十一之四 沖津波
命の望みの帆掲げを得て、船人の意気は上がった。神の帆に風を受け、わずかに船の動きに落ち着きが増している。
「写楽、今ならできるはず。先帆を半ばまで張り戻し、船を平らげよ」
「お、おうっ」
震える声で答えると、大きく揺れる甲板を、なんとかよたよたと舳先に向かい這うように歩き始めた。その姿を、今はもう始終あたりに落ちている稲光が時折照らし出す。この嵐では、帆を操る船人が流され海に消える事が、存分にあり得る。源内と大綿はここに残し操りの決め事を助けさせ、もしも夜儀か写楽を失ったら、そこに走らせる。
「源内、どう思う」
眼鏡を袖で拭い、源内が風と波を読む。その顔は木花帆と稲光、救いの輝きと冥府の輝き、双方に代わる代わる照らされている。
「木花帆は、小さくとも船を進める力が大きい。今はそれを船を安らかにするのに使っている。船の後ろから風で押すわけだが、神のご加護で動きは乱れん。竜骨もあるでな」
写楽が先帆を張るのを、じっと見つめている。
「先帆が木花帆とうまく動きを揃えられれば……。そう。それさえできれば、乗り切れるやもしれん」
切り札の木花帆を張っても駄目なら、いよいよ一の帆の帆柱を叩き斬るしかない。命倒しの斧をそれぞれ抱えた俺と大綿は、いつでも飛び出せるように身構えた。柱の
冥府の神の思し召しか、その後、波はますます高くなってきた。すでに波の底に沈んだとき、
夜儀が自らの全ての技を用い、木花帆を少し狭めたり筈緒を操ったりして船の揺れを少しでも和らげようとする。先帆の写楽は、
そのとき、稲光で明るかった船の前の海が、急に暗転した。見ると空の半ばまで黒い壁が広がっている。黒い壁はどこまでも黒い。目に墨を流し入れられたのかと疑う程。ずっと上まで頭を上げると、空を縦横斜めに飛び回り荒れ狂う稲光が、遥か上にかろうじて見える。
「なんだあれは……」
大綿が呟く。雨が入り痛むので、目を大きく開けられない。目を細めるようにして、前を見通す。
「源内っ」
「判じられん」
傍らのアサルを見た。手すりにしがみつき、倒れないよう踏ん張っている。
「アサル」
「わからん。なにか、神か悪鬼の呪いではないのか」
大声で答えてくる。
目の前に広がる試しなき
やがて、黒い壁が細々光り出した。近くなって、木花帆の明かりを受けたからだ。あれは――。
「……あれは波ぞっ」
「高波だ」
「巨浪……」
「
口々に叫びが上がる。たしかに波だ。しかし、空の半ばまで高い沖津波など、与太話でも聞いた試しがない。考えすら及びもしなかった。
「いかん、沈むぞっ」
常に
「波から逃げず、頭を向けて突っ込むしかない」
源内が叫び返した。
「万にひとつ、それなら助かる」
波を恐れ逃げようと横を向いてしまえば、波に呑まれ木花は覆して沈む。しかしこの大波に頭から突っ込むのは、いかな歴戦の船人と言えども恐ろしい。なにしろまっすぐ突っ込んですら、頭からひっくり返されそうな高さなのだ。
波は徐々に近づいてきた。今はもう、ただ高いだけでなく、こちらを飲み込もうと大きく口を開け、上の上まで巻いているのがよくわかる。波の先は白く泡立ち、稲光と木花帆の輝きを上下から受け、油のようにてらてら輝いていた。
突っ込むしかない――。誰もがそう思った刹那、先帆の写楽が持ち場を離れ、手近の箱に体を縛り付け始めた。
「筈緒を放すなあっ」
叫んでも聞こえないのか、気づかない。船が腹を見せ沈んだとき、箱で漂い助かるつもりなのだろう。操り手を失った先帆がばたばたはためき、船は頭を右に傾けつつある。
そのとき、先帆を見つめる俺の目の片隅に、舳先に向かい駆け出してゆく人影が映った。アサルだ。小柄な体で、大きく揺れ濡れて滑る甲板をものともせず、一目散に先帆を目指している。
「大綿っ。ここは任せた」
「おうっ」
アサルに続いた。揺れに叩かれ、あちこちに体をぶつけながらアサルの後を追う。ようやく辿り着いたとき、アサルはすでに筈緒に飛び付き、見よう見まねで帆を操り始めていた。
「右を寄こせ」
アサルから右の筈緒を受け取ると、強く引く。
「お前は左だ。俺に合わせろ」
「わかった」
ずぶ濡れの顔で、アサルが笑う。
「菩薩の笑顔だぞ、アサル。いい女だ」
「今頃気づいたのか。遅いのう、我が主様よ」
怒鳴り合い笑い合いながら、先帆を操る。思い切って、先帆を全て拡げた。悪鬼のような風に、帆布は千切れそうだ。帆柱と帆桁が、考えられないほどたわんでいる。
木花は、急ぎ足で舳先を波に戻し始めた。振り返ると木花帆の夜儀が、こちらに合わせ、帆の向きを細かに変えている。手を振ると大綿が飛んできた。先帆を大綿とアサルに任せ、潮見の間に戻る。
「津見彦、お前は夜儀を手伝え」
「わかりました、頭」
座り台にしがみついていた津見彦が健気に答える。
「いいか、波を越えるとき、夜儀が海に落ちるかもしれん。そのときはお前が帆を操るのだ」
「はいっ」
「怖くないか、死ぬるのが」
「誉れです」
それだけ言い残すと、這うように
「潮見の間に、縄で体を強く結べ」
源内に告げた。
「わかっておる、天津殿。儂を誰だと思っておる。……それより見よ、あの美しい暴君の波を。これは書き記して河豚に持たせねばならんのう」
うっとりしている。
「河豚を食っておきたかったのではないか」
「あれは忘れろ。世迷い言だ」
いよいよ波が近づいてきた。
波に持ち上げられ、木花は、舳先をぐいと空に向けたまま上へと吸い寄せられてゆく。波の上へと運ばれるに従って、舳先があり得ないほど上を向いてゆく。
舳先の前に、もはや空はない。覆い被さった大波が黒々と、ゆっくり近づいてくるだけだ。暴れ風が吹き荒ぶ音や激しい雷鳴は、すでに波の奥から聞こえてくる海鳴りの轟きに掻き消されている。腹の底から揺さぶられるような低い音だ。
後ろを振り返ると、遥か低いところに水面が見えた。木花帆を夢中で操る夜儀と津見彦の後ろでは、大波が
「波を被るぞ。皆、帆を捨て、体を結わえよ」
聞こえないとは知りつつ、叫んだ。波が襲い掛かってくる。舳先に当たった大きな白波が舞う。海の神が操る
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