ張れば引っ張るほど受ける被害は比例していく。人生はこの被害をどの程度に抑えるのかというゲームだ。逃げきる者もいれば、死に追いやられる人もいれば、少しずつ分散して受ける人もいる。

手放しに利便性を求めた時、放したゴムの反動を受けるのもまた自分なのだ。

 驕れるものは久しからず云々とは言うけれど、時に溺れる選択肢を取ってもがくことに慣れなければ掴める藁もつかめない。本番は大抵予告なしでやってくるのだから。

 自分の人生水準は今現在かつてないほど下落し、暗中模索の日々に身をやつしている時分だ。己の黒歴史と共に水に流したそれは戻ってこない。けれど人間一度ついた癖や習慣と言うのはそれがいいものであれ、悪いものであれ、なかなかすぐには身体から抜けないらしい。少し前のドラマで(あれは確か小説原作だったように記憶している)一日で記憶がリセットされる探偵が最速で事件を解決するというものがあった。その中で唯一記憶しているのが、その物語の内容ではなく、記憶喪失の人間がお箸やナイフ、フォークなどを使う方法を覚えていたり、特殊なものだと鉄棒で逆上がりが出来るのは、直観に反しているものの、手続き記憶という別の記憶によるものだということだ。何でも人の名前などを記憶するのとでは使用する脳の部分が違うことが原因らしい。

 ここでその探偵よろしく忘れてはいけないのは、僕自身は記憶喪失になったわけではないということだ。僕はただ自らの過ちの多くを『恥の多い人生を送ってきました』と胸を張って(?)言えるような人生だからこそ一度自分から切り離しただけに過ぎない。故に記憶はあって、記録もある。

それにいつまでも向き合わないでいい免罪符なんてどこにもない。分かっていながらも未だその断片にも触れられないでいる。

 今現在、過去とは距離を置いている身分でありながら前世の遺産である脳を疲労させるだけの無尽蔵な思考癖と吸収する情報を精査しない悪食さに振り回されている。でも自己弁護をさせてもらうとすればこれは手続き記憶の一端とも取れることだ。誰に習ったわけでもない、我流で固有の技術である。誰と共有するわけでも、自慢するとこもできないこの特性と共にこれからも向き合っていくしかない。別に悪い気もしない。結局のところ、誰にも迷惑をかけないのであれば、自分だけに降りかかる問題であるならばこんな取るに足らない個性も愛せるような気がする。

 この国には僕の味方をしてくれそうな言葉かあることを思い出した。

三つ子の魂百まで。

とはいえ、僕自身百まで生きることができるとは毛頭思わないことこの上なしではあるが。

そんなどうでもいいことを考えながら今日もまた、我が学び舎へ足を進める。何かいいことあったら幸運だ。

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