二、 鶯春堂

 鶯春堂おうしゅんどう 滝沢たきざわ七緒ななお


 改めて差し出された名刺にはそう記されていた。


「――へぇ。ここで言うのもなんだが、鶯春堂っつーと版元の最大手じゃねぇか。やるなぁ、姐ちゃん」


 さりげない香を纏った上質の紙片を前に、机に寝かされたハチは感嘆の声を上げる。


「そんな、それほどでも」茶盆を持ってきた七緒ははにかむ。


「先輩方に比べたら、私なんてまだまだです。勉強することばかりで」

「はー。なんとまあ、しっかりした姐ちゃんだこと。お前も見習えよ、八字」

「…………」


 なぜ喋る矢立との会話が成立しているのか、それ以前に、なぜ矢立が当然のごとく会話に加わっているのか、八字にはわからなかった。


 細腕からは想像もつかない怪力に引きずられ、八字が連行されてきたのは、桜都おうと二本橋にほんばしに暖簾を掲げる「鶯春堂おうしゅんどう」。彫師に摺師、数多くの職人を抱え、誰が言ったか「ちり紙も 元をたどれば鶯春堂」。刷ってないのは紙幣だけ、と続くように、紙――すなわち書に関しては右に出るもののいない、桜都が恵土えどであった時代から続く老舗だ。


 創業三百年余りの大店でありながら、その意気は新進気鋭。遷都の動乱を切り抜け、慣習にとらわれることなく時代の潮流に乗り、当代に至っては殊更大胆に事業を拡大してきた。


 若き日は式士しきしの子息らに混じり士学院しがくいんに籍を置いたこともある女主人は、その腕っ節もさることながら雅事にも通じ、八字が通された先、小洒落た応接間も彼女の手によるもの。壁に沿って設けられた座敷は間仕切りされ、それぞれ掘り炬燵を囲む半個室の体をなしている。卓上の花瓶には黄色い蝋梅の枝。毎朝主人手ずから取り替えているという。


 採光のため設けられた丸窓の向こうは冬の桜都の往来。町人たちの袷羽織が寒風に翻る横で、桜花紋を背負った式士たちの黒い外套が重々しく通りを行く。


 机の木目に目を戻し、八字は掘り炬燵の中で所在無く足をぶらつかせる。


「じゃあ、となると、あれか。姐ちゃんが仕事でこのヘタレを呼びにきたってことは――、お前、無職の昼まで寝太郎じゃなかったんだな」


 冬日に金の身体を輝かせ、ハチが言う。墨壺には優美な首のしなりの鶴。


「見るからに無職で悪かったな」


 八字が口を尖らせると、七緒は鈴を転がすように笑った。


「そうよ、ハチさん。八字君は売れっ子作家なんだから」

「本当か、それ」目を見開くような声音でハチ。

「ほんとほんと。最初に出した本なんか、うちの歴代三位に入るほど売れたんだから」

「ははぁ、お前、すごい奴だったんだな。てっきりただのダメ男かと」

「……大昔の話」八字はそっぽを向く。「今は違う」

「またまた。そんなこと言って」宥めるように、七緒。

「毎回そうやって逃げるけど、今日こそは逃がさないから、」


 ね? と七緒が笑んだとき、ひらりと長暖簾が分かたれた。


「やあ八字。久しぶりだな」


 年末年始は無事に過ごせたか? 現れた背の高い艶麗な女は、八字も知る鶯春堂の女主人、音羽おとわだった。


 音羽が紫煙を吐き出すと、上質な檳榔子黒びんろうじぐろの羽織の表で鶯が首を傾げ、梅の枝の間を飛び遊んだ。桜錦おうきんという特殊な反物の中でも「あそびにしき」と呼ばれるもので、織り込まれた桜式おうしきの作用で、まるで生きているかのように絵柄が動く。金に困らない上流の商人が好んで身に纏う、庶民には決して手の届かない代物だ。茶でもこぼしたら大惨事だと、八字は新年の挨拶もそぞろに、震える手で湯呑みを引き寄せる。


 切れ上がった目を細め、七緒の隣についた音羽は、卓上の矢立に目を止めた。「おや、誰のものだ?」


 当のハチは答えず、代わりに七緒が遅れて答える。「八字君のです」


 へぇ、と女主人は矢立を手に取り、鈍い冬の陽に透かした。底知れぬ歳月が染みこんだ金色の上を、ちらりと赤い光が掠める。


「――精緻な金細工といい技術は至巧のそれだが、美的感覚が皆無だな」


 ややあって、音羽は所感を述べた。


 あはは、と一拍遅れて七緒は顔を引きつらせ、八字はかさついた唇にこっそり笑みを含ませた。小さく「うるせぇよ」と声。


 矢立本人の声が聞こえているのかいないのか、音羽は続ける。


「墨壺に鶴。そして亀。軸は流れる水に紅葉の錦。尻にはひょうたんが六つ。これは六瓢むびょう――すなわち『無病』ということだな。一つ一つは見事だが、全体で見ると詰められるだけ詰め込んだようで統一感がない。特にこの紅玉の象嵌なんかは今までに見たことがないくらい美しいんだが、残念だな」

「つ、鶴は千年亀は万年って言いますし、その『無病』と合わせてとても縁起が良いんじゃないでしょうか……? 長生きと無病息災で」

「それなら、軸のところがどうして紅葉なんだって話にならないか? これは私の解釈だが、鶴と亀が長生き、転じて『不変』『永遠』を表すものなら、季節ごとに色の移ろう紅葉は辻褄が合わない。せめて常緑の、たとえば鶴にかけて松とか、紅玉にこだわるなら、六瓢と合わせて南天とか柊とか。南天は『難を転じる』、柊は魔除け――病魔を払う、という意味でな。まあ、そこらの店に並べるために作った、という前提があっての話だが」


 七緒が気を遣うも、音羽は得心がいかない、という顔だった。


 ほら、お前のなんだろう。音羽は査定が済んだ品を八字に返す。八字は気の毒とは思いつつも他人事には違いないので、どうも、と素知らぬ顔で矢立を受け取り、懐にしまった。微かな声で「好き勝手言いやがって」と聞こえた気がした。


 審美眼は確かなものの、あくまで商売前提の厳しさがあるのが音羽だった。音羽は備え付けの皿に煙管を置くと、「さっそく本題に入るが」と前置きし、百戦錬磨の武者を思わせる太い笑みを浮かべた。


「新作を書け。八字」


 瞬間八字は絶叫した。今まさに頸に手をかけられた鶏がごとき叫びはまさに断末魔。


 その場で跳び上がった勢いそのまま四つ足をつき奇声を上げ逃げ出そうとした八字の帯を、すかさず音羽が掴んだ。不摂生故の虚弱な体躯に解けゆく帯を引きとどめる箇所などなく、腕をすり抜ける鰻がごとく、八字はするりと帯の輪から抜け出した。


「嫌ァ――――ッ!! 嫌ァ――――ッ!!」

「締め切りは……そうだな、春にしよう。四月一日の桜花節。ちょうどお前の誕生日だろう。二十七だったか。十周年祝いに、盛大に花見でもしようじゃないか」

「嫌ァァァァァァァ――――ッ!!」


 遮二無二足掻きながら逃げ出そうとしたために着物は乱れ、床に転がり高音の悲鳴を上げる八字はもはや半裸の態だった。運悪くその場に居合わせた者たちは、突如現れた怪異にも等しい存在に騒然とする。恐れて半個室から出てこない者、暖簾から引き攣った顔を覗かせる者。平然と打ち合わせを続けているのはごく少数、鶯春堂の中でも八字喜多八郎を知る者のみ。


「おい。やめろよ、いい歳して。みっともねぇぞ」


 懐から転がり出たハチが囁く。「うわ、べそかいてやがらぁ」


「嫌ッ、嫌ッ……」


 八字の心情を知ってか知らずか、音羽は帯を片手に、豪快に声を上げて笑っている。


「そんなに嬉しいか、八字。なに、難しい注文はしない。好きに書いてくれ。なるべく、派手で格好が良いのを頼むぞ。『刀』が出てくればなお良しだ」

「ぐひぃ、ぃぃ、ひぃぃん」


 食い縛った歯を歯茎ごと剥き出しにし、八字は啼いた。口も、腕力も、財力も。音羽に抗える要素は何一つとして存在しなかった。

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