第3話 泥臭い戦闘

 しばらく休み、呼吸を整えた大和は、川沿いに立ち上がった。

 顔はまだひどい有様で、服は糞と泥にまみれている。

 それでも、目だけは少し光を取り戻していた。


「(川……そうだ。下っていけば人のいる場所に出られるかもしれない)」


 漫画やアニメで何度も見たサバイバル知識が頭をよぎる。

 川を下れば、いずれ村や町に辿り着く。

 それが正しいかどうかは、この世界では分からない。

 だが、何もせず死ぬよりはマシだった。


 大和は川沿いをゆっくりと歩き始めた。

 靴は泥で重く、身体はボロボロ。

 だが、喉を潤したことでほんの少しだけ体力が戻っていた。


 水音が、道しるべになってくれる。

 風の匂いに、森の息遣いに、耳を澄ませながら、慎重に歩く。

 草をかき分け、岩を飛び越え、何度も転びながら、それでも川を離さなかった。


「(……頼む、誰か……どこか……人が……)」


 願いにも似た呟きが霧の中に消えた。

 そしてその時、遠く、川下のほうからかすかな音が届いた。


 茂みをかき分ける音。

 緑色の肌。

 小柄な体。

 黄色く濁った目。

 ゴブリンだった。

 それも、一体ではない。三体。


「……ッ!」


 大和は咄嗟に近くの茂みに飛び込み、体を丸めた。

 胸を押さえ、必死に呼吸を殺す。

 喉がひゅうひゅうと鳴るのを必死で抑え込み、口元を袖で覆った。


 ゴブリンたちは棍棒を肩に担ぎながら、川沿いをのそのそと歩いていた。

 その姿はまるで見回りの兵士のようだった。


「(や、やべえ……! 見つかったら終わりだ……!)」


 心臓の鼓動が耳の奥で響く。

 頭の中で「逃げろ」と「動くな」が何度も交差する。

 大和はただ両手を合わせて祈るしかなかった。


「(頼む……頼むから行ってくれ……! 神様でも誰でもいい……!)」


 まるで神棚の前に座るように泥まみれの手をぎゅっと組み合わせる。

 額からは汗が流れ落ち、地面にぽたりと音を立てた。


 ゴブリンたちはしばらく立ち止まり、鼻を鳴らして周囲の匂いを嗅いだ。

 その度に大和の体は硬直する。


 だが、糞まみれの異臭が功を奏したのか、彼らは首を傾げただけで興味を失ったように歩き去っていく。


 遠ざかっていく足音。

 棍棒の木がぶつかる鈍い音。

 やがて完全に消えた。


「……助かった……?」


 震える声でそう呟いた瞬間、全身から力が抜けた。

 膝が笑い、汗と涙と泥が混ざって顔を濡らす。


「マジで死ぬところだった……」


 その場に崩れ落ちながら、大和は空を仰いだ。

 だが、安堵は長く続かなかった。


 茂みの奥から、もう一匹のゴブリンが現れたのだ。

 さっきの三体とは別行動らしい。

 小柄だがその手には棍棒がしっかりと握られている。


「っ……う、そだろ……!」


 大和の声が震える。

 足に力が入らず、立ち上がるのもやっと。

 次の瞬間、ゴブリンは棍棒を振りかぶり、大和の肩を叩きつけた。


「ぎゃあっ!!」


 衝撃で地面に転がり、肺から空気が押し出される。

 呼吸ができない。

 頭が割れそうに痛い。

 その上からゴブリンは何度も何度も棍棒を振り下ろしてきた。


「やめろっ……! やめろォォッ!!」


 腕で庇うが骨がきしむ。

 痛みに涙が滲み、視界がぼやける。

 どうして自分がこんな目に遭うのか。

 ただ帰り道を歩いていただけなのに。

 ただ普通に暮らしていただけなのに。


「……ふざけんなよっ!」


 怒りが込み上げた。

 なぜ自分ばかりがこんな理不尽を背負わされる。

 胸の奥から、どうしようもない感情が噴き出す。


 その時、大和の手が川辺に転がっていた拳大の石に触れた。

 冷たい感触が指に伝わる。


「……うおおおおおおおおおおッ!!!」


 雄叫びを上げ、大和は立ち上がった。

 痛みに震える体を無理やり奮い立たせ、石を振りかぶってゴブリンに突進する。


 棍棒が振り下ろされる。

 だが、大和は怯まなかった。

 頭の中にはただ一つ。

 生きるという執念だけがあった。


 ゴブリンとぶつかり、もみくちゃになる。

 傍から見れば、ただの取っ組み合い。

 滑稽で見世物にもならない戦いだった。

 だが、大和にとっては命懸けの一瞬だった。


「うおおおおおおッ!!!」


 川辺に転がっていた石を振りかぶり、ゴブリンの頭へと叩きつける。

 鈍い音が響いた。

 だが、一撃で倒せるほど相手は甘くない。


「ギィィィッ!」


 ゴブリンは咆哮を上げ、棍棒を横薙ぎに振り払った。

 衝撃が脇腹に突き刺さり、大和は息を詰まらせる。

 痛みに顔を歪め、それでも両手の石を離さなかった。


「ぐ……くそがあッ!」


 再び石を叩きつける。

 額に血が走る。

 骨が砕ける感触が手に伝わる。


 ゴブリンは暴れ、棍棒を何度も何度も叩き込んでくる。

 大和の腕も足も痣だらけになり、視界が赤く染まる。

 それでも止めなかった。


「死ねえええええッ!!!」


 何度も、何度も、狂ったように石を振り下ろす。

 頭蓋を打ち砕き、血と脳漿が飛び散っても、叩く手は止まらなかった。

 やがて、ゴブリンの身体から力が抜ける。

 棍棒が地面に落ち、川の流れに押されて転がっていった。


 大和は荒い息を吐きながら、石を手放した。

 血と泥と汗で全身がぐちゃぐちゃだった。

 全身が痛く、体は重く、もう立っていられない。


「……はぁ……はぁ……はぁ……っ!」


 その場に膝をつき、震える手で顔を覆う。

 これが自分の初めての勝利。

 ただ生きるために、必死に叩き潰しただけのみじめで泥臭い勝利だった。


「……生き……残った……!」


 声は震え、涙は止まらなかった。

 安堵も勝利も束の間だった。


 森の奥から耳障りな鳴き声が響いた。

 さっきの三匹のゴブリンだ。

 大和の叫び声と戦闘音を聞きつけ、引き返してきたのだ。


「……っ! うそ、だろ……!」


 血まみれの体に鞭を打ち、大和は走り出した。

 けれども、全身は痛みで悲鳴を上げ、足は鉛のように重い。

 肺は焼けるように苦しく、喉はもう悲鳴しか出ない。


 走れない。

 わかっていた。

 すぐに追いつかれることは。


「いやだ……いやだぁっ……!!!」


 大和は走りながら泣いていた。

 声を殺すことも忘れ、ただ大声で泣き喚いた。


「嫌だ……死にたくない……! 誰か……誰か助けてくださいっ!!」


 情けなさも恥も、すべて吹き飛んでいた。

 ただ、生きたい。

 それだけを叫んだ。


 だが、願いは届かない。

 すぐに背後から棍棒が叩きつけられ、大和の頭に衝撃が走った。


「ぐあっ!」


 地面に崩れ落ち、土と泥に顔を擦りつける。

 意識はまだある。

 必死に這うように前へ進もうとする。


「まだ……俺は……死にたく……ない……!」


 血と泥にまみれ、体を引きずるように前進する大和。

 無情にもゴブリンたちは棍棒を振り上げた。

 その狭い背中を叩き潰すために。


 その瞬間だった。

 ひゅう、と風が吹き抜けた。

 次の瞬間、ゴブリンたちの首が宙を舞った。


「ギ……ィ……?」


 何が起きたのか理解できぬまま、三匹のゴブリンは崩れ落ちる。

 首から血を吹き出し、地面を赤く染めていった。


 大和は呆然とした。

 自分を殺そうとしていたゴブリンたちが、目の前で一瞬にして斬り捨てられたのだ。


 風の中に立っていたのは鋭い眼光を放つ、一人の影だった。

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