第19話 六月二十六日④

移動の際に何の抵抗もなくイヤホンを取り出して耳に突っ込む。そして気づいた。新たな自分が、変わってしまった自分がこの曲に触れ合うのを少しためらっている。思い入れのある「wouldn't it be nice」とはいえ、過去の自分の持ち物と言えばその通りで、聞いた途端忌々しさを感じてしまうんじゃないか。この曲を嫌いになってしまうんじゃないか。

そう思った。

今、音楽プレイヤーのアプリで「wouldn't it be nice」をもう一タッチで流せる所で手が止まる。

今冷静に思考すれば1950年代の洋楽を聴く高校二年生というのは痛々しいというか作られた感のある紛い者だろう。量産型と言われれば、そこまでである。

周りと違う「サウンド」を楽しんでいる自分に酔っている。酔いしれている。泥酔とも知らないで。

流行りの音楽を最低限聞き周りに合わせて薄っぺらい「いい曲だよね」を提出する。完成させた自分像をもって「浅いな」と斜に構えていた内心を秘めながら。

回顧のたびに反吐が出る自分が好んだ曲を僕は今一度触れるべきだとは思わない。

そんな心中とは裏腹にあの軽妙な音楽が自分の意志に関係なくイヤホンを通して流れてきた。

手が偶然当たっただとかではない。

着信音だ。

とんでもない偶然である。好みの曲を着信音にしていることはそう意外なことでもないが、普段学校ではマナーモードの設定にし、それ以外の時間もそのままなので着信に気付かないことのほうが多い中、イヤホンをし、その音楽を聴こうとしている瞬間というのは奇跡とも言えるだろう。

以前の癖でドラムのタイミングでとるようにしていたので反射的にその通り電話を受ける。

登録していない番号だったことには頭が回らなかった。

「もしもし、佐倉です。」

「もしもし、夜田です。不健康?」

知らない名だった。

「夜田さん?すみませんどこかでお会いしたでしょうか。夜田さんに心当たりがないんですが・・・・・・」

「いやいや、そのツッコミはないでしょ。ツッコミなら不健康かどうか聞いたほうでしょ」

といって電話の相手は少女漫画よろしくほほを膨らませているような間を挟んだ後大袈裟に聞こえるぐらい笑った。オレオレ詐欺(今は母ちゃん助けて詐欺というらしいが)にしてはかける相手も話し方もらしさがない。

それに間違い電話だったとしても僕が名乗った時に気付かないのはおかしい。

「いや、本当に心当たりがないんですが・・・・・・」

「え、本当に?昨日も話したのに?悲しいなー、ちゃんと名乗ったし名刺も上げたのに」

名刺?ああ、名刺!

「あ、精神科医の夜田先生ですか。すみません、ど忘れというか、中々人のことより自分のことで精いっぱいなもので」

昨日帰り際に名刺を渡された(頂いたのほうが表現的に正しいかもしれないが)ことを寸でのところで思い出した。

「まあ無理もないさ。名刺にも携帯番号と名前ちゃんと書いてあったはずなんだけど、許すよ。君はそれぐらいでなくっちゃ。片手間でよくなろうだなんて、甘えたことを考えてなくて安心したよ、安堵したよ。Andずいぶん大変なことになったね」

先生も見たようだった。

あの真偽不明の夢を。

「夢なのだからはなっから真ではないさ。その見たことを知ったうえで似たようなことを経験するとバイアスがかかって正夢、現実になると真になったと勘違いするだけさ」と先生は言った。

「日本人全員が同じ夢を見るなんてあり得るんでしょうか」

僕はなにか糸口を求めて聞いた。

すると

「いや世界さ。日本だけにとどまらない。世界中の人が寝れば同じ夢を見てる。異常なことだし科学的にも確率的にもありえない。でもね、実際に起きているのだからあり得るんだよ。人間、論より証拠。何ができるかより何ができたかで語らなくちゃ」

「世界にまで!?身に余る出来事すぎてどうしていいのか」

「まあ、そりゃあ戸惑うだろうね。前例もないから正しい対応なんて未知だ」

そりゃあそうだろう。夜田先生がどれほど有名で腕があるかは全然知らないけれど、ブラックジャックでさえ百点満点の回答を持っていないだろう。

「ブラックジャックは外科医だから専門外だろうけど、言ってしまえば医者にしては精神が弱いほうさ。苦悩する話も多くあるしね。


「でも、僕なら君と一緒に考えることができる。百人力だろ?」

「そう、ですね」

助けてくれるという言葉がとても頼もしかった。

「ところで夢分析や夢占い的にこの夢はどんな意味があったり、どんな兆候を指しているんですか?」

「残念なことにそれは僕の専門分野じゃあないんだ。君は精神医学と心理学の違いってわかるかい?」

考えたこともなかった。確かにしっかりとは把握していないものだ。

「すみません、わからないです、教えてください」

「わからないか。宜しい。分からないことを正直に言い、加えて教えを乞うこと。これ何歳になろうとも重要なことだ」

「ありがとうございます」

「うむ、さてそれで精神医学と心理学というのは簡単に言ってしまえば、病気を治すのが精神医学で病気を予防するのが心理学って感じかな。精神科医は人をうつ病と診察できるけど、心理士はできない。医療行為ができるかできないかで考えるが理解の近道かもしれない」

「なるほど、夢分析や夢占いは心理学の領域ってことですね」

「夢分析は深層心理学の範疇だけど、夢占いはもっと胡散臭いものさ、学問というにはおこがましい」

「そういわれてみればおまじないと同じ系統のように思え無くのないですね」

「夢占いは古くはかの有名な陰陽師、安倍晴明の書物を参考にしていたり頼りがいのある資料が少ないからね。煮詰まっていない部分が大半なのさ」

精神医学という学問を専門としているからか若干見下すような雰囲気で先生は続ける。

「現在も夢占いと調べればインターネットで多くヒットするんだけど、中身は見た夢に出てきたもののイメージからそれっぽい答えを出すだけでその夢を見た本人の主観は考慮されない欠陥品さ。人に寄ってもののイメージは千差万別だからね」

「プールは泳げる人にしてみれば楽しい場所だけど、泳げない人にしてみれば苦しい場所って感じですか」

「そうそう、わかってきたね」

満足そうにうんうんと頷いている様子が伝わってくる。

「今回のこの夢にもこうした側面はあるね。だって例え夢とは言え、全世界の睡眠をとった人間が一人残らず見ているんだ。これを『夢なんだから起こるはずがない』と冷静になれる人間もいれば、逆に『本当に死んでしまうかもしれない』と怯える人もいるんだよ。本気で追い詰められた人間は何をしでかすかわからない」

血の気の引く話な気がした。誰もに狂ってしまえる可能性があることと言うのは。

「外国では今回の件を『Venus embrace』と呼ぶようになったらしい。意味は『ヴィーナスの抱擁』。センスを感じるよね」

「抱擁のイメージは、理解できます。でも、どうして、ヴィーナス何でしょうか?」

「あまり由来だとかは分からなかったんだけど、推測するに夢の中で君の時計が指していた七月三日が金曜日だったからだと思うね」

「そこまで深くはないんですね」

「そりゃあ今日の今日で泡沫みたいに出てきた即席のたとえの中でそうそううまく叙述できる人なんていないだろうよ」

「金星となにか掛けられそうな意味、とかない、ですかね・・・・・・?」

「愛と美の神っていう設定のほうが子供を連想しやすいかもしれない。子供は愛によって生まれて、美しく育つことを望まれるから」

「僕の甥っ子は愛によって生まれて、美しく育つことができるんですかね」

「さあね、それは誰の預かり知ることではないね

「むしろ、可能性としては出来ない未来のほうが高いかも。まず、この夢が正夢になる、ならないで五十パーセント。そしてこの超常現象によって注目が集中して好奇な目で見られる確率が九十九パーセント」

「ほとんど無理じゃないですか」

「そうだね、今のところは」

「で、でも生まれるまで夢通りになるかなんてわからない。いわゆるシュレーディンガーの猫状態ってやつです。シュレーディンガーの赤子ですよ」

「落ち着け、叔父さん。その表現だとシュレーディンガーの実の子みたいになっちゃうだろ。今の状況は君にとって死ぬほど悪い。人類にとってもそれは同じなのさ。

「さっきは過度な情報をむやみに与えても仕方ないと思ったけれど、君は現状をしっかりと完全で万全に知っておいたほうがいいみたいだね。

「いいみたい、ではないな。知っておく義務がある」

「義務・・・・・・。今の僕に?」

「いつの君でも、だよ。

「ヴィーナスが金星の化身であることは君も英語を学んでいる学生ならば既知の情報だろうけど、日本語での金星の異名をご存知かな?」

「明けの明星」

「そう、それ」

「それが何だっていうんですか」

体温が徐々に上がっていることが容易に分かった。

「明けの明星は堕天使ルシフェルの代名詞でもあるんだ。ここまでくるとさ、最初に『ヴィーナスの抱擁』と考えた人は相当頭が切れてると思わないかい?この表と裏の距離感と対照性。ヴィーナスだって嫉妬しそうに思えるね」

「・・・・・・」

言葉が出てこない。

ギリギリと歯をすり減らしながら俯く。

「なんで、僕なんですかね・・・・・・」

始めに口をついた言葉こうだった。

「今の僕には既に強大な問題が目前にあるのに、解決策もまだ見つかっていないのに・・・・・・。

「荷が重すぎますよ、実際に起こるかは分からないにせよ、望んでもいないのに預言者みたいにされんじゃ・・・・・・」

感情が滅茶苦茶だった。連続した命題でかき回されたいまだ行く先も、理想形も見えない心には負担が重すぎた。

「君は今、窮地に立っていることは僕にも十全に分かる。零に戻った君の心で、この地球規模の問題に立ち向かうのは難易度が高いのは重々承知だ。そのうえで言っておきたいことがある。

「長期休みの最終日に終わっていない宿題に追われるのは、それまで手を付けていなかった本人の自業自得だよね」

よくつながりが分からないものの、同意の印として首を振る。

「だから、今回の君の場合もそれと同じでさ、これまで避けてきた、逃げてきたのだからいつかは解決しなければいけないんだよ。

「大体の人は大小あれど、幾つもの悩みや出来事を超えて今の自分を形成している。これまで君にはそれがなかったんだ。無かったというよりは避けたって言うのが正確だと思う。そのしわ寄せが人一人の心をリセットしたり、地球規模であっても文句は言えないよ。

「でも、僕は医者だからさ、今の君に必要な処方箋を上げよう。時には他者から学ぶことが己を成長の一助になるから」

そういって、僕は一冊の本を紹介された。

それはフランツ・カフカの『変身』だった。

電話が終った。とりあえず深呼吸をしてみる。都会の空気は兵庫よりも冷たく美味しくはないけれど、孤独と変化には寄り添ってくれる。姉の家に着くまでで得られたたった一つのゆるぎない真実は「wouldn't it be nice」は僕の地獄に絶えない音楽であるということだった。

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