第2話 生きるために
スマホで時刻を確認するが、果たして正確な時間なのかは大和には分からない。
ここは、日本ではないのだから。
いや、そもそも大和が住んでいた世界ですらない。
ゴブリンなど空想上の生き物がいる時点で気が付くべきだろう。
「(一旦、安全な場所に……そもそもそんな場所ここにあるのか?)」
不安は尽きなかった。
それでも立ち止まるわけにはいかない。
ゴブリンが一体だけだった保証などどこにもない。
大和は息を潜めながら音を立てないよう森の中を進んだ。
足元の枝が折れないように落ち葉を踏まないように慎重に慎重に進む。
顔には汗が張り付き、全身は泥と血にまみれていた。
「(……何もいませんように!)」
脳が、体が、全力で生存を最優先に動いていた。
学校で教わることもなければ、ゲームで知っていた知識も役には立たない。
これはもう生き延びるための本能だった。
気付けば空は曇り始め、森の中は昼間とは思えないほど暗くなっていた。
湿った空気。
虫の羽音。
どこかで小動物が走る音。
すべてが、恐怖の種になった。
「(誰か、いないのか……!? いや、いたとしても悪党だったら? それにモンスターだって、どこに潜んでいるかもわからないんだ……!)」
この世界の人がどれだけ信用できるのかも分からない。
今の自分は装備もない、知識もない、言葉も通じるか分からない異邦人。
下手に助けを求めれば返って利用されるか、殺されるかもしれない。
「(うっ……腹減った……)」
と、空腹が思考の隙間をつく。
気を張っていたことで忘れていたが、身体はとうに限界を訴えていた。
喉も乾いている。
頭の痛みも続いている。
視界がにじむ。
それでも、歩くしかなかった。
倒れれば、餌になるだけだ。
やがて、大和は朽ちた倒木の影に一匹の獣の死骸を見つけた。
すでに腐り始めており、蠅がたかっている。
その周囲に、強烈な悪臭と共に糞が残されていた。
彼は、その糞に目を留める。
「(……もしかして、これを体に擦りつければ、匂いで誤魔化せる……?)」
嫌悪感が喉を突く。
やりたくない。
やりたくない。
でも、やらなきゃ死ぬかもしれない。
「くっそ……! うぇ……! 最悪だ……!」
涙が滲んだ。
それでも、大和はその汚物を手に取り、自分の服に塗りつけていった。
顔、腕、脚、全身に満遍なく。
「誰か……! 誰か助けてくれ……!」
声が漏れた。
でも返事はない。
答えるのは風の音だけだった。
そのまま、大和は朽ちた木の陰で丸まり、少しだけ目を閉じた。
寝たのか、意識を失っていたのかも分からない。
とにかく、身体を休める必要があった。
再び立ち上がった時には太陽は遥か頭上を越えていた。
ぼんやりとした頭を振りながら、大和はふらつきながら歩き出す。
どこかに人がいる場所がある。
そう信じて歩いた。
腐った獣の臭いをまとったまま、大和は森の奥へ、奥へと進んでいった。
体にこびりついた糞の匂いは最悪で、吐き気を催すほどだったが、効果はあったらしい。
最初に遭遇したゴブリン以来、魔物の姿を見ていない。
だが、それは同時に別の問題を浮き彫りにした。
喉が、渇いていた。
食料もない。
水もない。
どれだけ歩いても、見つかるのは倒木と苔むした石だけ。
「……水! くそ、どこかに水は……?」
足取りは重く、唇は乾ききっていた。
その時、耳に心地よい音が届く。
水のせせらぎ、川の流れる音だ。
「……あった、川だ!」
藪をかき分けて辿り着いた先に、小さな川があった。
澄んでいて、見た目はとても綺麗。
冷たい水が光を反射して、まるで宝石のように輝いている。
大和は思わず地面に膝をつき、両手ですくい取ろうとしたが、寸前で動きが止まる。
「……いや待てよ」
脳裏に浮かんだのは、これまで見てきたアニメや漫画でのサバイバル描写。
生水を飲むと腹を壊す。
それが頭をよぎった。
森の中の水は見た目が綺麗でも、野生動物が糞や小便をしているかもしれない。
寄生虫の危険もある。
ましてやここは異世界。モンスターの体液が流れ込んでいる可能性だってある。
下手をすれば、喉の渇きを癒やすどころか死を早めるだけだ。
「……どうすんだよ、これ!」
川を前に、大和は頭を抱えた。
目の前に救いがあるのに、それを掴む勇気が出ない。
飲めば死ぬかもしれない。飲まなくても死ぬかもしれない。
乾いた喉が音を立てる。
胃がきしむ。
視界がかすみ、体が揺れる。
「くそ……! 俺、マジで死ぬのか……?」
大和は膝を抱え、川辺に蹲った。
目の前に希望があるのに、それに手を伸ばせない絶望。
その滑稽さが自分でも情けなくて、笑いそうになった。
大和は川の水面を見つめる。
喉が痛いほど渇いている。
頭の中では飲むなという警告が鳴り響いているが、体は悲鳴をあげていた。
「……もう、どうでもいい。死ぬなら、せめて今じゃなくて、あとにしてくれよ!」
そう呟き、両手ですくった冷たい水を、口に運んだ。
――ごく、ごく、ごく。
喉を通った瞬間、全身に電気が走ったような感覚があった。
渇きが癒やされるというより、体に生命が戻っていく感じだった。
胃が軋み、舌がしびれるような不快感もある。
だが、それ以上に水は美味かった。
「生き返る……!」
その一言が、思わず漏れた。
頬を伝ったのは汗か涙か分からない。
胸の奥で「まだ死ねない」という声が響いた。
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