第21話 六月二十六日⑥

 寝つきが悪い。寝ようと思っても空っぽになってしまった脳のストレージを様々な思考が縦横無尽に駆け回る。捨ててしまったはずの記憶がほとんどのコンピューターに予め搭載されているごみ箱機能みたいに、ひとつ残らず収集し、回収し空っぽになった僕の脳髄に四次元ポケットの内部よろしく無造作に、無差別に舞い戻させる。

そして意味もなく、自分の口が発生させた空気の振動を回顧してしまう。第三者になって何の先入観もなく、第三者になり変わって、どう感じるのか、何を言いたいのか、一つずつ手にとっては吟味する。

たとえ、人が、思想が、性格がどれだけ変容してしまっても、一度言の葉にした、命を吹き込んだ、己の言霊にしたものには責任を取らなければならない。投げ出したくなるし、改竄したくなる。

「もっといい言い方があった」だとか、「違う方向性に路線変更させることができていれば、あの言い争いはおきなかった」なんて考えてしまう。夢に出てくるわけでもなく睡眠の前段階で無意識が僕の罪を糾弾するように、それでいて声をあげられるわけではなく染み入るように小さく青い冷徹な声で囁くように意識させてくる。

会話は「戦い」じゃない。

これはこの回顧によって邂逅した解釈の一つ。自分の考えも、他人の論理にも優劣なんてない。勝ったも負けたもない。負かしたい意志もない。でも負けたい意志も一層ない。あったのは間違っていたくない尊大な自尊心と間違いに途中で気づいた羞恥心だけだった。その羞恥心だけを抽出して今僕に蜂蜜みたいな性質で猛毒のような慢性的な自傷を伴って降りかかる。

『バレなければ犯罪ではない』と言わんばかりに、自分から宣戦布告した言葉の決闘を意味もわからない、意味のない文字を並べ立てうやむやにして、滅茶苦茶にしてさも有利展開から大人な対応として退くというスタンドプレーを大立ち回りでやってのけた。そして道端にガムを吐き捨てるみたいにミスを羞恥心でくるんでは去っていく。

今見ても、いや今見るからこそほれぼれするほど反吐が出る。

これほど最悪で最低の劣勢から状況を五分、ないしは勝利に近い引き分けを演出する能力があるのならば、正解の立場で参戦して十零のコールドゲームができただろうに。

己の思考力を呪った。つくづく残念な人間。残酷な人生。惨敗な戦線である。

当時の佐倉寄という青年は、青年でもなく、キャンバスいっぱいに自分がきれいだと思った色を載せていった結果できた玉虫色なんていいものではない、茶色に近いようでいて紫も認められるような醜悪の色のそれだった。自分の色が世間の調和のとれた七色の構成色だと信じて疑わなかったし、自分の色がどれだけ調和から乖離しているかなんて、霞も気にしていなかった。己の中で正しければいいという独善的な基準を引っ提げて、奇を衒うことを生きがいにして裸で生きていた。

世間と自分を照らし合わせて答え合わせするのが怖かった。その恐怖心をクレジットカードみたいに後払いにしては期限をあの手この手で延長した。レンタルビデオ屋も仰天の延滞日数だ。

奇を衒っているからこそ、持ち合わせている感覚が、木の中に隠した自身の本来で生来の平凡さが露わにされることを恐れた。

自分で理解していることを人に指摘されることが一番腹の立つことだ。

それ故に、知らない事にした。

ここまでくるといつか現代文の授業で出てきた李徴を想起せざる負えない。

虎になりたかった。でも虎にもなれずに、矮小な僕は人間であることだけを先に辞めてしまった。いやここには意志も指示も存在しない。ただ、人間ではない何かに僕がなったという事実だけが存在する。虎になるにも中途半端で、何か得体のしれない名もない物に落ちぶれている。虎のように目的もなく気ままに生きることがどれほど幸せだろうか。

 明日を思うと今日も眠れない。僕は何処へ向おうか。あーあ、あーあ。ベッドの上で大の字に体を広げ瞼の裏から自室の天井に視点を移動させる。闇に順応した眼は次に右へ左へ。右にはただ白い壁が無言で外壁を担っていて左には今日の労働を終え、残り香の火の粉のような影もないランプの載った小型の丸テーブルが見える。いつか見るために購入した夢日記専用の真っ新なノートの上に二百ページにも満たない薄い文庫本が目に入ってきた。あれは確か先生が処方箋と言っていたものだ。

カフカの『変身』。

まだ一ページも手の付けられていない本は日の目を浴びることを待ちわびているようだった。おもむろに部屋の電気を点け再度目が光に慣れるのを待った。心なしか、以前より光がまぶしく感じる。

一度リセットされた頭の中なら容易に多数の事柄を吸収できるだろう。そう思い先生の助言通り『変身』を読んでみる。己に変身をもたらすことを期待しながら。この夜を超えるという最低保障が心を満たした。

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