桜花國物語 〜ヘタレ文士と矢立の付喪神!?〜
仲原鬱間
第一幕
一、 矢立の付喪神
かなしきほどに軽きわが髪秋の櫛
この句を最後に、その薄命の歌人は世を去った。
歌人の名は
三百と四十年ほど昔、まだ
○
――夢を、見ていた。
漆黒の闇の中、炎は赫赫と、呪いにも似た執念を孕んで燃え続ける。
熱い。熱い。無音の唸りを上げ踊る炎が迫る。火焔に化身した呪詛が、呪縛が、祈りが、命を賭した願いが、無明の闇を赤く紅く焼く。
乾いた音がして、夜に降る雪のように火の粉が舞った。
ねぇ、死んじゃうよ!! にわかに恐ろしさが膨れ上がって、思わず叫ぶ。
早く、早く逃げようよ!! 死ぬって!! ねぇ!! 喉が焼けつくようだった。必死に呼びかけるも声は届かない。
馬鹿!! 死ぬじゃん!! 泣きそうになりながら手を伸ばすも、炎の壁に阻まれる。まだ少年の面影の残る男は、無情にも業火に飲まれていく。
――目の前が紅く染まる寸前、青年がこちらを向いた。いかにもお人好しそうな相好。苛烈に燃える火焔を映し、爛々と光る瞳が――おそらくそれが彼の生来の表情なのだろう――少し呆れた風に、しかし優しげに細められた。
全てが赤く塗り潰され、熱に後じさる。ふとぶすぶすと音が聞こえて振り返れば、尻に火がついていた。
うわ燃えてる!! 熱っ!! 熱い熱い――
「
断末魔の叫びを上げて、
間髪入れずに薄い壁がどん、と鳴り、うるせぇぞ!! と壁越しに怒声が飛ぶ。ひぇっ、と情けない声を上げ縮み上がった八字は、そこでようやっと、夢から醒めたことを悟る。
目の前に広がっているのは、何の変哲もない自宅の風景。おんぼろ長屋の、四畳半。汗だくの身に隙間風が染み、万年床の上で八字は身震いする。七日正月も過ぎた、一月八日。静かな睦月の冷気がどこぞより忍び入り、丸めた鼻紙をかさりと転がした。
一体、何の夢だったんだ。八字は何故か濡れている頰に手を遣り、
「よう、やっと起きたか。もう昼間だぜ」
「うるさいなぁ……いつまで寝てようと人の勝手でしょ――」
そこまで応えて、飛び上がった。絶叫が裏長屋を震わせる。
うるせぇぞ馬鹿野郎!! 壁を突き破らんばかりの怒号が轟く。
抗議に対応するどころではなかった。八字は四つ足をつき、蜘蛛のようにバタバタと這い逃げた。
「なっ、ななななな何だお前!? どっどどどこの誰だ、コココ、コラァ!?」
冷たい土間で縮こまり、声を裏返しにして叫ぶ。
「……なんだぁ、お前。なぁんにも覚えていねぇのか?」
返答があった。若い男の声だった。
八字は今すぐにでも逃げ出してしまいたい心地だった。
そんな八字を、ふ、と呆れ笑って、声の主は続ける。
「――俺ァ、ハチ。ちぃと珍しい、矢立の付喪神さ」
薄らと日の差す室内、脱ぎ捨てられた羽織の上に、見事な金細工の矢立が鎮座していた。
「つ、付喪神ぃ!?」
素っ頓狂な声を上げると、そうとも、と返事。
「モノも百年生きればカミの末席。俺みてぇな矢立も例に漏れず、末席をお汚し失礼つかまつる……ってお前、自分で持って帰ってきたくせしてソレはなくねぇか?」
八字は塩を撒いていた。悪霊退散悪霊退散、と唱えながら、小さな壺からひとつまみずつ丁寧に投げつけていた。
「身に覚えがない!! お前みたいなやつ知らない!! 出てって!!」
「この付喪神様を悪霊扱いとは、
「してません!! 断じてしてませんでぎまぜん!! だがら出でっでお願い!!」
憐れなまでに縮み上がった八字は、今にも落涙せんばかり。
「うおああああああお化け怖いよーっ!!」
「お化けじゃねぇっての」
「
そんなやり取りをしていると、八字の背後、年季入りの戸ががん、と蹴り上げられた。
「てめぇ八字ぃ!! 今日こそはきっちり耳揃えて酒代払ってもらうぞー!!」
八字は口から心臓が飛び出そうなほど驚き竦んだが――実を言うと小便も少し漏らしたが――すぐさま冷静になって口を塞いだ。
扉の向こうにいるのは酒屋の
未払いなのは今月の分、と先月の分。と先々月の分。よくぞここまで待ってくれたと感謝する反面、家賃すら危ういため今月も無理、と心中で謝罪する。
絶対に喋るなよ。八字は室内の矢立に無音で伝える。しかし、
「はいはーい、払いまーす!! ちょっと待っててくださーい!!」
矢立のハチは躊躇わず声を張った。「すぐに出まーす!!」裏声で。
「貴様あああああああ!!」
八字は部屋に駆け戻ると尚も声を上げ続ける矢立を引っ掴み、万年床に埋めた。「黙っとけって言ったよなぁ!? 黙っとけって言ったよなぁ!?」
「払いまーす!! 僕払いまーす!! おいコラ乱暴するな墨ぶちまけるぞ」
「八字ーッ!! 早く出てこーい!!」
「はぁい今用意してまーす!! あとちょっとだけ待ってくださーい!!」
「この野郎ォ!!」
と、ふと表が静かになった。何回かやり取りがあった後、爺の上機嫌な「じゃあな」が聞こえてきた。
年単位で敷きっぱなしの布団を押さえつけながら、八字は疑問符を浮かべる。「帰った……?」
その直後、手荒い人間が多いせいでろくな扱いを受けたことのない戸が、軽快に三度叩かれた。
「八字くーん!! いるー!?」
聞こえたのは瑞々しい張りのある、乙女の声。「八字くーん!!」
玲瓏と響くその声を耳にした瞬間、八字の顔が凍りついた。
矢立は器用にも、ひゅう、と音を鳴らす。
「お、女か。やるじゃねぇかお前。いるぜー!!」
「いませんっ!!」
嬉々として応えた矢立を万年床から放り出し、今度は自分が布団に閉じこもる。
「痛ってて……粗末に扱うんじゃねぇよ」
「いないからいないから。八字喜多八郎とかいう屑はどこにも存在していませんからお願い」
ささくれ立った畳の上でハチは抗議の声を上げる。しかし八字は頭から布団をかぶって動かない。呪文のように何か唱えている。僕ぁゴミクズ糞野郎なんです、とか何とか。
「……何だぁ、そんな縮み上がって。出てこいよ。お前の女じゃねぇのかよ。――あ、もしかして昔の女房とかか? 散々尻に敷かれて苛められた挙句離縁したとか? 座布団みてぇな
可哀想に。矢立は布団の小山に哀れみを垂れる。
「違うの」か細い声で八字は否定する。「でも、会いたくないんです」
はぁ、と矢立は肩を竦めるよう。「けどお前、会いたくない、つってもよ――」
「――八字君っ!!」
朗々と声が響いたかと思うと、八字は白日の下に晒された。
「昨日の晩、鍵閉め忘れてたぜ」
無用心なこった。布団を奪われ、陽を浴びた団子虫のような体でひっくり返る八字に、その声は届いているのかいないのか。八字は最後の抵抗とばかりに身体を丸め、耳を塞ぐ。
しかしその抵抗も、彼女を前には無用。
「やーじーくーんー!? ご在宅ならちゃんと返事しましょうねー!?」
上品な撫子色の袖が伸び、凄まじい腕力で、八字は万年床ごと宙を舞った。
「うわ、くさ」巻き起こった埃と風を浴び、矢立が言う。「中年のにおいだ」
「……もうみんな出てってよぉ」
数年分の塵芥が堆積した壁際、しみったれた着物を纏うだけとなった八字は顔を覆う。
そこだけ見事に色が違う万年床跡地に立つ妙齢の女は
「もう! お正月もずーっと音信不通で何かあったのかと思って来てみたら、元気に昼まで寝て! 私の心配を返してよ! おまけにお酒代まで踏み倒そうとして!」
「――違う!! いつか払うつもりだったの!!」
手をどかし、思わず叫んだ八字は、
「へぇ、そう」
静かな声で言い放った女の笑顔に凍りついた。今日の帯には蝶々が飛んでる、ちょうちょ、ちょうちょ、可愛いな、と平和な方向へ思考を逃がす。
緩やかに弧を描く、形の好い眉。二重まぶたの、くっきりとした目元は意味深に細められ――桃色の唇の端が上がる。
「……いつか払うつもりだった、ねぇ。連絡も寄越さないで居留守まで使って、一体どんな秘密のお仕事をしてるのかしら。強くもないのに毎晩呑んで、稼ぎがあるなら酒屋のお爺さんに早く返してあげなさいな。私だけならまだしも、
――ねぇ? 話の途中で八字は立ち上がり、その場に正座した。話を妨げないよう静かに着物の襟を正し、そして女が言い終わるのに合わせて頭を床につけ、
「ごめんなさい」
それは美しい姿勢で土下座した。
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