十一之五 宙に挑む神木船

 ほぼまっすぐ空に向かいそそり立った木花このはなに対し、巻き込んできた大波の穂は船の前からではなく、むしろ甲板こういたの真上から襲い掛かってきた。


 滝のような水に打たれ、しがみつく俺も引き剥がされそうになる。結わえた綱に腰を強く引かれかろうじてこらえたが、そのまま水の中に、木花の船身ふなみは全て引きずり込まれてしまった。


 水の中はくらい。目を見開いても、なにも見えない。かろうじて木花帆このはなほの輝き、そして竜骨の狐火を感じるだけだ。全てのものを巻き込み打ち壊さんとする冥府の水の轟きを、今は総身で受けている。


 四方から押し寄せる流れに耐えながらの息堪えは、とてつもなく長く感じた。


 長い。

 長い。

 まだ水から抜けられない。


 木花は海に丸呑みにされ、遥か水底まで沈みつつあるのかもしれない。手練てだれ船人ふなびとである俺ですら、もう息が続きそうもない。アサルは息をこらえられているだろうか。そして皆は。


 そう思い女神に祈った刹那せつな、その永遠を突き破るように波を叩き斬り、舳先が外に出た。鳥居に太い稲光が落ち、尋常ならざる音を上げる。そのまま馬の仔が産まれ落ちるように、船腹ふなばらが波を砕き抜けた。


 木花は、そらに跳び出した。船身ふなみは左に傾いている。ようよう息継ぎすると、横を見た。傾いた船のずっと下に、水面みなもが覗いている。冥府の使いの如き沖津波を潜り出たのだ。もはや我らは船ではない。空飛ぶ鳥だ。宙を舞う。


 繰り返し暴れ続ける稲光を受け、遥か下の水面が、白く泡立っている。


 あそこに落ちて行くのか――。そう思った。恐れではない。むしろ激しいたかまりを感じた。思わず叫ぶ。


「来い。悪鬼よ、冥府の使いよ。俺も船人も、逃げ隠れはせん。神木船を叩き壊す気で戦いに来い。俺達は全て受け止め、なんとしてでも打ち勝ってみせる」


 その刹那せつな、天への未練があるかのように、木花はそらに止まった。太い稲光が今一度どこやらに落ちると、舳先へさきが下がり、ゆっくり水面へと吸い込まれ始める。どんどん海が近づいてくる。近く。また近く。もっと近く。


 耳も割れそうな轟きが響くと、体を床に叩き付けられた。木花が、空から海へと戻ったのだ。転がされた体を追って、海の流れとも雨ともわからぬ水が、滝のように強く俺を叩く。恐ろしい勢いで、あちらこちらへと転がされた。結わえた綱で強く腰を引かれ、あまりの痛みにうめいた。


 大揺れに揺れ、甲板こういたからも船腹からも悲鳴のような軋みが聞こえた。甲板からは滝のような勢いで水が海へと流れ落ち、暗闇に逃げ帰ってゆく。


 皆、皆は無事か――。


 足下に倒れた源内が、起きようとしていた。


 舳先へさきを見た。筈緒はずおにぶら下がったまま、アサルは空で揺れていた。結びを解き宙吊りを抜けようと暴れている。頼もしくも大綿は、筈緒を掴んで先帆の操りに戻っている。箱に身をくくった写楽は、波に洗われ樽と箱に挟まれもがいている。


 ともを見ると、筈緒を掴んだままの夜儀が横倒しになり、ごろごろ転がっている。津見彦は見えない。いや見えた。木花帆の滑り車の陰で、うまく乗り切ったようだ。


 もう一度舳先に目を移す。あれほどの大波はもう見えない。ただ荒れ海は、まだ果てしなく続いている。空からは稲妻があちこちの水面を襲い、強い光を放っている。空から勢い良く落ちたあおりで、船は大きく右左みぎひだりに揺れている。


「立て直せ。今のうちだ」


 手をぐるぐる回して叫ぶ。舳先で大綿が手を振って応え、先帆を強く張った。先帆の動きを見て、夜儀もまた、木花帆を凧のように操り出した。


「勝ったぞっ」


 常ならざることに、夜儀──鼠小僧次郎吉ともあろう食わせ物が涙を流し、叫んでいる。


「後を頼む」


 頷く源内を残し、舳先に進んだ。左の筈緒に絡まれ苦しんでいるアサルを解き放つ。側でおろおろする写楽を殴った。


「馬鹿者っ」


 写楽が倒れ、樽に体をぶつける。


「お前はアサルと代わって綱を操れ」


 目を伏せ黙ったまま、写楽が左に飛び付いた。大綿が早速細かく指示を出し、筈緒を引かせ始めた。


「よくやった、アサル」


 俺の腕の中で、奴隷は荒い息をついている。


「死ぬかと……思った……ぞ」


 なんとか微笑んでみせた。


「水の中で、鳥……居に立った女神が見えた。白い衣で、船を護るように手を拡げ……」

「幻を見たのだ」

「いや幻ではない。あれは……」


 口を開いて、もごもごなにか言おうとする。


「いいから来い」


 手を引き、転ばぬように気を配りながら潮見の間に戻った。


「どう見る」


 入るなり叫ぶと、源内は、空と波、風の気色を探った。


「波は荒い。だがあれほどの大波は来まい。あれは幾つもの波が遠くから来たるみちで追いつき重なった化物よ。冥府の神の呪いかもしれん。……それに雲が変わった。乱れ雲が減り、上に引いている。峠は越えたのではないか」

「よし」


 星辰櫓せいしんろに上がり、舳先、そして艫の船人に、峠を越えた旨伝え、落ち着かせる。船人は皆、勝鬨の雄叫びを上げ、腕を振り回して天に抗うように突き出した。

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