第20話 六月二十六日⑤
姉の家に着いた時、姉の家の鍵はいつも通りダイヤル式のポストになかに入っていて、姉の在宅を知らせた。向う道中で連絡を入れることを失念していた僕にとって不在時に姉宅に入ることを告げる手間を省略できたことは最不幸中の小幸いだった。規則であるチャイムを二回鳴らした後に自ら鍵を開けるというルーティーンをこなし、リビングのある二回へ螺旋階段で昇る。リビングの扉を開けると窓を背にし、壁に沿って配置されている逆L字のソファーに姉が何か温かそうで湯気が発生しているマグカップをもって座っていた。
「あれ~、寄、学校はどうしたの?」と規則通りに上がってきたため僕が上がってくることが分かった上での反応にしては白々しい言葉ではあったが、裏腹に落ち着きのある少しゆるりとした雰囲気で言った。なんというか何かをすでに僕から感じ取っていてそれを受け入れる母親的な包容力が伝播してきた。
「なんか、いつもと様子が違うわね。具体的に何かだとかそれが喜ばしい方向なのか悲しい方向なのかは分からないけど、変わった。気がする」
そう言う姉。僕は驚かなかった。多分これは喜ばしい方向の変化であった場合でも同じに思えた。十七年の付き合いは伊達ではない。堕天してしまった僕にだって気づいて当然だ。
胎児と言うのは母親と一心同体。感情の機微にもわかりやすく影響を受けると聞いたことがある。
僕の、僕だけの問題に姉を付き合わせていいのだろうか。こんな今から生まれてくる命よりも、いまだ生まれていない命の蕾よりも存在価値のない僕の陳腐な悩みに。
「そんなことないよ」
それが僕の出した答えだった。僕は一人で向き合うしかない。悩みは絶対的に、主体的に向き合うべきだと思う。一対一でガチンコ勝負。徹底的で必要以上に個と個の戦い。何かに悩んでいる時点で、他人と比べるのは間違い。それぞれの人間の許容を超えた事柄に思いを馳せることを、他人の定規を使用して「たいした事ないじゃないか」と言うのは筋違いだ。誰にもそんな権利はない。
「ただ少し決別があっただけさ」
そういった自分の表情がどうなっているか、どう映っているかわかるのは姉だけだった。
「そうなんだ~」
俯きがちでゆっくりとそういう姉の表情はまるで薄命の少女のようだった。夕日に照らされてオレンジ色を帯びた憂いは僕の弱い心でも十分に受信することができた。
「私ね、今日夢を見たの」
その話し始めは僕が生涯生きてきた中で一番聞くに堪えない内容と、重量を感じた。しかし、僕は逃げられない。姉の前では夢見がちな夢蒐集を生業とする前世の僕でいなければならない。自分を偽ることの苦々しさより、姉にこの悪夢の瘴気を接触させない事の方が何十倍も大切に思えた。
「ど、どんな夢だったの」
前ならもっと興奮をもった返答をしていたような自覚があったが、素人の演技と僕の心模様が語調を落ち着かせた。なんとか今の会話の流れに合わせたような形に解釈を貰えたため姉は続きの言葉を音にした。
「私は寄になっているの。長い病院の廊下の赤くともった手術中の文字の前で立ち尽くしてる。寄お気に入りの腕時計は時間の長針短針は不自然に見えないけど、七月三日の表示だけはっきり見えた。右手に設置されていた姿見ではじめて寄だってことに気づいて、青いあのドラマとかで見るような服で目の前の両開きの扉に進んでいいことを理解して足が活動を始めたの。夢だとしても他人の体を動かすことに少し感動しちゃった。心も体も動いちゃった。なんて考えてる内に扉の向こうに捉えた光景は案の定慌ただしい病院の人たちで、手術台を囲んで儀式でもしているみたいだった。目の前を右へ左へ行動する人の邪魔にならないままでその場所に滞在することの難易度が高かったから一度その部屋を出ようとしたら『浅飛まひるさんの数値は?』って自分の名前を聞いたの。そして看護師さんを掻い潜って手術台の人の顔を見たら私だった。少し、怖かったわ。自分の歪んだ息の詰まった面影。あったことはないけどドッペルゲンガーに遭ってしまったような気分だった。でも落ち着いてみれば私はこの夢の中では寄なわけで、日にちから考えても予定日から一週間早いとはいえ、病気と考えるよりも出産と考えたほうが自然で現実的だった。夢で現実的っておかしいけどね。
「元々私の体の問題で帝王切開だということは知ってたから、妙に現実に即してるとも思った。でもいざ最後この子が取り上げられたとき、この子の顔は見えなかった。確かにまだ未確認な要素ではあるし、母親である私だからこそ尚更見えなくて当然かなともなったけど、違ったの。
「この子が太陽みたいに煌めきだして、私の希望の象徴みたいなことを表現しているんだって、思った。
「でも違った。そうでなく、この世界の私含めた人類の絶望になったの。その子は滅亡を、導いたの・・・・・・」
予期した通りのストーリーが語られ終わった。この子と言うたびに自身のお腹をさする右手が一層姉の不安を僕の眼に刻んだ。
夜田先生との電話とこの家に到着するまでに姉も同じ夢を見た可能性に気付いていた。でも自分から話を持ち出すべきかも、姉の様子が普段とは違った場合どうすべきかも、現状の様相を呈した時の覚悟とともに済ませてきた。でもそれは、「つもり」に終わった。この心には全くもって荷が重かった。分かったうえで僕はこれをやりきらなければならない。途中で帰る選択肢を思いつくには少しもゆとりが足りていない。でも、これが、僕が姉からこの話の聞き手にならなければ、少しでもダメージを減少させる緩衝材にならなければ、他人から同じ夢を見た事実を聞かされたりしただろうし、その一枚の紙さえ間に存在しない状態で直接受ける心的被害を思えばこれが最善と言える。
「ネガティブだなー、いつもは体に収まらないと言わんばかりの元気をあんなに振り撒いているのに。マタニティーブルーってやつ?そんなのみんなあるってこの前見てもらった精神科の先生が言っていたよ。姉貴がそんなものにやられていたら、皆心配しちゃうよ」
この言葉が姉にとって励ましになるかは正直分からなかった。この言葉は平常時の姉貴には十中八九効果は抜群だろうが、本当に精神のバランスが不安定である妊婦さんの姉には他者比較と平常時の姉の感覚との比較を強要するわけで、最善の択とは言いにくい。悪手と言っても過言ではなかった。でもこれが精一杯で、安全牌だった。
「そうよね、課長にも笑われちゃうわ」
姉の返答はこうだった。
「夢で見たことが現実じゃなくて良かったわよ。愛しの我が子の顔を拝めずに死んでたまるもんですか。ていうか、こんな非現実的な夢に影響されるなんてばかばかしくなってきた」
そう言って笑ったあとの微笑みに僕は姉の強さを感じた。
母親の強さを感じた。
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